人生は2度あればいい
変身願望の行く先にあるものは?
「美」か「毒虫」か?
おれは、しがないサラリーマン、毎日、同じ時刻に起き、同じ電車に乗り、同じ駅でおり、同じ道を歩き、同じビルに入り、同じエレベーターに乗る。そうやっておれの一日が始まる。そして、見あきた仏頂づらの課長のもとで、ガミガミ小言を言われながら、電卓をはじく。何がおもしろくないのかわからないが、よく部下にあたる課長だ。特におれは、始中おこられている。それが一時の休みもなく十二時まで続き、昼は会社のきたない食堂でラーメン定食を食べる。午後は、会社の得い先に頭がひざにつくように頭を下げ、お世辞を言い、機嫌を伺い、注文を取ってくる。そして大急ぎで会社に帰り、「課長、注文を取ってきました」とちょっと得意げに言うと、課長はそんな事におかまいなく、「君、先月より注文数が少ないじゃないか、どうしたんだ、そんなことで営業の仕事がつとまると思うか」「精神がたるんどる証拠だ、もっと気を入れてやれ、気を入れてだ」と小言の連発。
やっと午後五時の終業のベルが鳴ると、もう精も根もつかいはたして、ぐったりだ。こんな、しめりきった気分でだれ一人もいない四畳半二間のアパートに帰る。もうほんとクタクタなのに、必至に気を取り直して、晩めしの準備にかかる。もちろん自炊だ、今日の料理はどれにしようかなと考える暇もなく、毎日、カレーライスかピラフかラーメンかコロッケと即席のスパゲッティとかいう、組合せの連続だ。そしてなけなしのサラリーから買ったウイスキーをちびちびと、それも、ウイスキーが一に対して水が九という非常にうすい水割りを飲む、こんなものを飲んで気分がすっきりするはずもない。しかし、金がないからしかたがない。食事が終るとテレビをつけ、野球かクイズ番組を見る。そして十二時になると就寝だ。こんな生活が四年間続いている。おれが三流大学を卒業したのが二十二の時だから、今は二十六。まる四年間だ、こんな生きがいも希望も楽しみも夢もない生活――そう、そんな生活をおれはやりつづけている。別に好きでやっているのではない、だれが好きなものか、こんな生活。しかし、おれには、この会社をやめる勇気も、何か別の仕事で一肌あげる根性もない。要するに憶病なのだ。川の中に落ちたボールの様に、ただまわりに流されるだけ、流れに逆らうことも、陸地にあがることもできない。どこまでもどこまでも、流されて、落ちていく、そして、そのうちに腐って水の中に沈んでいく。
おれは常々、運が悪いと思っている、生まれついてからずっとそう思っている。いつも、どこでも、どんな時でも、「ああ、おれには運がない、運がない」の連続だ。それ一言しか言えない人形の様にそう思っている。おれの生活がこんなのも運が悪い、出世しないのも運が悪い、三流大学しか入れなかったのも運が悪い。なんでもかんでも運のせいにする。そして、おれはだめな人間だ、おれなど生まれなかったほうがいいのではないかと悲観的になり絶望する。そんなおれの夢もくだらん夢ばかりだ。一億円の宝くじが当たるとか、競馬で大穴を当てるとか、どこかの大金持ちの娘の婿養子にいくとか、どれもこれも他力本願な夢ばかりだ。ああ、本当にだめな人間――それがおれだ。
また、おれは時間が怖い、時というものが怖いのだ。絶えまなく永遠に続く時間、そんな時間の中でいつまでこんなくだらない生活が続くのか、いつまで運がないと言っているのか、それが怖い。また反対に、もう二十六才だ、あと死ぬまで何年生きられるかわからないが、このままでいいのか、いいはずがない。今に一肌あげよう、生きがいを見つけようとあせるのだ、また今日も一日、むだに過ごしてしまった、明日もあさってもそうだ、こんなことでいいのか、時間は待ってくれない、一時も早く何かしようとあせるのだ。しかし、何をしようとすればいいのか、こんな臆病なおれに何ができるのか、一体、何をすればいいのだ、おれは一体何のために生きているんだ、何のためにこの世に存在しているのか、何のために生まれてきたのか、何のため、何のためにだ!今、おれは、生まれ変わりたいと思っている。とにかく、今の自分がいやなのだ、自分の性格、自分の顔、自分の体、全てがいやなのだ、変わりたい、変わりたい、変わりたい!何かに変わりたいのだ、毛虫が変態して美しい蝶になる様におれも変わりたいのだ、いや、美しくなくてもよい、カフカの小説に出てくる毒虫でもいい、とにかく変わりたいのだ、今、こうして、ここにいる自分がいやなのだ。自殺――そんなに自分がいやだったら、自殺でもすればいいと他の人はいうだろう。しかし、そんな勇気すらないのだ、変わりたいと思っていながら、まだ、今の自分に未練があるのだ、死ぬことが怖いのだ。情けないおれ、おれなど生ける屍だ。
夏の太陽がアスファルトを照りつけている。ノースリーブのOLがおれの前を通っていく。汗が額から落ち、目の中にはいる。暑い、もう夏だ。おれは御堂筋を歩いている。目の前に駅前第四ビルが見える。そのガラスが光を反射してまぶしい。思わず、立ちくらみがする。排気ガスの匂いと騒音、町は生きている。生きづいている。その中で何千何万の人間が住んでいる。みんな、それぞれ何を考えているのか、みんな、生きがいがあるのか、今の自分に満足なのか、このままでいいのか、おれは満足じゃない、おれは不満だ、おれは変化したいと願っている。こんなことを考えているのはおれだけなのか、広い横断歩道の人ごみの中で、おれは考えている。また、いつものことを考えている。もう、十二時五十分だ、会社に帰らなければならない、この暑くほてった体をビルの冷房が冷すだろう。だが、おれの頭の中の熱はどこに行っても取れない――おれが変わらない限りは。
おれがそんなふうにぼやぼやして歩いていると、後でクラクションが二回鳴った。おれはちゃんと歩道にいるのだ。またもや、クラクションが鳴る。後ろをふり返る。まっ赤なレクサスが低速で速ってきておれの横に止まった。
「ちょっとこっちに来れくれない」窓をあけて、若い女が呼ぶ。おれは、道でも尋ねるのだろうと思って車に近づいた。
「あっ、そこで止まって、そう」女がおれの顔をジロジロ見る。視線が合う。なかなかの美人だ。
「何か様ですか」
「ちょっとだまって」と女は、宝石でも見る様におれの全身に視線を走らせる。
「あっ、ちょっと一回転してみて、さあ早く」おれは何が何だかわからず一回りした。
「うーん、なかなかのものね、これだったら、いけるわ」女は、独りで相づちを打ち納得した。
「さあ、早く車に乗って」とドアをあける。
「何で」とおれがきょとんとした顔で尋ねると、女は笑いながら
「とにかく乗ってよ、急いでるんだから」
「・・・・・・」
「さあ、早く、ぐずぐずしないで」女は車から降り、おれの腕をつかんで強引に車に乗せた。
車は新御堂筋を北上している。女は、さっきから黙って車を運転している。一体、何をするのか、どこへ行こうというのか、聞こうと思うのだが、話すきっかけがつかめない。まるで、ヘビににらまれたカエルのような心境だ。女の白い、どこか冷たい横顔は人間という感じがしない。純白の肌は白蛇の様に妖しい。生まれながらにして、人を服従させる様な女王の感じだ。おれはその女王に捕えられた捕虜。話そうにも女王の許しがなければ口を開くことができない。おれと女王の間には、目には見えない厚い壁があるのだ。とは言っても、おれもこのままではどうしようもない。何か聞こうと声を出しかけた時、彼女はこちらを向いて微笑した。
「あなたは、これから変るのよ!」女王が命令調の響きで言った。
「私があなたを変える。あなたは蝶になるのよ」
“変わる”その言葉がおれの胸をついた。冷水をあびせられたように体が震える。鼓膜に研ぎすまされた針を刺された感じ。痛みが全身を覆う。変わる――それはおれが常々考えていたこと、それをどうしてこの女が知っているのか、おれの心を読まれたような気分。不愉快――いや違う。変わるという言葉で体全体が共鳴している。今にも飛びだそうとしているのを必至に押さえる。
「ねえ、聞いてるの」女はこちらを向く。
「か、かわるって、どういうことですか」
「相当、興奮しているみたいね、そんなに驚いた?なにもとって食おうというんじゃないのよ。でも驚ろくわね、急に車に乗せられちゃって。では、そろそろ事のいきさつを説明するとするか。これからあなたはスターになるのよ、正確に言えばスターの替玉よ、もちろん芸能界の話。あなた、原口丈って知ってる?今、売れっ子の歌手で俳優もこなしているバリバリのスター。その原口丈にあなたがなるのよ。詳しいことは言えないけど、その原口丈は今消息不明なのよ。でも大衆は原口丈を必要としているわ、だから、あなたが選ばれたわけ、わかる?」
「・・・・・・」
「まあ、怖い顔」
「私の説明で不満かしら」
「一体、何の話なんだ」思わずどなり声になる。こんなばかばかしい話につき合っていられるか。何が変るだ、子供だましもいいかげんにしろ!
