1.お届け物です
ブオオーという唸り声を上げて、タクシーは寒い暗闇の中へと進んでいった。遠くのほうで赤いランプが光ったのが見える。それを確認すると、さっきまで乗客だったサラリーマンである遠山が、自室までのほんの少しの距離を歩き始めていた。
「ふぃー。寒い寒い・・・」
そんな声を北風のごとくびゅっと噴出したときに、顔の前は白で覆われた。これも、この寒さを物語っている。
遠山の家は、6階建てのマンションの6階。
タクシーを降りてからも、地獄のような寒さの中しばらく歩いて、さらに最上階までエレベーターの中で縮こまらないといけない。
コロコロコロコロ
空き缶が、遠山がさっきまで足を置いていたところを転がっていった。
「ううう・・・」
風が身にしみる。その証拠に、体は普段の8割程度の大きさにまで縮こまっているような感覚がしていた。
遠山は、毎日、自分が帰る頃に部屋が暖まるように、石油ファンヒータのタイマーをセットして出勤していた。今日も、誰もいないくらい部屋の中で、石油ファンヒータがゴオゴオと声を出しながら、赤と青の炎をちらちらとちらつかせて、主人の帰りを待っているのだろう。
遠山は、こんな機械的なものよりも、人間味のある、というより、人間、待っていてくれる人が欲しいのであったが、もう今年で35歳となって、そろそろ諦めかけていた。
やっとのことで辿り着いた自動ドアがビュウィンと今か今かと自分の番を待っていて、待ってましたと言わんばかりに勢いよく開いた。それと同時に、マンションの中につめたい風も遠山と一緒に入ってきた。
遠山はオートロックを解除する鍵を取り出すために、黒い手袋を加えて、ピッと脱ぐと、その辺りの冷気が一斉に牙をむいて、無防備になった遠山の手を襲った。
鞄の中から取り出した鍵はすでに、やられていて、死んでいるような冷たさだった。
その鍵でも、ちゃんとオートロックは開き、2番目の自動ドアが無事に開いた。
そこからは、空調が整備されているからだと思うが、包み込むようなほのかな温かみがあった。芳香剤が香ってくるのもそれに拍車をかけているような気がする。
「はぁー」
遠山は、今日一日の疲れを、ここで一旦、体からそぎ落とした。
トコトコトコ
と、歩く音だけが、大理石のような石で作られているロビーの中を木霊する。リズムよく、テンポよく、心なしか早めの。
エレベータの手前につくと、遠山は、エレベータを呼び出した。そいつはすぐそこにいたようで、ドアを開けて、遠山を招きいれた。
エレベータの中は一層暖かかった。狭い空間では、冷たさの軍勢が、人間の技術による、暖かさの軍勢に押されてしまうようだ。でも、少し暑いくらい。長時間個々に居たら気分が悪くなってきそうだ。
でも、そんな心配は無用で、数十秒後には最上階で再び扉が開いた。開いた扉から一斉に冷気が攻め込んできて、遠山も巻き添えにし、狭い空間を支配しようとまた、争いが始まった。冷気軍と暖気軍の激しいせめぎ合い。遠山は、どう見ても冷気軍が優勢であるようにしか見えなかった。エレベータの中の風向口から送られてくる援軍は、とてもじゃないけれど、外から送り込まれる冷気軍に対処しきれていなかった。
この光景が、夏になったらそれぞれの陣地が逆転しているものだから面白い。
遠山が、その空間から脱出すると、自分を守るためか、エレベータは扉を閉ざし、中に入る冷気の小数と暖気の多数で支配合戦が始まった。今度は暖気軍が三日天下。下に降りつくまで。
遠山の部屋は、6階でエレベータを降りてからしばらく歩いていかなければならなかった。それでも、購入のとき、遠山はここを好んで選んだのだ。眺めがいいから高かったので今更文句も言えない。また、言う相手もいない。
