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6.ご苦労様です

 智之と初めて出会ってから2年が経った。

 智之は、言葉を話し始め、歩き始めていた。

 そんなことだから、遠山の仕事がひとつ増えたようなもので、育児に、仕事にと一層忙しくなってきていた。

 昼間は、智之の相手をしていて、夜中はずっとコンピュータの画面で作業をしているということも少なくなく、外から光が漏れてきて小鳥のさえずりを聞くのも週に何度もあった。

 それでも、智之の顔を見ると疲れがどこか地球の裏側へでも飛んでいくのが目に見えるかのように分かった。

 あまりに忙しくて、和美がフリーな日は、極力来てもらって遊んでもらうことが多かったから、智之も「おねえちゃん」と言って、和美に懐いていた。

 その和美は、全く嫌な顔ひとつせず、むしろ楽しんでいるようだった。

 我が家に太陽が昇った。


「おじさん、智之を保育園に入れないの?」

 和美が、ある日、智之が昼寝をしているときに、仕事中の遠山に「大事な話があるからちょっと時間いい?」と言って始まった会話だった。

「え?」

「だって、おじさん、忙しそうだし」

「そりゃそうだけど」

「目の下にでっかいクマ出来てるの知ってる?」

「ん?」

 遠山は目のした辺りを摩った。触って分かるものではないけれど、皮膚が以前よりもハリがなくなっているのは分かった。

「頭では疲れてないって思ってても体は疲れてるんだと思うわ」

「そうかな・・・」

「そうよ。それに、保育園に行ったら智之にしたって友達が出来たり楽しいと思うの」

「そうか、そうだよな」

 遠山は、自分が少し単純になったと思った。これも歳をとったせいであろうか。

「そうよ、絶対そう。これは二人のためにいい結果になると思うの」

「なるほど」

「それに・・・」

「それに?」

「私ね、幼稚園の先生になるの」

「すごいじゃないか」

「うん、ありがと」

「やっぱり和美ちゃんはベビーシッターなんかよりもそれを最初からやりたかったんじゃないか?ごめんな、最初の頃、拘束しちゃって」

「ううん。あれもいい経験になったし、こうして、智之とも仲良くなれたし、私は後悔しているどころか、名残惜しいくらいよ」

「そうか、それならよかった」

「だからね。あんまりここに来られなくなってしまうと思うの。智之を保育園に入れるとしたら今年の春からでしょ?私もちょうど今年の春から働き始めることになるからそれまではここに来れるけどね」

「いやいや、そんなに何度も来てもらっちゃ悪いよ」

「私は、おじさんのためにここに来ているというのもあるけど、やっぱり智之のことが心配だから。それに、おじさんがこんなところで倒れてしまったら大変だからね。智之のためにも無茶しないでよ」

「はいはい」

 和美が言いたいことを言い終えたと思ったら、智之が起きて来た。

「ああ、起きちゃったのね」

 ちょっと声が大きかったかもしれないと遠山は若干ながら反省していた。

 どうも、和美と話をするとき、声を大にして騒ぐようなことが多いような気がしていた。

 でも、どれもこれも、智之に対する話題で、だからこそ、二人とも真剣になる、そのためなのだ。



 一旦、ここまで!と目標を定めると案外大したものではなくて、遠山は時々ふらふらの頂点に達することはあったが、その山の向こう側へと転げ落ちていくようなことはなかった。

 その勝因は、智之の存在が大きかった、と言いたいところではあるが、和美の協力のおかげであることは決して忘れてはいけなかった。

 遠山の仕事のほうは、顔を知らない仕事仲間が増えたり、仕事の依頼が多くなったりしていた関係で、智之が保育園に行くというのは以前考えていた、ちょっと寂しくなるんじゃないだろうか?というようなある種の悩みを吹き飛ばし、助かる、と反対のことを考えていた。

 気がついたら、朝、和美に今日は来られるのかどうか電話をする回数も多くなっており、智之に構ってやる時間が十分にないことを露呈していた。

 和美は、そんな遠山に対して、文句ひとつ言うことなく、笑顔で玄関に現れた。

 遠山は、本当は毎日でも来てほしかったが、表面上は、今日は大丈夫なのか?と繕っていた。和美はそれを知っているのか、知らないのか、分からないが、そんな探りを入れる暇すら、もはや遠山には残されていない。

 遠山の仕事部屋からは、ハムスターの回し車のように忙しく回るコンピュータのファンの音と、キーボードを叩く音が響いていた。


 休日は、仕事を休みにする


 これは智之が保育園に行き始めてから、和美が幼稚園の先生になって遠山の家へ以前のように頻繁に来なくなってから遠山が決め事として自分に課したものだ。

 人間、口で言っただけでは聞きそうにないということを重々承知であるので、達筆なフォントで描かれたその文字をコンピュータからプリントアウトして壁に貼っておいた。


 そんなわけで、週末になると、土日を休みにするために、金曜日は徹夜同然で自室に篭りっきりだった。もちろん、智之を寝かしつけてからのことであるのだが。

 金曜日のオールナイトワークを終えたら智之と遊ぶ時間が待っている。これは、なにより仕事の疲れをはるかかなたへ葬り去る力を持っている時間だ。この日ばかりは、遠山のコンピュータも暇をもらえる。


 朝から、朝食を作り、あまりに智之が起きて来なければ起こしに行く。

「こんな年齢から、寝坊癖をつけちゃならんからな」

とか、なんとか智之にぼそりと言うのであった。

「おとふぉさん、ふぉふぁよお」

と、眠い目をこすりながら、パジャマが乱れた智之が起きてきたところから、遠山の休日は始まる。

 二人で、トーストと目玉焼きのごく普通の休日の朝食を済ませる。

 このときに、智之は、平日ほとんど遠山に話すことが出来なかった、保育園でのあれこれを「あのね、それでね、えっとね」と所々で呼吸を整えつつ、興奮しながら言うのだった。