「あなたはまだわかっていないようね、自分が何万人に一人というチャンスをつかんだことを。あなたは気づいていないようだけど、そっくりなのよ、原口丈に。髪をもう少しのばして、鼻を高くすればそっくりになるのよ。それに声帯を少し変えれば」
「……」
「私達の言う事を一年間聞いてくれれば、それだけの報酬は払うわ。サラリーマンがどんなに働いてもつかめない大金よ」
車は吹田インターチェンジから名神に入いる。女はサードからトップギアにチェンジし加速する。回りの景色がひきちぎられるように後に飛んでいく。まもなく、天王山トンネル、一瞬、暗くなり視界がぼやける。赤い光につつまれる。女はカーステレオをつけ、再生ボタンを押す。どこかで聞いたような前奏が流れてくる。
父は今年二月で六十五
顔のシワはふえてゆくばかり……
「私、この歌を聞くたびに思いますの、人間の人生なんてはかないものだと。だれかが言ってましたわね、人間の一生なんて宇宙の時間からみればほんの一瞬、ほんのまたたきほどの時間しかないと。そんなはかない人生をむだに過ごしていいものかしら。あなた、この歌の題名、御存じ?井上陽水の“人生が二度あれば”よ」
一瞬、まばゆい光が体全体に走る。車はトンネルをぬける。
「この歌は何を歌っているかおわかり?年老いた父や母にとって彼らの過ごした人生というものがどんなに平凡でつまらないものであるかを歌っているでしょ。そして、“人生が二度あれば”でむすんでいるわ」
湯飲みに写る自分の顔をじっと見ている人生が二度あれば
人生が二度あれば
「私、思うのだけど、年寄りになってから人生が二度あればなんてみっともなくて言えないわ、そんなことをつぶやくのは、人生をせいいっぱい生きていなかった証拠よ。年寄りになってから悔いても遅いのよ。そんな人間は人生の落伍者よ、落ちこぼれよ。今のままではあなたも落ちこぼれじゃないかしら、きっと後になって後悔するわ」
「おれは後悔など…」言いかけてから言葉につまった。おれは変わりたいと思っていたのだ。今、おれは変れるかも知れない。
「私はあなたの事を興信所に調べさしたわ。そして、あなたがどんな生活をしているのか、今までどんな生活をしてきたか全て知ってる。だからはっきり言えるわ、あなたは今の自分に満足していない。どう図星でしょう」
「確かにおれは満足していない。前から生まれ変わりたいと思ってきた。でも…」
「なんでしょう」女はいたづらっほい笑みをうかべる。全ておれの事はおみとおしだと言わんばかりに。
「あなたの話が本当だとしてもその原口丈はどうしたんだ」
「当然の質問ね、逃げちゃったのよ。何もかもがいやになって消えちゃったの。きっと頭にきたんじゃない。彼は神経性の病気があって弱かったのよ。だから大スターという身分にとどまれなかったんだわ、弱い人間だったのよ。もう、よしましょう、私、彼のこと嫌いだわ、全て弱い人間は嫌いよ」女はたくみにギアを入れ替え前の車をぬく。
「私の好きなものは強者よ、部下を何千人も従え、部下から尊敬されたたえられる人、勇敢で何事にも負けない人、ねえ、あなただったらそうなれるでしょう」
「でも、おれに関係ない」
「関係ない?そう言えるでしょうか、あなたにもやっとチャンスが訪れたのよ。有名になれる、えらくなれる、たくさんのファンから愛されるそんなチャンスが訪れたのよ。あなたはそのチャンスをただ手をのばしてつかめばいいのよ。それだけのことで」女はこちらを向き片目をつぶってみせた。
「それだけのことであなたは変れるのよ」
「あなたは一体、何者なんだ」
女は微笑する。
「私、私は人を幸福にする女神、そう思っていただければいいかしら」
「そんなことは聞いていない」
「いかが」そう言って女はタバコをすすめる。ハッカ入りタバコ。おれは首を振る。女はタバコをくわえ、火をつける。細い指、白い手、赤いマニキュア、紫の煙、ハッカの匂い。この話は本当のことだろうか、女はうそを言っているようにはみえない、だが、キツネにだまされたような夢みたいな話だ、信用していいのだろうか、もし本当なら、おれは、おれは変われる。女を顔を見る。肩までのばしたウェーブがかかった髪、うすめのアイシャドウ、まつげの長い切れ長の目、高い鼻、小さな口、デォリィシモだろうかいい香り。女はどこを見ているのだろうか、何を考えているのか。
「どう、少しは私の話、信用なさって?」透明的な甘い声。
「もう関係ないなんて言えないでしょう。あなたは何万人の中から選ばれたのよ。こんなチャンスは二度と訪れないわ。それにもうベルトコンベアが回っているのよ。あなたはそれに乗るだけでいいのよ」
「でも、おれにできるか?」
「怖い?」
「…」
「怖いかも知れないわね、今までのあなたから見ればこれは相当の冒険よねぇ。性格、顔つき、声、全てのものが、今のあなたの全てのものが変る――言ってみれば今ここにいるあなたは存在しなくなるのよ、死ぬのよ。そしてあなたは新しく生まれる」
「生まれる?」
「そう、あなたは人生を二度体験できるのよ」
「ところで、自己紹介しなくちゃね」そう言って女は名刺をおれのひざに投げた。
早川プロダクション・芸能担当課長
早川涼子
「早川プロ?」