トコトコトコ
今度は、6階の廊下を足音が木霊する。
遠山は、さっきの鍵を再び取り出した。この先の角を折れたところに部屋がある。もう少し。これで、この戦場から離脱できる。
夜だというのに、白い電球がさんさんと光り輝いていて、この先の曲がり角の先に誰かが隠れていて脅かそうったって、効果は暗いときのそれの半分ほどになってしまうだろう。かつての恋人は、遠山の帰りを待ちわびて、そろそろ帰ってくるというときにこの悪戯を仕掛けたが、遠山の前を歩くお隣さんを脅かす羽目になったという恥ずかしい失敗に終わっていた。
それ以来、ここで誰かが脅かそうったって、笑ってしまうかもしれない、とすら遠山は思っていた。
そんな相手はもう今はいないのだが。
角を曲がって、部屋の扉が並ぶところが見えたところで、ダンボールがひとつ置いてあることに気づいた。
「ん?」
寒さで完全に遠山の脳は思考活動を停止していたが、今、呼び起こされた。それでも、ちょっとぼんやりとこの状況がのめないでいるのは、脳が毛布に包まって「あと5分」とでも言っているからだろう。二度寝も持さない覚悟だと思われる。5分も待たなくともすぐに暖かいところへ入れるわけだが。
ダンボールを発見してから数歩歩いて気づいた。
そのダンボールは遠山の部屋の前に置かれている。黄色くて、形はしっかりと整っていて、そんなに汚れていない。新しいものだろう。
「宅配便か?」
ぼそっとつぶやいたが、そんなことはまずありえない。1階のロビーのところにある宅配ボックスに入っているのが普通。それに、もしそうでないとしても、他人の家の玄関で荷物を放置していくような宅配業者がどこにいるか?
遠山は、ちょっとは不思議に思ったが、ゴミだったら捨てればいいだけ、くらいしか考えが及ばない。いよいよ脳が二度寝を始めた。
鍵についたキーホルダーをちゃらちゃら言わせながらダンボールに、いや、部屋のドアに近づいていく。
ドアの前に立ち止まって、鍵をさしたときに、ついでに、そのダンボールの中を眺めた。
「へっ!」
脳がどんな指令を出したらそんな遠山がするのかというような音を出した。これも、二度寝していて急に起こされたからだと思う。
そのダンボールの中に、白菜、キャベツ、人参、大根、小松菜、馬鈴薯などが入っていても十分驚いていたかもしれないが、これはどうにも驚きのゲージを振り切ってしまったような感じだ。
毛布に包まった、赤ちゃん。犬でも猫でもなければ、ハムスターでもない。だったら、ひよこでもなければ、パンダでもない。これはどこからどう見ても、サル、いや、人間の赤ちゃんだった。
「え?あ?ん?」
混乱に陥ると、「なんで?」と言うような悠長な言葉は口から飛び出さない。
その言葉が出ようとするところを肩をつかんで後ろに張り倒し、単音が飛び出てくるのだ。それも、文字では書き表せないような。
寒さのせいもあったろうか、遠山はしばらくそこに凍っていた。
もう、錠は解いたのだから、暖かい部屋に入るだけ。
でも、凍ったら解凍しないと動かない。
自然解凍はしばらくしそうにない。
でも、遠山は凍ったまま、扉を開いて、足で外開きの青い扉が閉まるのを抑えたかと思うと、ダンボールを抱え上げ、部屋の中に入れた。
重さは4キロほどだろうか。
遠山は、仕事はコンピュータをいじるばかりなので、コンピュータの本体がちょうどこれよりちょっと軽いくらいだという見当くらいはつく。いや、実際、コンピュータはそこまでも重くないのだが。
普通の宅配便なら、ドスンと置くところであるが、今回ばかりは、取り扱い注意の見えないシールが貼ってあったからゆっくりと玄関に下ろした。
「はぁー」