「これぐらいの年齢の子は、あったことを全部、親に話したいものらしいの」

「ほお、そうなのか」

「それでね、ただ聞いているだけじゃダメ。ちゃんと反応してあげないと、おじさんの会社の部下の社員さんたちよりも敏感に、お父さん聞いてないな!ってのが分かっちゃうみたいよ。だからね、智之と遊ぶときは仕事のことは忘れて、ちゃんと接してあげなきゃダメ、いい?」

 さすが、和美は幼稚園の先生になっただけあって、子供取り扱いスペシャリスト的な感じになっていた。

 その他にも、目を見て話せだの、視線を合わせろだの、色々と注文を加えていた。

「ちょっと待って、メモ、メモ・・・」

「もう、メモなんかしないで覚えなよ。仕事のマニュアルじゃないんだよ?」

「そうか、すまんすまん」


 遠山は、和美とのやり取りを思い出しながら、決してメモを見ながらではなく、智之の話に耳を傾け、いいタイミングで「おお、すごいじゃないか!」「やったな!」「それで、それで?」「今度はがんばろうな!」などとコメントするのだった。

 そのコメントを聞くと、智之はだんだんと笑顔になって、一週間、溜まりに溜まったよかったこと、がんばって出来たこと、先生との話、友達の話、悲しかった話など、なんでもやった。

 この様子だと、近所の居心地のいいところで「あらやだ、こんな時間」というまで噂話や、いい店紹介、他人の話、子供の話に花を咲かせる主婦と同じくらい話し続けそうな勢いだ。


「いい?退屈しても、絶対に話を切ったりしたらダメよ?」


 そんな和美の忠告は全く不要だった。

 だって、本当に楽しそうに話をしている智之を見ていると、どんな面白い漫才を聞いているよりも面白く聞こえたし、興味深かった。遠山の知らないところで、智之はこんなに成長したんだ、なんて他人事みたいで親失格だろうか?


 休みごとに、テレビを見たり、買い物に行ったり、動物園に行ったり、水族館に行ったり、ゴールデンウィークにはちょっとした旅行に行ったりしたのだけれど、ほぼ毎週欠かさなかったのが、公園に行くことだった。

 公園は、家からぎりぎり歩いていけるくらいの距離にある。実際、遠山1人だったら自転車がミニバイクで行くだろう。

 砂場と広場、ブランコ、滑り台、ジャングルジム、鉄棒があるくらいのどこにでもあるような公園。ベビーカーのときに時々行った公園。そこに行けば、智之の友達がいた。

 せっかく智之と二人で過ごせる時間なんだから、いつでも遊べる友達と遊ばせるのはどうなのか?と自分に問いかけてみたことはあったのだけれど、このポカポカとした陽気の中、ベンチに座って、楽しそうに遊んでいる智之を見ながら本を読む時間も格別だった。

 こんな遠山を智之は嫌っているはずもなく、綺麗な花を見つけてはそれを摘んできて、遠山の横に並べたりする。

 またあるときは、ブランコを後ろから押してもらって楽しむこともあった。

「こ、怖いよ、お父さん」

 最初は、加減が分からず、智之にしては力いっぱい押されて、ブランコが飛び出してしまったのだった。

「おお、ごめん、ごめん」

と言って、駆け寄った遠山の腹に智之はダイブしてきた。

 ドスン

 実に久しぶりの尻餅をついた瞬間だった。

 智之はそれを見て笑っていた。


 本当に、時々であったが、遠山は、夕方に智之を公園に連れてくることもあった。


 夕方に公園に行ったら、いつも若奥様といった感じの新米主婦達がたくさんいた。

 子供達が遊ぶのを見ながら彼女たちは話に花を咲かせるのだった。

 終いには、子供達が、「ねえ、ママ、帰ろうーよー」と言うまで話し込んでいたのだった。

 そんな夕方の公園に数えるほどしか足を運んでいないときだったが、本を読んでいる遠山に新米主婦達が恐る恐る近づいてきて、話しかけた。何か、機嫌を損ねたら怒って襲い掛かってくる肉食獣にでも近づくかのように。

「あの、智之君のお父さんですよね?」


 それ以来、夕方の公園に行くと、主婦達に混じって主夫が話に参加するようになっていた。最初こそ、お互いがどんな会話をすれば良いのか分からなかったのだけれど、なんというか、飛行機が離陸してからのように何気なく、当たり前のように、話が軌道に乗る。そのあとは、主婦と主夫の垣根を越えてのおしゃべり大会が始まる。

 何度か、智之が「お腹空いた」という言葉で静止に入ることもあった。


 遠山がこの主婦たちから得た一番大きなものは、料理だった。

 今までは、スーパーでコロッケを買ってきたり、ハンバーグを湯煎したりと、いわゆる、ショボイものしか出来なかったが、アドバイスの成果もあり、智之が「うん、まあまあかな」と偉そうに言うまでになった。


 そんな、楽しい毎日を過ごしていても気になるのが仕事のこと。

 専業主婦だと主婦業だけで済むし、パートをやっていたとしても、時間になれば帰ってこられるから、自分の生活に合わせて働くことが出来る。

 一方、遠山は、仕事の依頼がまちまちで、暇なときと忙しいときの差が激しい。これも承知の上であったが、やっぱり生活のリズムが一定しないと体が辛いようだった。

 保育園に迎えに行く時間は、基本的には、夕方すぎ。でも、暇なときは保育園の終わりのお遊戯を見に行くことすらあった。

 ようするに、それくらい一定していないのだった。


 ただ、一定していないくらいなら別によかったのだ。

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