第一話 悲しい世界のカコバナシ
職業。
それは、誰もが持つもの。
それは、生まれたときからの運命。
それは、けして同じものなど存在しない。
そして――――
― ― ― ― ― ―
「喰らえッ!」
鋭く空を走り、弧を描く幾条もの線。
その線と線が交差するたびに生み出される衝撃音。
ここは、街はずれにある中学校の体育館。
その体育館に、三十人ほどの生徒が集まり輪の中心を観戦していた。
その注目を浴びる中心部にいるのは、素手で戦いあう二人の少年の姿。体育用のジャージを身にまとった二人は、一旦間をとりつつ相手の様子をうかがう。
一人は、気の強そうな赤髪の少年。
対するもう一人は、寝ぐせではねた黒髪の少年。どこにでもいそうな黒い目の背丈も平凡的な少年。荒い息を吐きながら額の汗をぬぐっている。
そのとたん、赤い髪の少年が動き出す。
大きく前進して、大きく足を蹴り上げてきた。
「はァ!」
「――ッ!」
その鋭い疾風に、黒髪の少年は慌てて体を横にずらす。服を足がかすっていった……と思いきやその足が軌道を変えて横薙ぎ切りかかってくる。避けれたことに一瞬気が抜ける黒髪の少年は、無防備に腹にくらい、床を転がった。
「あうぁ……!?」
「おいおい、こんなで終わりじゃないよなァ? 如月 境よォ~?」
ゲホッと咳き込みうずくまる黒髪の少年――如月 境に、赤髪の少年は口元を歪めながら呼吸一つ乱さずに嘲笑ってくる。
この時点で、もうすでに勝敗の結果が見えていた。
その見える勝敗に、周りで観戦していた生徒たちにも呆れたような表情が浮かんでくる。そんな生徒たちに混ざって勝敗を見極めようと、静かに見ていた女教師が一歩前に出て、立ち上がった境に聞いてきた。
「どうしますか、如月君。降参しますか?」
「……」
「荒山君は、元から格闘技が強い生徒です。貴方が負けてしまっても、そう落胆することはないんですよ。先生としては、如月君が怪我してしまうことのほうが心配なんです」
無言でうつむく境に、教師が優しく諭すように語りかける。
そんな心配する言葉に、涙目の境が頷きかける。
「……降参しま――」
「――ハ! 逃げようとしてんじゃねェよ!」
その声と共に、背後から頭に強い衝撃が爆ぜた。
「ッあ!?」
床を何回かバウンドして。それから吹っ飛んだ境の足首を掴まれどこかへ引きずられる。気づけば、境は体育館の中心に乱暴に引き戻されていた。
「おいおいおい。なんで逃げようとしてんだよ、最後までやろうぜェ? あ、それともこの腰抜けクズ野郎は無理なのかなァ? なら、俺の靴なめて『自分は情けない生きてることもクズ過ぎる人間の恥です』って言えば許してやるぜ? ほらやれよ」
「ちょ……荒山君!?」
「――わかったよ、降参はしない」
「「「……ッ!?」」」
ギョッと振り向く教師と驚いたような顔をする生徒たちを無視して、境は荒山をまっすぐ見据える。握りしめられた手がガクガクと震えていた。
「降参、しないよ。続きを、やろう」
「如月君ッ!?」
駆け寄ろうとしてくる教師に境は笑いかけた。眉毛をハの字にさせて、今にも折れてしまいそうな弱々《よわよわ》しい笑顔。
「いいんです。大丈夫です。多分、すぐ負けてボロボロにされてしまうと思うんですけど……今断ったら《《後が怖い》》ので」
「え? 最後なんて……?」
「とにかく、続けます」
そう言ってから五メートルほど離れた場に、腕を組みながら仁王立ちをして見下ろしてくる荒山に視線を戻す。
「ふゥん、よくわかってんじゃん。ま、どっちにしろ、俺がお前をぶっ殺すってことには変わりないけどなァ?」
「…………殺されるわけには、いかないんだよ……!」
キッと境が荒山を睨み、ダッと走り出す。そして目の前に来られてもなお、薄く笑っている荒山の顔にめがけて迷いなく拳を打つ。
「いや、おせェよ。ノロマ」
「――ッ!?」
しかし、その単純な動きの拳は荒山が軽く腕を添えて、軌道をずらされ捌かれてしまう。がら空きになった腹に、至近距離から蹴りを一発入れられた。
「グハっ!?」
「オラオラオラァ! いいサンドバックだなァ、境さんよォっ!」
鋭く重い突きが、顎、腹、腰にと容赦なく打たれていく。ボロボロになった境に、荒山はにやりと笑って最後に突き放すように大きく足を旋回させる。
「うあっ、う……ぁぐ……!」
投げ飛ばされ、ゴロゴロと床を転がり、這いつくばる境。這いつくばった姿勢から、笑う膝に叱咤して無理矢理に立ち上がる。
境が前をぼんやり見れば、荒山がゆっくりゆっくり近づいてくる。余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》の黒い笑みを浮かべた顔。どうしたら、もっと痛めつけることができるか。そんなことを考えてそうな暗い表情。
――だからこそわかった。
次、荒山がどこを狙ってくるかを。
「そんじゃあ、さっさと死ねよッ」
「……」
地を深く踏み込み、飛び込んでくる荒山。その唸る拳が、境の顔を捕らえる――前に、不意に境がしゃがみ込んだ。
「おうあ……ッ!?」
境の頭上を、荒山の腕が伸ばされる。標的をなくした拳は、勢いに流されすぐには態勢を戻せない。
それを境は見上げ、下から手首を掴み、立ち上がって、残る力を振り絞って全力で荒山を背負い投げる!