さっきロビーでこぼしたばかりのため息を再びこぼすことになってしまった。
遠山は、しばらく玄関でダンボールの横に腰掛けてじっと中を覗き込んでいた。
赤ちゃんは男か女かは顔だけではわからない。
でも、ちゃんとぐっすりと眠っている。
自分の置かれている状況なんて知る由もなく。
遠山は、二度寝した挙句、寝ぼけている脳でもってさえ、この状況がわかる。
この子は、
「捨てられた・・・か・・・」
こんなことは他人事だと思っていた。
しかしながら、世間は狭いもので時にエレベータほどの広さしかない。
「ん・・・」
ワイドショーでは赤ちゃんを拾ったらどうすればいいかなんて対応策を紹介してくれなかった。もちろん会社でもらったマニュアルにもそんなことは載っていない。あれだけ小さな字でこと細かく書かれているのに。
数分間そこでじっとしていると、玄関のドアの隙間を通って冷気が侵攻してきていることに気づいた。
「ああ、いかんいかん」
黒い革靴を、スルッと脱ぐと青いスリッパに履き替え、そのダンボールを持ってリビングルームに持って行こうと持ち上げた。
ゆっくりゆっくり、ダンボールは離陸した。
どこかで拍手の音が聞こえた、・・・気がした。
今日はどうやら気流が安定しているようだ。
お酒の量を控えておいてよかったと、遠山はちらりと思った。
離陸に成功したダンボールは、順調にリビングルームに向けて飛行を続けていた。ゆっくりゆっくり、遠山は足を半ば擦るかのように歩いた。武道だとちょうどこんな感じだろうと武道をやったこともないのに思う。振動をちょっとでも加えたらゆっくりお休み中のお客様を起こしてしまうかもしれない。エコノミーのものではあるけれど、お客様の眠りを邪魔をする権利は遠山にはない。
ダンボールを腹に押し付け、片腕をまわして、ダンボールを抱え込む。これがもし古いダンボールだったらつぶれて大変なことになっていただろう。
整備はきちんとしておかないと。
空いたほうの手で、リビングに通じるドアノブに手をかけて、ゆっくりと回す。
ここはひょっとしたらゆっくりまわす必要はなかったかもしれない。
ドアの隙間から暖かい空気が流れ出していた。
そして、ドアを開けたときに、遠山とダンボールとその乗客は、ふわっとした暖かさに包まれた。
たとえそれが人工的な暖かさであったとしても、人情さえ感じられるほどだった。
遠山は、さっさと部屋の中に入ってしまおうと、ちょっと急いだ。
別に急ぐ理由なんてなかったはずなのに、そうしてしまった。
ガンッ
壁にダンボールが接触した。
バランスが悪い状況だったから、冷やりとしたが、墜落することはなかった。
いやいや、もっと冷やりとすることがある。
外の空気ももちろんそうだけれど、この振動を乗客が感じないはずがない。
最悪の場合、乗客は目を覚ましてうるさく騒ぎ立てるだろう。
こちらとしては謝ってもそれは解決できない。
「ほっ」
本当にこんな言葉が口から出た。
普通、もっとも出てきそうにない言葉だ。
乗客は、なおもすやすやと寝ている。
「ん?寝ている・・・のか?」
次に不安が訪れた。一難去ってまた一難。秋の台風のようだ。
そっとリビング中央の赤い絨毯の上にダンボールを置くと、遠山はダンボールの中に耳を近づけた。
ゴーゴーゴーという音が聞こえる。
石油ファンヒータの音だ。
さらに顔を近づけてみた。
すると今度は、スースースーという定期的に抑揚を繰り返すエア音が聞こえてきた。
「よかった・・・」
普段なら自分の部屋で、誰もいなくても比較的大きな声で独りごつ遠山であったが、今回ばかりは、小さな声だった。
独り言が増えてきたからそろそろ歳なのかもしれない、と遠山は最近思い始めていた。