3.あれ!違いますか・・・?
時間は、一応、世の中を平等に流れているようで、この遠山にも以前と変わらぬ朝がやって来た。
昨日は、少し寝付けなかったが、気がついたら寝ていたらしく、ピピピピピッと目覚ましが鳴って、朝7時に起床した。それと同時に、タイマーがセットしてあった石油ファンヒータもファンを回して動き始めた。今朝も結構冷え込んでいるが、直に部屋は暖かくなるだろう。
今日も平日だから会社に行くことになる。朝食は、トーストとコーヒーというシンプルなもので、いつも新聞を取りにいき、朝のニュースをテレビに映してから食べ始める。
遠山は、無意識に昨日の出来事についてのニュースがないかどうか、新聞とテレビを行ったり来たりしているうちに、コーヒーが冷めてしまった。
コーヒーを口にしたときに冷たいことが分かり、はっとして緑の光のデジタル時計を見ると、もう起きてから1時間も経っていることを示していた。
「やばっ」
遠山は目の前の朝食を掻き込み、身支度を整えて、ネイビーのネクタイが曲がったままの状態で家を飛び出した。
無事に会社に時間までに着いたが、これがゴールではなくてスタートであることは言うまでもない。
最近、遠山はコンピュータの非人情的な画面を覗き込みながらよく思う。
「誰のために働いているのだろう?」
数年前に両親は続けて他界。二人も揃って癌だった。
いつかはこんな時も来るだろうと心構えをしていたために、ダルマのごとくすぐに立ち直ったが、虚無が残ってしまったのだった。
「次の会議の資料が出来上がりましたので見ていただけますか?」
と、今年新しく入ってきた女子社員が可愛らしい仕草で、紙束を持ってきた。
遠山の机の上には、部長を示すプレートが名ばかりに置いてある。
「ああ・・・」
遠山は、ボーっとした声で紙束を受け取って、きれいに片付いている机の上にポンと置いた。
それを見た女子社員は、一仕事終えたという感じで、肩の力をドスッと抜いて自分の席へキャピキャピと戻って行った。
遠山は他の仕事をしていたわけではないので、すぐにその紙束を再び拾い上げ、ホチキスで止められた左肩を頼りに、ぱらぱらと捲っていった。
会議の資料としてはそんなに枚数も多くなく、見るのもそんなにしんどいとは思えなかったのだが、どうにも今日はぼやけて見えない。
「そろそろ、老眼か・・・」
とか、いつもなら呟くところだが、今日はそんな余裕もなかった。
ぱらぱらと捲っていたかと思うと、全部閉じて、元のようにした後、ポンと机の上に置いた。資料がよく出来ていたか、そうでなかったかの判断はつかなかった。
遠山は、午前中は自分の席にじっと座ってパソコンの画面でなにやら作業をしていたのだが、目は座っていなかった。どこでもない、何もないところをただ、ぼんやりと眺めて、時間が過ぎるのを待つでもなく、時間を悪戯に過ごしていた。
気がつけば、昼を告げるチャイムが鳴っていて、昼休みになっていた。
机の上で愛妻弁当を広げる者。まだ作業を続ける熱心なもの。急いでタバコを吸いに喫煙ルームまで走るもの。社内で人気の弁当を買いに行くために高そうなブランド物の財布を持って行く一部の女子社員。
遠山は、いつも誰にも誘われることなく、独りで食堂まで行くことが多かった。
そこで、他の部の部長らと顔を合わせたら最後、仕事の話しかしない。
楽しい時間はあっという間に過ぎてしまうようで、ぞろぞろと名残惜しそうに、オフィスに社員が戻ってくる。
遠山は、昼食を幸いにも誰にも会わず独りで済ませた後、自分の席で、さっきの会議の資料を眺めていた。さっきは気づかなかった誤字が見つかったことから、遠山はいつもの調子を取り戻しつつあるような気がしていた。
また、会議資料をポンッと机の上に置くが早いか、午後からの始業のチャイムが鳴り始めた。
早速、会議資料を作成した女子社員を呼び出した。
「ここ字が違ってる。直しといて。後は問題ないから」
「はい」
機械的な返事をして、資料を持って自分の席に戻っていった。
プルプルプルプル
手元の電話が鳴った。どうやら直通の内線電話のようだった。
「はい」
「あ、はい」
「えっと、すぐにですか?」
「あ、わかりました」
返事をするごとに遠山の声が慌しくなっていた。会社の運営しているコンピュータのサーバに不具合が起きたらしい、とのことだった。複数人で復旧に当たるのだが、それに加勢してくれとの要請が現場からあったため、遠山は、走るまででもないが、足早にホワイトボードのところに行き、サーバ室というマグネットを自分の名前のところに貼り付け、オフィスを出て行った。
