2.これウチにですか?
「どうしよう」
テレビもつけられず、暖かいココアを入れて、リビングのテーブルに置いた遠山がぼそりと言った。
なんだか拍子抜けしてしまって、さっきまでほろ酔いでいい気分だったのに、すっかり冷めてしまっていた。あとで、冷蔵庫にしまってある芋焼酎でも温めて飲もうと決心した。
即席で作った暖かいココアを冷え切った体に流し込み、細胞の解凍を終えた数分あと、遠山は、一瞬考えて電話を手に取った。
「あ、すみません。実は、・・・」
遠山は、この短い経緯をゆっくりと説明した。別にそれは相手に聞きやすいであろうと配慮したのではなくて、ぼそぼそと呟くような声で、赤ちゃんを起こさないようにするためだった。
ここをしくじったら遠山はどうしようもない。
赤ちゃんを手元に置いた経験など全くないからだった。
十数分経って、インターフォンの受ける側の音が鳴った。
遠山は、その音に、びくついたが、赤ちゃんはなおも寝ているようであった。
「あ、はい、ご苦労様です」
インターフォンにそう答えて、再びダンボールのところに戻ってきた。
「可哀想になぁ」
どこに我が子を捨て去る親がいるのかと、例え、世間がエレベータほども狭くなかったとしても信じられない。
でも、遠山は、可哀想とは思ったが、赤ちゃんが可愛いとは思わなかった。
そもそも、そんなに子供は好きではなかった。
会社に時々同僚の息子・娘が来ていることもあったが、そのときも扱いに困った。
「そもそも、どうして子供を会社に連れて来る?」
という問いに奴は
「休日出勤だから良いだろ?」
とさらりと答えた。そんなにあっさりと言われると
「ああ、まあそうだな」
くらいしか答えられないじゃないか!と内心苛立ったのがちょっと懐かしい。なぜだろう?
ところで、子供の扱いに・・・と表現しているところからして、ダメだと自分を責めてみるが、やっぱりどうしようもない。苦手なものは苦手なのだ。
ピーマンが嫌いな子供に口にピーマンを押し込んだって吐き出してしまうのと同じだ。
数分後、今度は玄関のベルが鳴り、遠山は、足音を立てないように玄関へ向かった。
扉を開けると、そこには優しそうな、遠山よりも倍くらいは歳をとっているだろうと思われるおじさんと、中年の"お姉さん"が居た。
「こんばんわ」
遠山から会話を始めた。
「最近多いんだよ。ほら、ニュースとかでもよく見るだろう?真似する人が増えたってのかね?本当に、無責任だよ。どうせ真似をするならもっといいことを真似すりゃいいのに」
あんたには関係ないだろうけどね、とおじさんは付け加えると、ポケットから二つ折りになっている財布のような手帳を取り出して、二人はそれを遠山に見せ付けた。
水戸黄門もきっとこんな感じだろう。
その手帳は、黄色い紋様がついていた。
黄門様のものとは、ちょっとデザインが違うようであったが。
「上がらせてもらってもいいですか?」
「ええ、もちろん」
「ありがとうね、あんたも、とんだことに巻き込まれてしまって、疲れたろう」
そんなことを呟きながらちゃんと靴を脱いで部屋の中に上がってくれた。
でも、この状況。土足で上がられても、そのまま通していたかもしれない。
ずっと、預かったままにしておくには重すぎる荷物だから。
お隣さんのお歳暮のハムを預かって、どうしても食べたくなってしまうのとはちょっとワケが違う。
遠山は、二人を静かにリビングルームに案内した。
"お姉さん"のほうは、手のひらでダンボールを指し、「あれですか?」と小さな声で尋ねた。遠山が頷くと"お姉さん"は、さささっと歩み寄り、中を覗き込んだ。赤ちゃんを見下ろす目はどこか暗かった。
おじさんのほうは、遠山の腕を軽く引っ張っり、そのままリビングルームの外に出た。
「それではウチで預かりますんで」
「あ、はい、お願いします」
おじさんはなんとも手馴れた感じに話を切り出した。それだけこういうことが頻繁に起こっているということだろう。
しばらく、"お姉さん"が赤ちゃんをじっと見ているのを二人は少しはなれたところで見ていた。そこは、沈黙が支配し、部屋全体の石油ファンヒータを除けば静寂になる世界に加担していた。
そんな沈黙をやぶったのは、遠山であった。
「この子はこの後、どうなるんですか?」
別にこれをどうしても知りたかったわけではなかったけれど、沈黙の時間に耐えられなくなったのだった。どうせいつも1人で暮らしているから静かな部屋ではあるけれど、客人が来ているのにこんな状況は、さすがにひっかかった。
「ん、そうだな。とりあえず、この子の親を探すんだが」
そこでおじさんは、ちょっと言葉を切って朝剃ったと思われる髭が再び顔を出している顎をさすった。
「見つからないことがほとんどでな」
おじさんの声は、赤ちゃんのためにというよりも、話の内容のために静かだったと思われる。
「それじゃあ・・・」
「施設に送られるよ。そこで、大切に育てられる。社会に馴染むことが出来るようにな」
「そうですか・・・」
「施設の中で暮らしていて幸せになれんも知れん」
おじさんは聞いてもいないがどんどんと話を始めた。本当は、誰かと話をすることがとても好きなようだった。
「養子をもらいに来た人たちが連れて行ってくれることもあるが、それがその子にとって幸せとも限らん。どの道・・・」
またおじさんは、間をおいた。
「あまり幸せになれない、と?」
遠山は、待ちきれずに聞いた。おじさんは、そうかもしれないが、それはその子次第だと言って、その後に低く笑いながら
「ま、あんたには関係ないことだ」
と言い、肩をポンポンと叩いた。
それに対して、遠山は怪訝そうな顔をした。
おじさんは、それを感じ取ったのだろう。
「お前さんが引き取るわけじゃないだろう?だから、忘れな。後は社会に任せればいいんだ」
社会がダメだからこんな風に子供が捨てられるんじゃないか?という言葉が遠山の口をこじ開けようと必死だったが、筋肉が、理性が、本能がそれを阻止した。
おじさんは、ドアを片手で支えて、赤ちゃんを抱えた"お姉さん"を先に通した。
「それじゃあ、迷惑かけましたな」
と、微笑、苦笑でバタンとドアを閉めて去っていった。
リビングルームにはさっきまで赤ちゃんが入っていたダンボールだけが、仄かな温もりを持って佇んでいた。