「そう、私の父の会社よ。でも今は私が全てをやってる。これでも芸能界じゃちょっとした会社よ。今までたくさんのスターを育ててきたわ。私もこの手で5人のスターの面倒をみてるわ。それで言えるのだけどスターに才能なんか必要ないわ。全然必要ないと言ったら言いすぎかもしれないけど、スターに必要なのは野心よ。他人に負けないという野心、えらくなろうという野心、そんな野心があればいいのよ。言いかえれば闘争本能よ。闘う気力よ。私、思うんだけど、どこの世界でも弱肉強食じゃないかな、強い者が弱い者を食う、それがこの世の掟よ。何千年も何万年も前から続いている掟よ。人間もしょせんこの掟にしばりつけられてるのよ。弱い者はいつまでたっても平社員で課長にペコペコ頭を下げて、そして毎日毎日、自分がいやだなんか言って嘆いている。ごめんなさい、あなたのことよ。私、そんな負け犬って嫌いだな。この世に生をもって生まれてきた以上、強者になるのよ。強者になるようにせいいっぱい努力するのよ」
女の説得は続く、だが、おれの心はもう決っていた。おれは変わりたい、ただそれだけだ、今おれの心の中にあるものは。たとえ、今よりみじめになっても変わりたい。たとえ、のたれ死にしようとも、たとえ、見せ物になっても、たとえ、他人の物マネでも、たとえ、たとえ、たとえ……。たとえ、どんなことになろうとも変わりたい。「たとえ、どんなことになろうとおれは変わりたい!」
女はキョトンとした目つきでおれを見た。
「それがあなたの野心なんだわ。あなたの野心は変わりたいという変身願望なのよ。ちょっと変わった野心だけど、まぁいいわ」
パチンと指を鳴らすと、女は、これから急がしくなるわよ、寝るひまもないくらい、そう言って一枚の紙を渡した。
「じゃあ、この契約書にサインしてよ」
おれはスラスラとなんのためらいもなくサインした。これでおれの人生が変わる。おれは生まれ変われる。夜のとばりが訪れる夕やみの中を車は一路東京に向かった。
女は東京中を案内してくれた。スカイツリー、銀座、浅草、六本木ヒルズ、原宿。今日一日が今のあなたの最後の日よ、そう女はしばしば言った。だがおれはそんなこと気にもとめなかった。ただ、変われるという事実そのものが今のおれの全てだった。今の自分が存在しなくなる、そのことがただただうれしかった。だから、明日には整形手術があるというのに何の不安もなく、早く明日になれと反対に思った。何故、そんなに自分がいやなのか、今までおれは何度も考えた。子供の頃はそうではなかった。あの頃はまだ人生に希望がもてたはずだ。しかし、だんだん成長するにつれ自分がいやになってきた。何故なのだろう。一つはおれの性格だろう。億弱、気弱わ、神経質、短気、心配症、はずかしがしや。自分自身でもわかるし、他人からもよく言われる。だが、性格テストなどでは、「あなたは常識のある人で温好で人から好かれるタイプです」とか「沈着冷静でけじめがあって誠実で……」とかよい答が返ってくる。しかし、そんなものはウソっぱちだ。要するに要領がいいだけだ。テストではいつも正直に答えずによい答のほうを選んで表面だけ取り繕うとする。正直に答えようとするのだが、どうしても、おれは誠実のはずだ、おれは粘りがあるはずだ、おれは親切なはずだと自分勝手に思い込み、心の底とは裏はらに外見だけはそんな風にみせる。何故なら、おれはそのような性格を心の底から望んでいた。そしてなりきろうと努力した。親切で誠実で粘りがあって思いやりがあり總明で明るく外向的な人間、言ってみれば完璧な人間になろうとした。しかし、それはほんの表面だけの薄っぺらい皮膜にすぎなかった。
例えば、初対面の人は「あなたはいい人だ」と誉めてくれるが半年もたつと「あいつは臆病で意気地がない」などと影口をたたかれる。皮膜はすぐにおち、おれの真の性格があらわになるのだ。そうなると他人はもうおれのことを信用せず、おれを邪魔物扱いする。皮膜がすごかっただけに裸のおれはまったくもってダメな人間で醜い存在にしかすぎない
のだろう。何をするのにも人の顔色をうかがわないと実行できない。自分のした事に責任がもてない。失敗を恐れていつも言い訳を考える。一つのことに行き詰まるとすぐに諦めて投げ出してしまう。他人の成功をうらやみ他人の失敗を喜ぶ。すぐに楽な事を考える。物事に集中できない。失敗すると他人にあたりちらす。自分に自信がもてない。自分だけが不幸物だと思い込み落胆する。そして運が悪いという。それがおれだった、今この時のおれだ。だが、それももうすぐ終わるだろう。今おれは手術台に横たわっている。強力なライトがおれを照りつけている。やがて、麻酔が利いてきて深い眠りにおちればそれでいいのだ。今度、目覚めたらおれは別な存在になれる。おれが願っている完璧な人間になれる。おれはもう一度生まれる。そう考えると、今のおれは赤んぼうなのだと思う。何も見えない、何もわからない、名前もまだない赤んぼう。今にうぶ声をあげるであろう赤んぼう。未来に期待がもてる赤んぼう。そんな赤んぼうが今のおれだ。赤んぼうがもうすぐ生まれるぞ、孵化するぞ、外の空気を吸うぞ、目をあけるぞ、音を聞くぞ、声をあげるぞ、生きるぞ、そうだ、これから生きるんだ。
「さぁ、そろそろ、包帯を取っていい時期よ、原口丈君」耳もとでだれかが言った。原口丈?
