5.それではここにサインを
姪の笹本和美が、家へやって来た。
「おじさん、おはよう」
「おはよう、和美ちゃん」
「今日もよろしくね」
「はい、いってらっしゃい」
遠山は、智之と名付けられた、今はすやすやと眠っている子供にも「いってきます。早く帰るからね」とやさしく言い、家を出て行った。実は、遠山の名が、智弘であるのだが、施設の人が、助けてくれた人の名前の一部を入れようということで、智之と名付けたのだそうだ。
やっぱり、子供を引き取ることが許可されたということを聞いたときは受話器を落として驚いた。ベビーシッターなんて子供を引き取って親になりますという人がまず最初にすることじゃない。そう思っていたからだった。まさに、青天の霹靂。だたし、自分で撒いた種である。
遠山は毎日のように終業のベルが鳴るが早いか、荷物を整え足早に職場を去るのであった。さらに、仕事が残っているなんてことは全くなく、昼休みを潰してまでも家路を急いでいた。
はじめ、この養子の話を上司に打ち明けたときは、反対されたりもした。
「そんなに焦らなくともすぐにいい嫁さんをもらえるだろうよ」
なんて言われてしまった。それは周りから見ればそう見えるかもしれない。なんでベビーシッターまでつけてそんなことをしようとするのか?最後の決め手になったのが「運命だと思った」というものだから、どうして?と聞かれても遠山は困る。
遠山は、土日、祝日が待ち遠しかった。一日中、智之と過ごせるからだった。遠山の人生という舞台に、新たな登場人物が加わったことで、この舞台がとてもにぎやかになった。明るくなった。観客も増えたのではないかと思う。
それに、遠山本人が以前と変わった。数えだせば切がないけれど、今までのただ時間を過ごすだけの日々が懐かしく感じられる。でも、そんなころに戻りたいとはこれっぽっちも思わない。
和美もしっかりと働いてくれた。というよりは、遊びにきてくれた。ただ、少し申し訳ない気もしていた。彼氏でも作ってデートに行きたい年頃だのにこんなところで赤ん坊の世話をさせられる。遠山は、自分だったら嫌だなと思ったから、「嫌だったら他を探すから」とかつて言ったことがあった。それには、和美は真剣な顔で、「おじさんは、周りを犠牲にしてでもこの子を育てるって決めたんでしょう?私はその犠牲になってもかまわない」と、力強く言ったのだった。いつの間にか、和美も大人になっていたのだった。しばらく、ゆっくりと会ったことがなかったからこの大きな成長を感じないことはまずなかった。
そんな生活が数ヶ月続いた頃だった。ある金曜日の夕方頃だった。
「おかえり、おじさん、今日は早いのね」
「うん、まあね。それより、智之は元気か?」
「うん、元気だよ」
和美の返事など本当は求めていなかったのだろう、スーツの上着も脱がずに智之が寝ているところへと足音を殺して行った。
すっと、智之の寝顔を見ると安心した遠山は、
「ちょっと着替えてくるな」
と、智之の寝ている様子に頬を緩めたあと、和美に静かに言った。
着替えを済ませて、戻ってくると、手にはケーキを持っていた。
「一緒に食べようと思って」
テーブルの上に置いて、コーヒーを淹れに行った。
和美は、すぐにその箱を開いてみると、二つのイチゴのショートケーキがゆったりとして並んでいた。イチゴの赤は艶やかで、曇り一点ない生クリームは神秘的ですらあった。
「わぁ、おいしそう!ありがとう、おじさん」
「いやいや、お礼を言いたいのはおじさんのほうだよ」
コーヒーカップを二つトレイに載せて遠山が戻ってきた。
そして、そのトレイをコーヒーがこぼれないようにそうっと机の上に置き、和美の目の前にそのうちのひとつも置いた。
「甘いほうが良いかな?」
そういいながら、細長い紙の包みに入ったおなじみの砂糖と、これまたおなじみの容器に入ったミルクをカップの横に置いた。
次に、自分のコーヒーを置いてトレイを元の場所に戻しに行った。
それからまた、戻ってきたときは、二人分のフォークと皿を持っていた。