結局、その作業が終わったのは、終業時間だった。
それでも、遠山は自分の席に戻って、自分でコーヒーを淹れて、自分が留守にしていた間に机の上に積まれていた確認資料などに目を通すこととなった。
オフィスの明かりは節電と称して消されたため、自分の席の上の蛍光灯だけが一緒に残業をすることとなった。
「まあいいか、明日は休みだし」
一応、週休二日は会社の中で守られるようで、よっぽどの仕事がない限りは、休むようにとの通達が来ていた。もちろん、会社側としては、休日出勤の手当てを出さずに済む。でも、週休二日を完璧に守っている人間はいない。サービス出勤とやらは常習化している。例の子供を連れてきた奴もその類だ。
結局、ちょっと残業しても仕事が終わらないこともしばしばで、そのときは自宅に持ち帰ってやることが多かった。これは情報漏洩などの観点からも褒められたものではないことは分かっていたが、どうせ家に帰ってもやることもあまりなかったので、遠山はそれでもよかった。
シュカシュカと紙を捲る音だけがただっ広いオフィスで響いている。手元にあるコンピュータは、休憩しているようで、音も立てずに、画面に不思議な模様を連続的に変化させながら映している。黄、赤、緑、紫、青、・・・と色々な色で織り成す造形。
帰宅したら午後10時だった。それでも、今回は仕事が少なかったから、明日と明後日は仕事のことを考えずに過ごせそうだった。ただ、遠山の頭はほぼ完全に仕事をする事のために働くようになっていたから、いきなり休日が与えられたところで、寝て過ごすか、DVDを見るかくらいしか、過ごす方法がなかった。
あまり親交のない同僚の社員は、夫婦でゴルフに出かけるだの、家族で遠足に行くだのと、楽しそうなことばかりを報告してくる。誰も、家でDVDを見て、その感想を話して聞かせる人などいない。
この日は、結局、夕食は外のラーメン屋台で済ませていたため、後は寝るだけであった。
ところが、いつもなら動いているはずの石油ファンヒータのボタンが赤く点滅している。
近づいていって覗いてみると、どうやら燃料切れを起こしたらしい。
仕方がないから、灯油を入れようと、ポリタンクのところまで容器を持っていったが、ほとんど入っておらず、今晩が精一杯だと思われた。
次の朝。寒さに震えながら、朝日を浴びて遠山は起きた。部屋の中で吐いた息すらも白くなったように見えた。
小学生が土曜日や日曜日に遊ぶぞ!と意気込んで日曜日にもかかわらず6時くらいに起きてしまうのと少し違うが、別段、何もすることもないにもかかわらず、朝7時に起床した。この小学生がだんだんと大人に近づくにつれて休日は寝坊が出来る日であるということを知っていくのである。
石油ファンヒータは、再び赤いボタンを光らせていた。早く自分に気づいてくれと必死にアピールしているようだ。
電気ヒーターを取り出してきて、コーヒーを淹れて、トーストを焼く。こうして遠山の土曜日が始まった。
トーストにバターを塗っているときにやけに部屋が静かなのに気づいて、テレビのスイッチを入れようとリモコンを探した。
リモコンはここに入れようと、リモコンホルダーなるものをかって来たのにもかかわらず、リモコンはいつもそこから外出しているのだった。近くにホワイトボードがあって、行き先などを書いていてくれると本当に助かるのだが。
こういうときは、リモコンを探すよりも、テレビに直接歩いていってスイッチを押すほうが早い。そもそも、リモコンが見つかったところで、主電源が切れていたらいくら電源ボタンを押したところで、テレビは動いてくれない。
テレビでは、土曜日にしかやっていないニュース番組をやっていた。こういう番組は、一週間のまとめをしているか、何か美味しいものの紹介とかをしていることが多い。
そんなテレビを見るでも見ないでもなく、少し冷えてしまったコーヒーをズズズズと飲みながら、部屋の寒さを肌で感じていた。
背後では電気ヒーターが橙の光を放って、局所的に暖かさを演出している。
溜まっていた洗濯物を片付け、そんなに汚れていない部屋の掃除を終えると、急に暇になってしまった。
こんなときは大体パソコンに向かっていることが多かったのだが、今日はなんとなくそんな気分にならなかった。
なにか忘れているような、心にぽっかりと空洞が出来たようなそんな焦りともとれなくもない変な気分だった。