「ハァァッ!」
「ゥ、うァああーーッ!?」
荒山は情けない声を出しながら、背中を床に打ち付け、倒れ伏した。すぐに立ち上がる気配を見せない。それなりにダメージを負ったようだ。ということはつまり。
「僕が、勝った……?」
ここに逆転勝利をおさめたのだ。長いように見えた勝負の結果は、あまりにも予想外で進展が速すぎる。
しん……と静まり返る体育館。
皆からの痛いほどの注目を浴びながら、ゆっくり境が振り返る。できたばかりのあざを手足に残しつつ、透明な笑顔で。
「先生、勝ちました」
「…………ッ!?」
固まったままの先生は、境が言った言葉の意味をゆっくり噛んで、砕いて、飲み込んでいくうちに、顔に驚愕が浮かび「え、えっ!?」と境と四つん這いの荒山を見比べている。
まわりの生徒たちも何が起こったのか何一つ理解していないぽかんとした顔をしていたが、先生と、荒山と、そして境をを見て、それが境の勝利だと理解したようだ。
あんな逆境の中、境の負けは火を見るより明らかだった。それにもかかわらず――
彼らは、驚いたように境を見て。
目を見開いて境を見て。
息を吸い込み、大きく口を開いた。
「どうせ、不正したんだろ」
その言葉を聴いた境が「…………え?」と声をもらす。
そんなことなど言われるとも思っていなかった無垢な笑顔が、ひきつった。思わず力が入ってしまったらしく、握られた拳に爪が食い込む。
「ちが……僕は、そんなこと……!?」
「うわ、サイテーなんだけどー。不正したのか! だから勝てたんだな!」
「――」
「なんだよ、いつもの事じゃん。い・つ・も、そんなことしてんだよ。うわぁ荒山がかわいそう、真面目に能力使わずにやってたのに」
「そんな不正なんかした勝利で、なんかいいことあんの? ねえ?」
「んなのきまってんじゃん。『どう? 僕、すごいでしょ天才でしょ無敵でしょ強いっしょ? ほめてほめてぇー』ってことだろ」
「きっも!」
「…………ぼ……くは、してな……!」
「はァ? 不正して俺に勝った気でいるお前を、だれが信じるんだよ。この悪魔が!」
呼吸が。一瞬呼吸が止まった。考えられなくなって。
何が起こってるんだろうと思って。
みんなの笑う顔見て。
理解して。
――ああ、いつも通りじゃないか。
そのいつもとなんら変わらない結論に、境の顔から表情が抜け落ちる。
今回はなにを間違えたのだろう。僕が何かしたのだろうと考えて、勝ってしまったのが、逃げずに戦ってしまったことが悪かったと思って。
一生懸命、がんばったんだけどなぁって思って。前はヘタレって言われたからいくら危険でも怖くても立ち向かうようにして。運動できなくて前は笑われたから、夜中まで……走って……疲れたけど……今回は、とってもとってもがんばって、がんばってがんばった……はずなのになぁ。
胸が押しつぶされて、でも我慢して。
でも我慢って思うほどあふれてきて。
こんなの慣れてるはずなのに。もう何も言わないでほしいのに、これ以上は耐えられないのに、それでも周りからの言葉は容赦なく切り刻んでくる。
「んー? 荒山ぁ、なんで悪魔?」
「んーと、このクズ野郎は、いっつも不幸なことにあってんじゃん? それも最近、周りにいる人も不幸にしてくらしいからさァ」
「隣のクラスの高杉もそれくらって、工事中の梯子が落ちてきて危なかったらしいわ」
「え!? マジで!? え、え、せんせー。俺、この教室嫌です! 悪魔いるから!」
ギャハハハハハ! と盛り上がる教室の中心に取り残された境は、逃げようとするように体育館の隅に移動して、しゃがみ込み、耳をふさぐ。
先生がみんなを止めているようだったが、あまり効果はなさそうだった。
うつむく境に教師が急いで近づいて、目線を合わせながら言う。
「如月君、ほんとにごめんね……。こんな実戦練習なんて、まだやんなきゃよかったね……。でも、ちゃんと後でみんなにいっておくから。如月君はそんなことしてないよって」
「い……いいんです。先生が、誤ることじゃないんです……」
「本当? またなんかあったら言ってね」
頷くことしかできない。
境は知っていた。多分、教師がどうとできることなんてほとんどないんじゃないかって。教師が境をかばったって、この状況は変わらない。そんなの経験ずみだ。
それに、と境は目を伏せながら思う。この教師は、この状況が『如月 境という少年がみんなにからかわれている』と軽くしか思っていないのだろう。実際、授業中にまでこうなるのは最近だし、暴力的なことは《《ここでは》》していない。
そう暗い表情で考えていた境に、上から影が覆う。顔を上にあげると、そこには荒山がいた。荒山は無表情で境を見下ろしていた。ただその瞳に並々ならぬ殺意と憎しみを、どこまでも暗く宿しながら。
「ヒ――!?」
「……なァ、境。よくもやってくれたなァ。わかってんだろうなァ。次どうなるかをさァ」
そして、しゃがみ込んで震える境に、荒山はゴミを見下ろすようにニヤリと歪に笑う。そして、口を開く。
嫌な予感が背筋を凍らす。
「――放課後、体育館の裏に来いよ。来なかったら殺す」
修正いたしました。
お話の大まかな筋は変わっていませんが、話の発展の仕方が変わっております。