フォークは銀色に輝き、傷ひとつない。皿は綺麗に磨き上げられて白く光っている。
すべての支度を終えて、遠山が席についたとき、「ありがとう、おじさん」と和美が二度目のお礼を言った。
「今までありがとうね、和美ちゃん」
「え?」
「あのね、和美ちゃん。おじさん、会社辞めてきた」
「ええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!」
悲鳴のような驚いた声が部屋で響いた。
「おいおい、智之が起きてしまうよ」
「あ、うん。でも、おじさん、お金はどうするの?」
「このマンションは親父とお袋の遺産の一部で買ったものだし、まだ残ってる。だからローンなんてものはない。車だって持ってないからな。それに、おじさんの貯金も結構あるし、退職金もそれなりにあったし。ちょうど会社がリストラ、リストラで自主退職者を募っていたところなんだ」
「でも、おじさんは、部長だったんじゃなかったっけ?だったら、そんなのの対象にならないんじゃ?」
「それはどうだったか分からないよ。そんな世の中だからね」
遠山は、コーヒーを口に運んだ。カフェインが、眠気を飛ばすと聞いたことがあるが、毎日飲んでいると効果がないのか、脳がきりっとなることなど全くない。初めてコーヒーを飲んだときがどんなだったかはわからない。
「それはそうとしても、仕事しないわけには行かないでしょ?」
「和美には迷惑をかけられないからな、自宅で出来る仕事に切り替えることにした」
「株?」
「まさか。経済の知識なんてないからな」
「じゃあなに?」
「コンピュータ関連の仕事」
「起業ってこと?」
「いやいや、おじさんそんなことできるように思うか?」
「悪いけど、そうは思えないね」
和美は無邪気な笑みを浮かべた。
そこは嘘でも「なんで?やればいいのに!」くらい言って欲しかった。
「おじさん、会社が休みの日に一度、和美に智之を見ていてくれるように頼んだだろ?」
「あ、うん。2週間くらい前だったかな」
「あの時は、本当に申し訳なかったんだけど、おじさんはあの時に、他の会社の面接を受けに行っていたんだ」
「それで、採用になったのね」
「ああ。だから大丈夫。これからは、仕事をしながら智之の面倒を見ることが出来るんだ」
「すごい!すごい!」
「だからね、和美ちゃん、明日からは来てもらわなくてもいいよ。ちょっと長かったけど、おじさん決心するまでに時間がかかっちゃってね。和美ちゃんはあの時、おじさんの犠牲になっても良いって言ったけど、こんなどうしようもないおじさんの犠牲になるのはもったいないよ」
「ううん。おじさんはそんなことないよ。だって、智之を引き取るって言ったんだもの。あれは間違ってなかった。絶対そうよ。おじさんがお父さんになって、智之もきっと幸せよ」
「そうか、ありがとう」
「でもね、おじさん」
砂糖とミルクを入れて甘くしたコーヒーを一口飲んだ後、和美が言った。
「ん?」
「私も、時々、智之と会いに来てもいい?」
「もちろん」
「やった!」
おじさんにお年玉を奮発するよ、と言われたかのように喜んだ。
まだ、和美は二十歳になったくらいだが、子供っぽいあどけなさも残っていたりする。
「こらこら、嬉しいのは分かるが、あんまり大きな声を出したら智之が起きてしまう」
「あ、ごめんなさい」
しばらくじっと、二人は椅子に座って向かい合ったままコーヒーを飲んでいた。遠山が帰りに買ってきたケーキは二人とも手をつけていなかったが、話が一段落したため、銀色に明るく輝くフォークを片手に、食べ始めた。
今、部屋の中は、光で満ちている。いや、部屋の中だけじゃない。遠山の未来には、光しか見えない。いや、光しか見えないどころか、まぶしくてなにも見えないくらいかもしれない。それでも、先は明るい。遠山は、今、新たな道を歩み始めた。
「晩御飯食べて帰るか?」
ケーキを食べてしばらくしてから、遠山が言った。
「おじさん何か作れるの?」