「そう、もうすでにあなたは原口丈よ。現代のスーパースターよ」
多分、早川さんだろう。他に二、三人人のいる気配がする。おれは顔中包帯を巻かれてベッドに寝ている。もちろん目は見えない。今が夜なのか昼なのかわからない。あれから何時間たったのだろうか。
「じゃあ、先生、包帯をと取って下さい」
「では、包帯を取ります、いいですか」
「ええ」
医師の腕が後頭部をまさぐる。バリバリバリ。ハサミの音。包帯をはずしているのがわかる。くすぐったい。ハックション。おもわずくしゃみがでる。
「おやおや風邪でもひいたのかな」かすかな笑い声。えらく時間がかかる。グルグル巻きにしてあるんじゃないかな。医師はしきりに顔をいじっている。だんだん頭の重さがとれてくる。やっとこの暑くるしい殻がとれるんだ。薄くなった包帯を通して外気が伝わってくる。もうすぐだ。
「そら、もうすぐだ。これを取ればいよいよですよ。」誰かの息がかかる。最後の一巻が取られる。完全に外気に包まれる。
「おぅ!」
「まぁ!」感嘆の声。
「まぁ、そっくりだわ」
「成功だ、大成功だ」回りで誰かが飛び上がっている。おれはゆっくり目をあける。まぶしい。目の中が光でいっぱいだ。目を細める。ぼんやりと誰かの顔がみえる。早川涼子。大きな目がうるんでいる。まっすぐにおれを見ている。まばたき一つしない。大きな目は完全におれを包んでいる。やさしい目、一瞬美しいと思った。
「それじゃあ、自分の顔と御対面したら」そう言って鏡が差し出された。胸が高なる。鏡を受けとる。いよいよだ。恐る恐るのぞき込む。なんだ、たいして変わってないじゃないか!一体どこを直したんだ。
「さぁ、よく見るのよ。これがあなたよ」
目を皿のようにして自分の顔をすみからすみまで眺める。なかなかハンサムだ。鼻が高くなっている。そして先端部分の傾斜がゆるやかになっている。こういうのをワシ鼻というのだろう。それに目が細く目尻が上に向いている。後は、と思いながら捜したが見つからない。少し落胆気味だ。期待が大きかっただけにこれではおもしろくない。
「あまり、変わってないじゃないか!」
声を出して驚いた!これがおれの声か。一瞬耳を疑う。まるで女みたいな声だ。細く透き通るような声。もう一度しゃべる。
「これがおれの声か!」
高い。ニオクターブは高い。ヒステリーの女のような声。児童合唱団のボーイソプラノの声。おれじゃない。おれの声じゃない。どうしたんだ、一体、どうなったんだ。喉が変だ。喉の奥がヒリヒリする。
「あっ」一つの記憶がおれの脳裏をよぎる。
「そうなのよ。もうあなたは気づいたと思うけど、悪いけどあなたにだまって、あなたの声帯についていた人エポリープを切除してもらったわ」
あれはおれが高校生の時だった。おれは高校生になっても声がわりがしなかった。ヒゲや骨格は中学のころから正常にはえたり、大きくなったが声がわりだけはいつまでたってもしなかった。高校にはいっても幼い子供のかん高い声だった。人と話がするのがいやでいつも笑われるんじゃないかとビクビクしていた。だから、おれは高校時代、親しい友人ができずいつも一人ぼっちだった。自分のからにとじこもっていた。そんなおれを見た両親は大学病院におれをつれていった。そこで何とかしてもらおうとした。でも医師の言葉は冷たかった。君の場合、何が原因で声がわりがしないのかはっきりわからない、ホルモンの関係と思うのだが、何故声帯だけに第二次成長がおこらないのかさ?ぱりわからない、現代の奇病としか考えられない、残念だが直しようがない。おれは絶望した。自分がいやになった。何故おれだけがこんな不幸を背負わなければならないのかと嘆き悲しんだ。来る日も来る日も家にとじこもって学校へ行かなかった。家ではテレビばかり見ていた。青春ドラマを好んで見ていた。自分と同年代の若者が青春を謳歌するのを見て、自分も声がこんなじゃないかったらああして生きているのにと思った。そして自分の声が太くて男らしい声で女の子と遊んだり友人と野球をして元気に走り回っている自分を想像した。仮空の自分を頭の中で考え、想像の世界にひたっていた。両親はそんなおれをしかることもできず仕方なく自由にしてくれた。おれは頭の中の想像の世界で自分を変え、自分が野球部に入りホームランを打ったり甲子園に出場したりするなどの夢を見ていた。夢はいつかどんどん広がり、そのうち、おれは京大に入り弁護士になり法廷で活躍する自分を夢見た。おれが生きているのは夢の世界の中だけだった。そんなある日、病院から連絡がはいった。声帯に人工ポリープをつけることによりある程度声を太くすることができるという。おれは夢がかなったと思った。さっそく手術をしておれの声は変わったがおれの夢は何も実現しなかった。高校ではあいかわらずのけ者扱いされ、勉強にも身がはいらなかった。そんなわけで当然京大へは受験することも許されず、苦労の末、どうにか三流大学に入った。そして表面だけとりつくろう人間になった。
そんなおれが今またもとの声に戻ってしまった。以前の絶望していたころの声に戻った。これはどういうことだろう。おれだけいやだった声に戻ったのだ。おれはどうすればいいのか。
「何故、こんな声にした!おれが一番いやだったことを何故したんだ!」おれは早川さんの肩をゆさぶった。
「あなたはスターになりたい人でしょう。変わりたいんでしょう。その為にはこの声が必要なのよ。現代では人と同じ事をやっていたら成功しないわ。人と違ったことをするのよ。凡人じゃ考えもつかない全然違うことをするのよ。さいわい、あなたにはこの声があるわ。この高くすんだ声、すばらしいことよ。あなたにはこんなすばらしいものをもっているのに隠してるなんて宝のもちぐされよ、しっかりと活用しなくちゃ」
おれがすばらしいって、おれがあんなにいやだったあの声が宝だって、おれにはわからない。一体自分がこれからどうなるのかわからない。
「何、悩んでいるの、あなたはきっとスターになれるわ、私達がついているんだから、私達にまかせなさい。私達の言うとおりにするのよ、わかった?」
おれは変わった、いや、昔に戻された。夢を見ていたあのころに。そうだ、今度こそ夢を実現するんだ、今度こそ失敗はしない。
「ところで紹介するわ、こちらからメークの西野さん、マネージャーの東さん、スタイリストの南川さん」
左から背の高い女、背の低い男、アフロヘアーの女。
「今からあなたはマネージャーの東さんと作曲家の先生の所へ行ってもらうわ、それからモダンバレーの教室、その後は演技指導よ、がんばってね」
言い終わるやいなや、背の低い男がおれの背中を押し、さぁ早くと言って連れ出された。外には車が止まっていて、乗り込むとすぐに発車した。ものの十分もたたない内に作曲家の家につく。
作曲家はおれの顔を見るや「これがうわさの……ですな」となにやらふくみ笑い。マネージャーに目で合図を送るとさっそくおれをレッスン室へ。
「では、まず大きな声を出す。腹に力を込めて叫ぶ、さぁ」と手を差し出す。
「一体、何を?」とおれのかぼそい声。
「なんでもいい、とにかく思ったことを言えばいいんだ。口をあけて声を出す」
「おれは原口丈だ!」鋭く耳につきささろ音の波。まったく女の悲鳴としか聞こえない。
「それでいい、では発声の練習、まず、このドから、はいっ」とピアノのひき出す。しかたなく声を出す。
