『風に匂う剣士』 その3
青い月が湖に落ちている。
空には雲が無く、満天の星空が広がっていた。
≪秋セブリニナの月≫。まだ夏の残暑が残る中、緑の樹々が次第に鮮やかな色素を落とし始めている。≪ラス=ペス湖≫の山の影が落ちる部分では、先に水草が温度変化に気付き、徐々に≪秋始まりの白色≫へと姿を変えつつある。
入学して、まだ半月程しか経ってない。学内全てを覚える程の日数で無いが、以前の生活がまだ身を占める日数でも無い。学びは遅いが、忘却は早い。過去の思い出が鮮やかな躍動感を失い、色褪せた静物画の如き脆さを感じる。その残酷な事実に恐ろしさを覚える。
三方を緑濃い山に囲まれ、前方には小さな町と麦畑。あの町から漕ぎ出す唯一の渡し船が湖に浮かぶ石造りの建物を外界と細い糸を結んでいる。
そこは、世界八大魔法学校のひとつ。
最低の学び舎。
≪サス=フレンガル魔法学校≫の威容が黒々と闇の中に鎮座している。
テッドは、背の高い尖塔が空を突き刺すその高い石壁を振り返ると、渋い表情を見せた。
(全く……。俺は何してんだろうかね)
冷たい秋風が薄い上衣を撫でつける。テッド=スリンガーは、軽く身を縮こませた。麻紐で乱雑に縛った長い黒髪が風に乗って流れている。入学に出発する前に幼い兄弟達の為に猪を狩った時に負傷した右腕の傷が身に染みる。学校の壁際に数本の≪秋飛びアカチ≫の成木が数本、薄紅色の鮮やかな花を満開に咲かせていた。
やや細長い狐目、三角に尖った鼻と薄い唇は、相手に冷たい印象を与えるが、それ以上に豊かな表情と口さがないお喋りで悪友に事欠かない。山岳地帯の山の民の生まれの為、街の生活には慣れてない。自分では賢い方では無いと思うが、狩猟の才能は優れていて、特に弓矢の腕前は一族でも敵う者はいなかった。長老達も一族の将来を担う人材だと言ってくれていた。
そんな自分が長老達の命令で魔法学校行きを告げられた時の驚きは、自分だけでなく家族や仲間の方が驚いたくらいだ。
確かに、魔法学校は金が掛からない。全ての経費が学校持ちの上、晴れて優秀な魔法使いになれば、自分の家族を養うくらい訳は無い。
(だがな。誰が好き好んでこんな学校に来るかよ)
そう。≪サス=フレンガル魔法学校≫は、誰もが行きたがらない最低の学校だ。どうして、テッドをそんな所に送るのか、誰もが首を傾げる”珍事”だった。
最低で最悪の魔法学校。聞いた所に寄ると、二百年前、出来の悪い魔法使いサスがこれまた出来の悪い子供らを相手に適当な学び舎を造ったのが始まりらしい。
(フレンガルは、何かって?)
サスの弟子で唯一魔法使いになる事が出来た奴の名前だ。
要するに、サスが始め、フレンガルが正式な学校として整えたという事だった。
(中身はともかく……)
始まりがその調子だった為、優れた生徒など集まる筈も無く、箸にも棒にも掛からない用無し共の吹き溜まりになっていた。
世界八大魔法学校の中でも最低だというのはその為だ。勿論、優れた教師も集まる筈も無かった。
学校は、ラス=ペス湖に浮かぶ小島に作られた二間の小屋から始まった。魔法学校では、外部からの侵入や攻撃、生徒の門限破り、逃亡等を避ける為に様々な防衛システムを取り入れている。貧しい魔法学校にそんなからくりを仕掛ける余裕は無かった。出来たのは、湖を天然の堀に利用するという原始的な事だけだった。
「他所の学校なら、常時≪魔法防御≫を掛けているのにな」
「ここは、そんなに重要な学校なのか?」
「はは……。お前さんも辛らつだな」
テッドは、学校の石壁に背もたれながら軽く笑った。
「まあ、間違いは無い。こんな馬鹿生徒ばっかの学校に何の価値も無えからな~」
湖はしんとして波頭ひとつも見えない。
「じゃあ、どうして来たのだ?」
「え? この学校か?」
ネクスは、テッドと目を合わせた。
「そんな学校なら来てもしょうがないだろう」
「そうさ。普通なら、こんな学校来る奴いねえよ。一族の恥になりかねないからな」
そう言って、テッドは視線を外した。
「こんな所に来る奴にまともな人間はいないのさ」
(みんな、捨てられたのさ)
≪サス=フレンガル魔法学校≫に通っても、魔法使いになる事の出来る生徒は数える程しかいない。ほとんどは、何も身に付かないまま故郷に戻るか、故郷に捨てられた者は、どこかの町で細々と残りの人生を送るしかないのだ。
魔法学校は、基本的に十五歳で入学年齢になり、三年間学ぶ。
十五歳で己の置かれた立場を知り、十八歳で先行き何の見込みも無い底辺の人生に放り出される。ほとんどの生徒がその運命にある。
(だから、みんな投げ遣りなのさ。ジェムみたいに頑張る奴の方がおかしいのさ……)
テッドは、自分に言い聞かせるようにその言葉を噛み締めた。
「俺はな……。村では、若手の中でも期待された方だったんだぜ。狩人としては腕の良い方だったのにな……」
「ん? 魔法一族じゃないのか? 魔法学校に来てるのに」
「うちの一族は、もう何十年も魔法使いを出してないのさ。魔力も衰えてしまって、半魔法一族になっているんだ」
テッドは、手元にあった石を湖に投げ込んだ。暗闇の向こうで水面を叩く音がする。
「半魔法一族?」
「魔法種族としては半人前って事さ。五大魔法種族とその系列魔法一族とは違って、地上での生活が長いから一族の魔法能力が衰えているのさ。俺の一族では、十人にひとりくらいかな。魔法能力を持って生まれる奴って」
「魔法一族なのに、魔法力が無いのか?」
「珍しかないぜ、そんなの。魔法種族として継続するには、魔法を使い続ける環境にいなくちゃいけないのさ。只、五大魔法種族の系列になるには、魔法一族同士の競争に勝たないといけないからな。それに負けると、地上に堕ちるんだ。地上に堕ちた者は魔法で生きて行く事を許されないから、人間と同じ仕事を生業にするんだ。そして、いずれは人間の仲間入りになるのさ」
「それは、大変だな」