「バカにするなよ。おじさんだって、伊達に独り暮らしを長年やってるんじゃないんだから」
「わかった、わかった。食べていきます」
和美は、ちょっとおどけたように言った。
「じゃあ決まりだな」
在宅ワークと子育ての両立は思いのほか大変なものだった。よく主婦がブログで、子育てをしながら副業でこれだけ稼ぎました、とか言っているけれど、あの掲載されている写真の笑顔の裏には大変な苦労があったことだろうと、今まで見えてこなかったものが見えてきた。
智之は、風邪を引くこともなければ、熱を出したりもすることもなく、いたって健康に、光り輝きながらぐんぐんと成長していった。気がついたら、コンピュータの本体よりも何倍も重たくなっている。このずっしりと来る重さが、自分の責任の重さに重ねあわさずにいられなかったが、日々が以前より充実したことには替えられなかった。
最近では、仕事が一段落ついたら、ベビーカーを押して公園に散歩に行ったりもしたし、一緒に買い物に行って赤ちゃん用のおもちゃなどを買ったりした。おもちゃを買ったときは、子供のようにそれで早く遊びたいがためにまっすぐ家に帰ることが多かった。
ただ、これだけ充実していてもいくつかは、不憫なこともないわけではない。
まず、赤ちゃん用品売り場に、男である遠山がベビーカーを押して行ったら目立つ。目立つばかりでなく、どこか、不思議な視線を投げかけられる。世間では、男女平等、男も子育てに協力しろなどと言っているにもかかわらずこういう様だから、矛盾だらけだ。
他には、母乳を与えることが出来ないから、ずっと粉ミルクであること。これがひょっとしたら何らかの発育に影響が出てきてしまうんじゃなかろうかと心配して、遠山はその粉ミルクを自分で飲んでみたことがあった。とてもじゃないけれど、お世辞でも美味しいとは言えなかった。でも、それを智之に与えると実に美味しそうに飲む。
大人の味があるのに対して子供の味というものもあるんだろうな、と我が子のほほえましい姿をうっとりと眺めながらぼんやりと考えていた。
遠山の仕事はお世辞にも順調とは言えなかった。自宅でやるぶん、好きなときに始められて、好きなときに終われるのだけれど、けじめがつかない。これくらいだったらすぐに終わるだろうと思っていた作業に5時間かかったりすると、やはり子育てどころではなくなってくる。
でも、遠山は決めていた。
たとえ、この仕事がダメになっても、子育てはやめない、と。
その、ドロドロの鉄よりも熱い思いは、決して育児と仕事の両方を裏切ることはなく、危なっかしいながらも、遠山は順調にこなしていった。
そうして、そろそろこういう生活が1年くらい続いていた。智之の誕生日はいつだろうか?そんな疑問がふと浮かんできた頃であった。
智之を家の前で見つけたときはすでに何ヶ月か経っていたのだろうか?それとも、生まれてすぐだったのだろうか?それは現代の技術を駆使してもわからないのだろうか?
結局は、法律上は智之は発見されたときが生まれた直後であるとされている。
なんの根拠もなくそうしたのではなくて、まだ臍の緒がついていたからだそうだった。
この事実を聞いたとき、胸を毒矢で射抜かれたような、そんな辛い気分になった。
遠山が、勝手に子育てをしているだけで、恨む必要もないのだが、智之の本当の母親を憎まずにはいれなかった。生まれるのを待って捨てに行った。そうとしか考えられない。つまりだ。あらかじめ捨てることが決まって生まれてきた子供が、智之なのだ。
智之が捨てられていたことを思い出すたびにグラグラと心の中で黒いものがうねり、くねり、うなる。その黒いものは、次第に大きさを増し、心の中のあちこちに攻撃を始める。そのときの痛みがちょうど毒矢で撃たれたときのようなものなのだ。
初め、急激な痛みが一瞬走り、そのあと、ズキズキと痛むのだ。
そんなんだから、遠山は智之が捨てられていたという出来事は、智之にはもちろんのこと、自分に対しても無かったことにしようとしていた。