「もっとはっきりピアノに合わして」少し恥かしい。音階はだんだん高くなっていく。おれの声はそれについていく。まだまだと作曲家の声。すでに三オクターナはいった。しかし、まだ出せる。高音部になってはりがでてきた。作曲家の目つきがかわる。マネージャーの男を見る。真剣な表情。ノートに何かを書いている。発声練習はまだまだ続く。くたびれてきた。しかし、みんながんばっている。おれも負けてはいられない。
「君はなかなか音程がしっかりしている。一曲歌ってみるか」
マネージャーが近づいてきて作曲家と耳うち話。
「よし、わかった」作曲家が譜面をおれに差し出す。
「君、これを歌いたまえ」
ブルーライト横浜。なつかしい曲だ。前奏が流れてくる。街の灯りがとてもきれいね……と歌いだす。澄んだ声だ。メロディにうまく乗っている。少し強弱をつけてみる。声が自然に震えてくる。ビブラートがうまくかかる。我ながらうまいものだと驚く。曲の一番もりあげる所、腹から声を出す。その声が何故か鼻にかかる。うまい。最後までリズムに乗り歌い終わる。シーン。沈黙。作曲家は目をつむっている。マネージャーは口をあけたまま動かない。何を考えているのだろう。自分ながら、自分の歌がなかなかいい線をいっていると思う。プロの歌手とはいかないまでも上手に歌えた。どこにこんな才能があったのか信じられない。ただ声が気にくわない。細すぎるし高すぎる。女性歌手が歌っているみたいだ。すごく違和感がある。気持ち悪い。自分ではないような気がする。
「ん――、初めてにしてはいい感をしている。しかしプロとして人前で歌うにはまだまだだ。歌に感情がはいっていない。歌が死んでいる。テンポが早すぎる。要するに未熟だ。まあ、しっかりとレッスンをすることだ。特に君は下積みをしらないからな」
「はあ」
「君、何を言っているんだ。先生だぞ、おじぎをして、さあ早く」と横からマネージャーのしったの声。
「どうもありがとうございました」と深々と頭を下げる。どうもミスったな。この世界は何事も師匠と弟子だ。気をつけなくてはと反省していると
「原口君、早くいそいで。次のスケジュールがあるんだ。ボーとしないで」またもやマネージャーの声。あわてて車に乗り込む。マネージャーのきびしい表情
「いいかい、この世界では作曲家の先生や映画監督、プロデューサ達は絶対なんだ。いわば神様みたいなもんだ。あの人達にきらわれたら最後なんだ。到底生きてゆけない。どこのプロダクションへ行っても追い出され、曲は作ってくれないし、テレビにも出られない。当然、ヒットは出ないし、ファンからも忘れられる。あげくのはてに他方の安舞台の前座しか出してもらえないようになる。そうなると、いままで脚光をあび、何百万のファンから愛され、ぜいたく三味をつくしてきただけにとても耐えられない。しまいに自分からプロダクションをやめ、いままで稼いできた金で何か商売を始める。しかし、世間のことは何一つ知らないから、人にだまされたりして失敗する。そのうち酒におぼれ、麻薬に手を出しどんどんどんどん落ちていく。そんな人間を何人も知っている。いいかね、君、スターに自分でなったと考えてはいけない。スターはなるものではなく作られるものなんだ。スターは製品なんだ。企業が世情を調べ、今の若者が何を必要としているかを調べ、それに合うように企画し、プロジェクトチームがそれを作るんだ」
スターはなるものじゃなくて作られるものか。おれなんかまさにその典型だ。おれには何の才能も芸もない。ただ、プロダクションが作りあげた原口丈になりきればいい。それだけのことでスターになれる。大きな舞台で何千何万の人間の前でスポットライトをあび、華やかな衣装をつけ歌を歌う。その歌に何千何万の人間が酔い、感動し、拍手をおくる。毎日毎日、注目され、芸能記者からインタビューを受ける。プロマイドが日本中に出まわり、ファンからサイン責めにあう。おれももうすぐだ。もうすぐスターになれる。いや、作られる。
「さぁ、ここだ。ついたぞ」車からおりる。光モダンバレー教室。重々しいガラス張りのドアをあける。軽快なテンポの曲が流れてくる。奥へ進む。大きなフロアー。まぶしい。レオタード姿の女性、タイツをはいた男性。十数人が踊っている。手をたたきながら青いレオタード姿の女性が近づいてくる。日焼けした顔、光っている汗、高い鼻、白い歯、均整のとれた体。
「あなたが原口丈さん?」
「ええ」
「初めまして、当教室のコーチの青柳です。よく来ていただきましたわ、お待ちしていたところです」と言いながら握手のつまりで手をさし出す。大きな手、きれいな爪。こちらも手をさし出す。あたたかい。
「まず、隣の部屋で着換えて下さい」
言われたとおりにトレーニングウェアに着換える。戻ってみると練習室には青柳という人のほかだれもいない。
「あなた、運動好きかしら?」
「きらいじゃないけど」
「じゃあ、ついて走って」
広いフロアーを二、三周走る。走り終わると各種の柔軟体操、腹筋、腕立てふせをやらされる。心地よい汗をかく。
「もう、いいわ。これから音楽をかけるから、私のするように踊ってみて。まず手本を示すわ」手で二階の放送室らしき部屋に合図を送る。前奏が流れてくる。ノーランズのセクシーミュージック。彼女は手をあげ足をあげ首を振り、飛び回っている。足を交互に交差し、足が前にくる所で両手を深呼吸するように思いきり後にのばす。そして腰をひねって一回転して頭をあげる。その動作を何回か繰り返すと今度はあやつり人形の様に手を広げてギクシャク腕を動かしスキップする。頭をあげるところで前髪が後にはじけ、おでこに光があたる。何回かまばたきをし長いまつ毛が小刻みに震える。右手を思いきり伸し、背伸びをし、何かをつかもうとする動作の後、急に屈伸し、右足を軸にして回りながら立ち上がり、首を振りながら飛び回る。蝶が舞っているみたいだ。例えばオオムラサキ、例えばミヤマカラスアゲハ、例えばツバベニチョウ、南国の色あざやかな蝶だ。ビロウ、ソテツ、イトヤシ、アコウ、ハイビスカスの林の中を蝶が乱舞しているありさま。思わず拍手を送る。美しい。彼女はこちらを見て微笑む。
「今度はあなたの番よ、これはほんのデモだけど、もっと簡単なものをやりましょう」
音楽は再び鳴り始める。
「さぁ、私のように右足を前にあげてスキップしてみて」
「そう、そのとおり」
「さぁ、音に合わせて、もっと早く」
「今度は早すぎるわ、音をよく聞いて」
小一時間ばかり、スキップをやらされる。
「いいこと、音をもっとよく聞くのよ。耳をとぎすまして音の波をうけるのよ。言ってみれば音につつまれる――そんな気分になることが大切よ。音にふくまれて、つつみこまれて、その中で踊る。まるで、サラサラしたぬるま湯の中にすっぽりつかりこんで眠っているみたいに。そうすると音が自然に体の中にはいるのよ。体の細胞一つ一つに音の波が伝わるわ。音に支配されなさい。音の部分集合になるのよ。音の命令どおりに手足を動かすことよ。そうすれば美しくなれるわ、じゃあ、今日はこの辺で」
礼をして光モダンバレー教室を出る。
車の中で一人で考える。音につつまれるってどういうことだろう。音に支配される、音の部分集合になる。たしかに青柳さんは美しかった。一体、あの美しさはどこから来ているのか。音楽と完全に合って音楽によって動かされているみたいに踊っていたのか。そうだとすれば音楽につつまれることが美しくなれるってことだろうか。おれにはわからない。音楽につつみこまれた気分になれない。窓の外は夕暮れだ。超高層ビルの谷間にまっ赤な太陽がおちていく。おれは生きている。おれは空気を吸っている。空気につつまれている。この東京の空気につつまれている。地球の日本の東京の空気につつまれている。いや、違う。そんなんじゃない。あの人が言っているのはそんなんじゃない。もっと――何ていうのか――もっと……。そうだ、もっとやさしいんだ。やさしいものにつつまれる人だ。