結局、家の中のソファにどっぷりと座って、テレビを眺めていた。そんなにテレビを見る時間もないのに、数ヶ月前に薄型で大画面の液晶テレビを購入していた。液晶テレビは、ニュース番組のアナウンサーの顔の凹凸の影までしっかりと映している。
そのアナウンサーが次のニュース原稿に移った。
「赤ちゃん、また置き去られる」
そんなテロップが出てきた。
そのニュースの内容は具体的に、どこで起きたかということは紹介していなかったが、どこそこの県で何人置き去りにされたかをグラフで表していた。見る見るうちに県の中心付近を始点に持ったグラフは点に向かってのびていっている。ぐんぐん伸びて行き、やがて止まった。
ニュース原稿は少し長いようで、まだまだ続くようだった。
ときどき、出演しているコメンテータに意見を求めて、その人物が腕を組んで偉そうに、難しそうなことをつらつらと並べていた。
遠山は、その様子を、始めはボーっと何も宿らない目で見ていたが、グラフが終点に達した頃だっただろうか、急にぬくっと立ち上がって、携帯電話をすぐ側のハンガーにかけてあるスーツの上着のポケットから取り出した。
開いてみても、誰からも電話があったわけでもないし、メールが来ているわけでもなかった。遠山にそんなことをしてくる相手は仕事の内容でしてくる人くらいで、友人は、それぞれの家庭があってそれどころではなかったらしい。
遠山は携帯電話を持ったま、60センチほどの高さの木で出来た本棚の上においてある、名刺を手に取った。名刺は昨日、おじさんが去り際になぜか遠山に渡したものであった。
その名刺には、おじさんの名前と、電話番号、メールアドレスが書いてあった。
仕事柄、こんなものは度々もらうため、そのときは、どうして渡してくるのかそんなに気にもしなかった。ごく自然なことに思えたからだろうか?それとも別の理由だろうか?
とりあえず、その電話番号を携帯電話に打ち込む。携帯電話は言われたとおりの番号を液晶画面に表示し、最後に通話ボタンが押されると、遠山の耳元で呼び出し音を鳴らし始めた。
「あ、すみません。服部さんですか?昨日の者ですが」
「ああ、遠山さんだね?」
昨日のおじさんの声がかかってくるのを待っていましたと言うかのように聞こえてきた。
「ええ、はい」
「昨日の赤ん坊のことだね?」
違和感がないが、おじさんは遠山に敬語を使おうとはしなかった。でも、遠山もあまり気にならなかった。
遠山は、おじさんの問いに、そう・・・です、とちょっと詰まりながら返事をした。
すると、おじさんは、一通りの出来事を話してくれた。
あの後、"お姉さん"が一晩、警察署内で見守っていた。彼女は、自分の子供もいるのだが、もう、すっかり大きくなってしまって手がかからないからと夜通し付き添うことが出来たのだそうだった。そして、今朝、施設数件に電話を入れて、OKが出たその中のひとつに赤ちゃんを送り届けるために、さっき署を出発したとの話だった。
「親は見つからなかったのですか?」
「それはまだこれからだけど、赤ん坊の家出人捜索願いなんてあるわけがないから、ほとんどの場合、捨てた親は見つからないな」
「そうですか、それじゃあ、やっぱり施設に」
「あんた、遠山さん、そんなにあの赤ん坊が気になるんかい?」
「ええ、まあ。あの出来事があってなにも考えるなってのは難しい注文ですよ」
「そりゃそうかもしれないがな・・・」
しばらく、うーんという唸り声が携帯電話越しに聞こえてきた。
「あんときも言ったが、あんたには関係ないんだ。引き取るってのなら別だよ?あんたは、収入もしっかりしてるし、子供が好きだってなら引き取ることも可能かも知れん。ただ、あんたにゃ仕事もあるだろう。勝手に調べさせてもらって悪いが、あんたまだ独身のようだな。さっさといい嫁さん見つけな」
それじゃあな、と言って電話が切られるだけの状況だったところで、
「あ、ちょっと待ってください」
と、電話を繋ぎとめた。
「ん?」
「その施設の場所と電話番号を教えてもらえますか?」
「なんだい?まさか引き取るんじゃなかろうな?」
「わかりませんが、お願いします」
おじさんは、引き取るのならこれからどんな責任が生じるかをしっかり考えて、考えて、考え抜いた上で引き取りなさい、と言って、さらっと施設の場所と電話番号を教えてくれた。
遠山がそれにお礼を言うと、相談なら乗ってあげるからと馴れ馴れしくおじさんが言って電話が切れた。




