『風に匂う剣士』 その1
鼻のすぐ上を酸い臭いが渦巻く。たまらず体を横に向けると、黄ばんだシーツの下に詰め込まれた藁クズが乾いた悲鳴を上げながら、一本二本と鋭い穂先をシーツの隙間から突き出して無駄な抵抗を試みる。
昼間の眠気を誘う座学、欠伸が出るくらい低レベルの実技、不味い食事、起きている間はひとつも良い事が無い。陽が落ちて、ベッドに入る時が一番の幸せだ。
只ひとつ、隣のベッドから聞こえて来る訳の分からない呪文さえ無ければ……。
歩くスペースだけ間を空けて、同室の人間が頭から布団をかぶっている。勿論、真っ暗でまともには見えないが。
何て言ってるのかさっぱり分からない。ただ、魔法の呪文である事は確かだ。何故なら、本人が言っていたから。
「おーい。もうそろそろ止めてくれー」
外の世界と同じく闇の底に沈む部屋の中に声を響かせる。狭いふたり部屋にふたつのベッドが平行に並び、その頭では何百年もの歴史を刻んだ勉強机が背中合わせに置かれている。
部屋にひとつだけくり抜かれた窓からは≪女神アイチーム≫の月明かりが差し込むが、今夜は雲がかかって自分の鼻も見えない。
隣のベッドの上でポッと黄色い≪魔光≫が灯る。同い歳ながら幼い顔をしたジェムタムアーシュ=バシューが相変わらずの困り顔をテッドに向けている。背が低く、栄養の不足したか細い体。視力が弱い為、度の強い丸眼鏡が手放せない。
「ごめんよ。でも、僕、頭悪いから少しでも時間を無駄にしたくないんだ」
力の無いかすれた声。
ジェムの手元には、虫食いが酷いが豆腐くらいの厚さがある魔法辞典が開かれている。ジェムは、故郷から魔法辞典を四冊も持ち込み、この一年でその全てを覚えようとしているのだ。
「勘弁してくれよ」
テッドも魔法族の一員ながら、簡単な魔法は使う事が出来る。だが、魔法使いになるには相当の知識と技術が必要になる。勿論、経験は最も大事な要素だが、まだ若い魔法族は、兎に角より多くの呪文を覚え、魔法陣の描き方や手技を覚える事が基本になる。
それにしても、あんなに覚えないといけないものか、とテッドは何百回何千回も自問自答した。
(あんなんじゃあ、俺なんか魔法使いになれっこないな)
ジェムと出会って一日目から、白旗を上げていたテッドだった。
「ごめん……」
怯えた声がテッドの心を震わせる。
魔法の勉強なら、部屋の外でやってくれと言いたい所だが、さすがにそんな非道な人間では無い。
「もっと小さな声でやるからさ」
内気で大人しいジェムは、おどおどしながらテッドに謝った。こうなると、テッドも申し訳無い気持ちになってくる。
「声出さずにやれないものか?」
「うーん。それは、難しいよ。僕の覚え方は口に出して耳で覚えるやり方だからねー」
「そうか。って、納得出来るかっ」
ひとり突っ込んで、テッドは布団を頭からかぶった。
目を瞑り、両手で耳を塞いで藁の感触を頬に押し付ける。
(俺は寝るんだ。俺は寝るんだ。俺は眠たいんだ……)
口は動かすが、声に出さずに自己暗示を掛けようとする。当然、掛かる訳も無い。
「ぶわっ」
「わあ、びっくりした」
テッドの様子を窺いながら呪文を覚えていたジェムは、突然布団を弾いたテッドに驚いた。
「散歩だ」
テッドは、勢い良くベッドから出た。
「え?」
「散歩して来る」
「そんな……」
ジェムも慌ててベッドから下りて来た。
「部屋出るなら僕が出るよ。悪いよ」
「いやいや、気を使わなくていいぜ。少し体を動かしたら眠くなるから。そしたら、お前の呪文も気にならなくなるさ」
「そんな事、テッドにさせられないよ」
「いいから、気を使うな。お前は、自分のやる事をやればいいんだ」
テッドは、軽く上着を羽織ると、ジェムの言葉を待たずにさっさと歩き出した。