「さぁ、原口君、この辺で夕食をとろう。今日はいろいろまわったから疲れただろう。あと一つ、俳優養成所へ行ってもらわなくちゃならないがまずは腹ごしらえだ」
そう言えば朝から何も食べていない。もう腹ペコだが空腹感をあまり感じない。とにかく今は見知らぬ世界のことで頭がいっぱいだ。何もかも、まったく違っている。サラリーマンの生活からは考えられないことばかりだ。楽しい、うれしい、期待感、希望、未来、輝き、それが今のおれにはある。感じられる。
車はホテルの玄関に止まった。ホテルの最上階の食堂にはいる。いや、食堂といっては失礼だ。高級レストランだ。赤い毛足の長いじゅうたんがやわらかい。大きなシャンデリア、ロココ調のイス、テーブル。暗い照明。最後の晩さんみたいな大きな絵画、きっと印象派だろう。どこからか流れてくるクラシック音楽。豪華――その言葉しか頭にうかんでこない。
「さぁ、原口君、ここにすわって」
窓際の大きなテーブルの前にすわる。窓から下を見る。高速道路の光の軌跡、低い建物の豆つぶのような灯り。無限に広がる光の点線。まるで宇宙だ。おれは今、宇宙にいるのかも知れない。大きな大きな果てがない宇宙だ。上も下も前も後も右も左も全て真空なんだ。その中におれはいる。おれもきっと光の星になるぞ、きっとなってみせる。
料理が運ばれてきた。うわぁ、何だこれ。思わず声がでる。
「ペリゴール産のフォアグラを詰めたウズラのゼリー寄せだよ。まあ、最初は変な味だと思うけど、なれればけっこううまいよ。さぁ食べて食べて」
腹がへっているのでマナーなどはおかまいなくかぶりつく。うまいのかまずいのかわからない。とにかく変な味だ。食べ終わったのを見はからってスープと魚の煮つけみたいなものが出てきた。ヒラメかカレイみたいな魚だ。これもかぶりつく。やわらかくて甘い。これはなかなかいけるぞ。やっと落ちついた気持ちになる。
「ところで原口君、ぼくも君の本名を知らないがこれからはずっと原口君だ。これからはずいぶんとしんどいが君もスターになりたいのだろう。だったら死ぬ気でやることだよ。人間、みんな苦労はするものだよ。そりゃあ今はつらい、泣きたいこともある。でも、いつかは、いつかは、立派になってやるとみんながんばっているのだよ。だから君も精一杯やってほしい」
「はい、わかりました」とはっきりと返事をする。
「さて、メインディッシュはロースのローストだ。これはうまいぞ」とマネージャーはほころび顔で口に運ぶ。では、おれも。うーん、うまい。さすがホテルの高級レストランだ。肉が違う。何というか舌の上でとろけるみたいだ。ものの数分でぶ厚い肉をたいらげる。やっと満腹感がでてきた。ほんとすごい料理だった。生まれて初めて食べた。満足だ。おとといまでのおれとは大違いだ。おとといは確かカレーライスを食べたはずだ。だが今日はこんなに立派なものを食べている。いや味わっていると言うべきだ。幸せだ、大いに幸せだ。食生活も大きく変わるんだ。おれは今変わりつつあるんだ。
豪華な食事が終わって再び車に乗る。今度は俳優養成所だ。眠たいががんばらねば。がんばってがんばって大きく変わるんだ。そして完璧な人間になってやる。それがおれの今の生きがいだ。でも、どうしておれが選ばれたのだろう。おれが原口丈に似ているからか。早川さんは原口丈が逃げたと言った。どうして逃げたのだろう。スターという特権をふり捨てて。何故なのだろう。人のことはわからないがおれならスターになり続けてやる。強者になってやる。
車は古ぼけたビルの前に止まった。立花タレント養成所と表礼に書いてある。タレントかあ、おれもサラリーマンからタレントと呼ばれるようになるんだなあ。中ではなかなか容姿端麗な人達が何かしら演技をしている。どうもハムレットのようだ。
「さぁ、これが例の原口君のなにで……」と例の調子でマネージャーが団長みたいなひげづらの男におれを紹介する。おれは愛想よく頭を下げる。
「どうかな、タレント一日目は疲れただろう。まぁ、ちょっと体みなさいと言ってあげたい所だがそうも言っておれない。スケジュールがつまっているので、さっそく発音の練習だ。さぁ、こっちへ来て」とあいさつそこそこに別の小部屋へつれていかれた。そこはイスを除いて何の家具もない部屋でガランとしていてうすら寒い。灰色だらけの無気味な部屋だ。少々おちつかない。待たされること数分、若い三十才ぐらいの端正な顔の長身の男がはいってきた。
「広岡といいます、よろしく」とはりのある声。
「こちらこそ、どうぞよろしく」と今度はか細いおれの声。変に圧倒される。
「君は声帯手術をしたんだね、だからそんな声なんだ。何も恥ずかしがることはない。ぼくはその声のほうが好きだ。耳ざわりがいいし、とにかく聞いていると気持ちがいい」
ゾクッと背すじに寒けが走る。
「でも、今のままではだめなんだ。発音ははっきりと腹から声を出すこと。それから、自分の意志しだいで声の調子を変えること。それができなくてはいけない。これから教えるから」
「よろしくお願いします」
「では、アイウエオ、カキクケコをはっきり言ってみたまえ」
「はい、ア・イ・ウ・エ・オ・カ・キ・ク・ケ・コ……」
「よし、もう少し早く」
今度は二、三度舌がもつれたがどうにか言えた。
「まぁ、いいだろう。ちょっと発音に聞きづらい点があるが時間がないので次に進もう。次は早口言葉だ。これをよく勉強すること、それがはっきりした発音の第一条件だ。いい俳優になろうと思えばまず発音だ。だから、これをみっちりやるからそのつもりで。まず、なま麦なま米なま玉子を二十回できるだけ早く言ってごらん」
「なま麦なま米なま玉子なま麦なま米なま玉子なま、まむっぎゅなっほ」
「ほれほれ舌がもつれて口が開かない。はい、もう一回」
今度もうまく言えない。元来しゃべるのがへたなので口がついていけない。どうもとちってしまう。
「君ね、もうちょっとうまく言えないかな、これじゃあ、先が思いやられるよ。さぁ、もう一回言って」
早口言葉をしゃべり続けること一時間ばかり、もう口がかわいて舌が動けない。くたびれた。それに眠たい。思わずあくびの二連発。「君、まぁ今日はこのくらいで勘弁してあげよう。明日からは毎日早口言葉を五十回言うこと。いいかね、毎朝だよ」
「はい」と返事だけはするが憂うつだ。
「あ、それから俳優の心がまえを教えておこう。まず、俳優とは脚本にある人物になりきることだよ。こんなことはあたり前だと思うかも知れないがこれがけっこうむずかしくてねえ。そう簡単にはいかない。要するに自分を変えることなんだが、変えると言ってもいろいろあってね。心の底から、体全体から脚本の人物になりきるんだよ。例えば笑う場面があるとするよね、そうすると全然おかしくなくても笑わなくちゃいけないよね。そこでうわべだけでどうにか作り笑いをするのではまったくもってダメなんだ。脚本どおりに本当に笑うんだよ。おかしくておかしくて自然に笑うんだよ。また、反対に悲しい場面では本当に泣くんだよ。それには自分本来の性格、姿、感情を捨てることだね。自分と言うものを捨てて初めて他人になれるね。無我の境地と言うのかね。一度その無我になっていて、それから変えていくんだよ。まぁ、言ってみれば透明人間かな。俳優と言うものは色々な色にそまる透明人間だよ。とにかくうわべだけの変化はいけないよ」
