『風に匂う剣士』 その14
「テッド。用意出来た?」
薄い竹細工の壁の向こうから母が声を掛けて来た。
「今行く」
母の声に自然と反応したのか、弟達がもぞもぞと動く。しかし、夢の世界から今世に戻る様子は無い。
(お前達。父さんと母さんをよろしくな)
テッドは荷物を持つと、腰を屈めながら外に向かった。
山頂から吹き下りる冷風に頬を撫でられる。
深閑とした深い闇が続く≪結いの森≫。
何百年もの間、一族を守り続けて来た豊潤な大地は、天高く急峻な≪四つ峰山脈≫の上に広がっている。
テッドは、この自然の中で生まれ、育ち、戦って来た。
命の恵みを知り、命の儚さを感じ、命の逞しさを見詰めて来た。
そこは、神々を崇めし神域。
険しい斜面に建てられた小屋は、立ち上がるには低く、八人家族全員で寝るには狭過ぎる。
この地の狩人は、夏の間、山深い森を渡り歩く生活を何百年も続けていた。
勿論、定住の家は無い。山住まいの間は簡素な小屋を転々とし、冬は、麓に下りて、引退した一族の老人達が維持している茅葺の建物で集団生活をしながら寒さを凌ぐ。
狩人の暮らし程不安定なものは無い。獲物が見付からなければ延々山々を歩き回らないといけない。十日も獲物を見付ける事が出来なければ、呆気無く一家全滅する厳しい世界である。
テッドの家族も何度も苦しい時期を乗り越えて来た。かつては、ふたりの赤ん坊を栄養不足と怪我による壊疽で亡くしている。それでも、マシな方だ。平均して、子供の半分以上は大人になれない世界である。テッドを含めて六人の子供が無事に育っているのは、腕の良い父と長男がいたからだろう。
只、テッド自身も幼い頃は食料不足で命を落としかけているし、狩りの失敗で獣に襲われ、崖の下に落ちて半死半生になりながらも助かった経験がある。
腕が良くても、割の合わない生業だという事だ。
(もう、ここには二度と戻れない……)
テッドは再度憎たらしくも可愛い弟妹達に振り向いた。もう二度とこいつらを守る事が出来無い。
獲物を獲って来た時の笑顔、空腹に耐え切れなかった時の泣き顔、狩りを教える時の真剣な眼差し。どれもが今となっては懐かしい。
(くそっ)
テッドは、己の運命に腹立ちながら、まだ暗い森の中に出た。
暗闇広がる樹々を背に両親が黙って立っていた。
革袋を背負い直した時に、足元の濡れた土に足を取られそうになった。
「あら、危ない」
不安な表情の小柄な母がテッドを支えようと手を出して来た。
「大丈夫?」
「ああ……」
貧しい人生に身を任せ、ひと言も愚痴を言わない女である。その日を生きる事に必死で、他の生き方があるのだと想像だに出来無い日々を過ごして来た。それでも、今更平地の生活が出来るような器用な人間では無い。
母は、わざわざテッドの為になけなしの蓄えで買い求めた平地人の服の乱れを整えてやった。とは言え、母も平地人の服なんてまともに見た事も無い。それどころか、どう着こなすか、家族の誰も分かっていない。