またまた、丁寧に礼をしてタレント養成所を出る。本当に疲れた。ちょっとゆっくりしたいなあ。横にはマネージャーがむっつりした様子で何やら考えている。やはり、芸能界はきびしい。でも負けてはいられない。そうでないとおれは変われない。完璧な人間になれない。よし、もうひとふんばりだ。
「原口君、今度は美容院だ。そこで髪型を変える。いいねぇ」
「はい」といきおいよく返事する。どんなふうに変わるのだろうか。少しわくわくする。
美容院なんか行ったことがないから、また一つ初体験ができる。青山の交差点を右にまわると車は止まった。大きなガラス張りのビルの中央、マスカレードと書かれた美容院。中に入るとびっくりした。ギンギンギラギラの金属張りの壁。宇宙船の様だ。自分の姿が回りじゅうに写る。変な気分だ。自分が何人もいてどれもが同じ動作をして本物の自分を見ている。
三人の美容師達がおれをとり囲み髪の毛をさわり、「やわらかい髪ね」と言った。マネージャーはスケッチブックらしいものを見ながら、店長みたいな人と相談し始める。その間、おれはスチール製の椅子にすわり目の前にある大きな鏡の中の自分を見つめた。おれは変わっていく。おれはもうすぐこのサラリーマンの髪型から変わってまったく別の顔になる。たぶんメークアップもされるのだろう。素顔のおれとはこれでサヨナラだ。これでいいんだ。これがおれの望んでいたことだ。
待たされること三十分あまり、ようやく相談がまとまり、ヒゲをはやした太った店長らしい人が「さあ、始めるよ」と言ってシャンプーで髪を洗われた。気持ちいい。熱い湯がおれの汚れをスッカリ落としてくれる。それから髪をそろえられパーマをかけられた。パーマなどもちろん初めてだ。わくわくする。一体どうなるのだろうか。セシルカット。それがおれの髪型だった。きつめのパーマと三センチぐらいにそろえられた髪の毛。初めて鏡を見た時、「やった!」と思った。それほど以前のおれとは全く違っていた。いかにも芸能人みたいに人をひきつける髪型だった。ちょうど山口百恵を男にしたような感じだ。少し不良っぽく、人ごみの中にいても目立つ存在だろう。変わった――外見が変わった。顔が変わったんだ。これからは中身を変えなくては。
午後十一時十五分、おれの一日が終わった。長い長い一日だった。今、おれはマンションの一室にいる。もちろん、プロダクションが貸りてくれたものだ。部屋にはなかなかりっぱな椅子、サイドボードなどの応接セット、テレビがあり、壁には風景画がかかっている。落ちついた雰囲気だ。奥にはもう一つ部屋があって大きなベットのある寝室になっている。おれがこの間まで住んでいたアパートとは大違いだ。アパートはただ寝ればいいというだけだった。だから家具などにはおかまいなく、安ぽっくきたなかった。また、かまっていられる金銭的余裕もなかった。しかし、ここは違う。ここには何というかやすらぎがある。部屋にいるだけでくつろげる。緊張した神経をしずめてくれる。静けさがある。その一番静かな寝室の大きなベッドに身をしずめていると、今日一日が長かったとつくづく思う。全てが初体験の連続だった。緊張していたが好奇心がいっぱいでわくわくし、次は何があるのだろうかと胸を高鳴らしていた。生きているという気がした。今、おれは本当にここにいて息を吸って脈をうって生きているという気がした。生きているんだ。今、おれは生きているんだ。そう考えるとおとといまでのおれは死んでいたのかも知れない。いや、生きていたとしても人形だ、植物人間だ、ロボットだったんだ。何の喜びもうれしさも期待感もないただのロボットにすぎなかったんだ。つまらない人間だったんだ。でも、今は違う、違うんだ。おれには明日がある、未来がある、希望がある、夢がある。そして本当におれは生きている。二十四時間精一杯生きている。りっぱに生きているんだ。
それから一ヶ月の間、おれは作曲家の先生の家とモダンバレー教室と俳優養成所を時間が許す限りみっちりとまわった。朝六時に起き、十分で朝食を食べ、七時十分まで早口言葉を言い、八時半まで発声を行い、九時から作曲家の先生の所で何度も何度も同じ歌を歌い、しかられては直し、音階、テンポ、強弱をみっちりたたきこまれる。十二時に先生の家を出ると近くのレストランで何か簡単なものを十五分で食べ、一時からモダンバレー教室で飛びまわる。音につつまれるように音楽に合わせて、ジャンプ、回転、腰をひねったり、首を回したり、手をあげたりふったり、休みもなく動きまわる。呼吸を乱すことなく、きびやかに動作すること、そして音につつまれて支配されること、それがおれに課せられた課題だった。それから、十分間休憩を与えられて、三時からは俳優養成所でこれまたみっちりしごかれた。発音をしかた、目の使い方、動作の適確さ、どれもこれも不慣れないことばかりでとまどうおれだったがどうにかこなした。ただ一つできなかったことは、他人になることだった。うわべだけでなく、真に他人になること、それがおれにはできなかった。いつも心の底には自分がいた。変わらないままの自分がいた。だから、完全に真に迫った演技などできなかった。素人はだまされてもプロの演技者から見ればおれは落第生だった。自分を変える――心の中まで自分を変える――それがおれにはできなかった。おれは本当に変われるのだろうか……。六時に俳優養成所を出て、一時間ばかり晩めしの時間が与えられて、それからまた、三時間、別の音楽学校で譜面が読めるよう、ギターがひけるように教えこまれた。全てが個人教授だったので休んでいるひまはなく、四六時中夢中にがんばった。疲れてたおれそうになったこともあったががんばった。がんばってがんばってスターになること、それがおれの生きがいなんだからやるしかなかった。そうでないとおれはまた死んでしまう。ロボットになってしまう。生きなくては、生きなくてはいけないんだ。生きること、それはおれがスターになって完全に変わることなんだ。
九月のある日、おれは一枚の譜面を渡された。おれがデビューする歌だ。原口丈としては再デビューだが。シェーネ・MY LOVEという歌だ。この譜面を読む。学校で習ったはずだから読めるはずだ。だが、調子がつかめない。四分の五拍子だ。初めて見た。こんなリズムで歌が作れるのか。詩も変わっている。声に出して読んでみる。
「シェーネ・MY LOVE」
赤いルージュうすくつける
鏡の中の私 何かになろうとしている
美術館はうそっぱちだとつぶやく
美はおっかないものだとあの人は言った
あの人は画家 私はモデル
あの人は美を求め続ける
私は美を守り続ける
私はシェーネ シェーネ
シェーネ・MY LOVE
黒いレオタードそっとつける
闇の中のあなた 何かを見ようとしている
金閣寺は焼けるべきだとつぶやく
美は一回限りとあの人は言った
あの人は男 私は女
あの人は美を捜し続ける
私は美になろうとする
私はシェーネ シェーネ
美ははかないものだとあの人は言った
あの人は光 私は影
美は消えるものだとあの人は言った
あの人は生まれる 私は消える
私はシェーネ シェーネ
シェーネ・MY LOVE
「どう、どんな感じがする?」横に早川さんが来ておれに尋ねる。
「わかりません。調子が変だし、詩も変わっていますね」
「そう四分の五拍子なのよ。不安定な感じがするはずよ。だって四分の二拍子や三、四拍子なら普通だわね、生活のリズムというか、合っているというか、でも四分の五拍子だと一拍余るのよね。だから変な調子になるわけ、でもこの曲はそれを考えたうえでつくったのよ。聞いている人を不安にさせるためよ。私はあなたにスターになってもらいたいわ、それには大ヒットをとばす必要があるの、あたりまえよね。それにはこの歌が必要なの、私達がつくったあなたの個性とこの歌とであなたはきっとスターになれるわ。この歌にはそれだけの価値があるのよ。今までになかった新しい歌よ」
「でも、おれに歌えるかな」
「何言ってんのよ、あなたはスターになるしかないのよ。歌えないなんて言わないで」
ピアニストが来た。
「まず、メロディーを聞いて」
ピアニストが演奏を始める。まず海鳴りにも似た不思議な和音から始まり四分の五拍子で曲はスタートする。ゆるやかにそれでいて、急いで走っているような不気味が音のからみ合い、追いかけられたり、追いかけたりするメロディーライン、ピアニッシモだろうかだんだん弱くなっていく音の波。さざ波のような音がしばらく続く。そして急に鼓膜をゆすぶる波動。ちょうど〝シェーネ″という部分だ。頭の中に音がはいってきて神経をかきみだし、ぐるぐる回し、船よいになったような気分にさせる。イライラして腰が落ちつかない。後からだれかにナイフでさされるのではないかという不安。だれかに見られている不安、次に何が起こるかわからない不安、とにかく落ちつかない。何か気分が妙に高ぶってくる。不安定――その一言だ。この曲の主題は不安定そのものだ。落ちつかなくイライラさせるんだ。〝シェーネ″は何度も繰り返しゆるやかに低くなっていき曲は終わった。終わってもしばらくの間、体がふるえている。鳥膚がたつみたいに。でもいやな感じはしない。怖いが見てみたいという感じだ。続きを知りたいという気持ち。わけがわからないがもう一度聞きたいと思う。
「ねぇ、聞いていてすごく不安になるでしょう。背すじを羽毛でくすぐられるような、どこかへ飛び出したいような、どこかに逃げていって静かにじっとしていたいような、そんな不安感があるのよ。私はこの曲は絶対ヒットすると思うわ。不安定なメロディと哲学的な詩。詩はさっき読んだでしょう。美はおっかないものだというあの部分。私、あそこが好き。美はおっかないもの、そのとおりだわ。この曲は美しくておっかないものなのよ」
それから、おれは五日間、この曲が完全に歌えるように特訓に特訓を重ねられた。まず、自分を不安定にすること、四六時中イライラして神経をいらだたせるような気持ちになりきって歌うこと。そしてサビの〝シェーネ″というところで耳もとでさえずる様な、それでいて聞き手に体の中までしっかりと“シェーネ”という言葉をきざみ込むように歌うこと、それが重点だった。おれは、おれなりにこの歌を理解した。聞き手に苛立ちを与えながら、おっかなさを知らすんだ。怖いのではなくおっかないのだ。それがシェーネなのだ。かないから、不安定だからこそ美しいんだ。結局、この歌は美しいんだ。
シェーネ・MY LOVEはレコーディングされた。その時、おれは何度も失敗した。“美はおっかないものだとあの人は言った”というところと最後の“シェーネ”のところがうまく歌えなかった。音程は合っていたが安定だったのだ。不安定ではなく、ただ譜面どおりに歌ったのだ。全然、不安定感を与えなかった。声が大き過ぎるのかもしれないし、声が澄み過ぎていたのかもしれない。何よりもおれがスターになれるということで期待をもち過ぎていた、あせっていたんだ。もっと不安定にならなければならない。一体、不安定とは何だろう。安定ではない、確かにそうだ。では、安定とは何だ、完璧、絶対、変わらないもの、変化しないもの。では不安定とは何だ、変わるものだ。すると、おれじゃないのか、おれは変わっていっているんだ。おれは不安定なはずだ。でも、うまく歌えない。何故だ。何かが欠けている。何だ。いや、何かが余計なんだ。おれは変わっていく、そして何になるんだ。スターだ、スターは完璧だ、スターは絶対なんだ。おれには欲望がある。スターになりたいという欲望がある。それがいけないのだ。それを捨てないとこの歌は歌えない。おれはただ変化する物になるんだ。ただ時間の中でおれの時間の中で変わっていく物になるんだ。そうだ、そうなんだ。おれはわかった。そして歌った。変わっていく一個の物、不安定な物として歌った。
シェーネ・MY LOVEはある化粧品会社のイメージリングとして使われた。テレビではピエロが濃いアイシャドウをつけレモンをかじり、その横でリンゴに口づけをしている奇麗なとても奇麗な女の人が「この秋、きっとあなたはシェーネ」と言う。そのバックに“美はおっかないものだとあの人は言った”という部分が流れている。
一方、おれは再デビューという形で共同記者会見にひっぱり出され、いろいろたづねららた。「あなたは今までどこにいたのですか」おれは言う「家です」「あなたは何故、以前蒸発したのですか」「太陽があたって温度が上がったためです」「君は何を言っているんだ、まともに答えなさい」「まともです」「記者をバカにしているのか」「では何故ふざける」「おれはスターだから」「スター?以前はそうだったかもしれないが、今はただのかけ出しの歌手にすぎないじゃないか、それをスターだなんて」「でもおれはスターです」「どうしてそう言える」「この歌は大ヒットします」「すごい自信だが本当かね」「本当です」「バカバカしい大ぼらもいいところだ」記者達はおこって帰ってしまい、その後、芸能雑誌の片隅に“過去のスター原口丈世間をバカにする”“大ぼらふきの原口丈、ふざけるのもいいかげんにしろ”とか言った記事が載った。だが、それは早川さんが考えた演出だった。自分をあくまでもスターだと信じ込みスターになりきる。おれはいつもスターなんだと考える。スターは一般の聴衆にとっては神みたいな存在だ、いや、神だといっていい、スターは絶対君主なんだ、全ての民を支配する絶対者なんだ。それがスターというものなんだ。それには自信が必要だ。絶対ゆるがない自信だ。その自信をおれにつけさせることが目的だったらしい。安っぽい芸能記者などは鼻にかけ自分だけが正しいととことんまで信じる。それがスターだ。そしておれだ、このおれがスターなんだ。
初のテレビ出演の日が来た。おれは予定より三十分前に来て控え室に入る。殺風景な部屋にズラリと並んだ化粧台。無気味だ。ただ、人の顔を変えるための部屋。灰色の壁の中で人間だけが色づいてみえる。濃紺の忍者姿の男、赤や桃色で飾りたてた芸者姿の女、まっ赤なドレスを着たフランス人形のような女性。喜劇に出演するのだろうピエロの様な原色をたっぷりつかったわけのわからない服を着た小男、青みがかったグレーのスーツをばっちりきめて髪型を気にしているアナウンサー。ほらほら後の美容師が困った顔をしている。テレビ局にはいろいろな人間がいる。そしてだれもがこの部屋で変えられている。美しく、あるいはおかしく、台本にあるとおりにプロデューサーの言うとおりに変えられる。
美容師達はノートを見ながら、寸分違わずに顔を作る。まるで工場だ。顔を作る工場だ。そんな工場の中におれはいる。おれも一つの製品だ。やっとおれの番が来た。五番と書かれた化粧台の前に座る。五、おれにとってはラッキーナンバーだ。鏡の中に自分の顔が写る。なかなかハムサムだ。高い筋の通った鼻と大きな目とうすい唇ととがったあご、それにセシルカットの髪型。以前のおれとは大分変わってきている。素焼の陶器を丹念にうわ薬で飾りつけたみたいだ。でも、どこかに以前のおれの面影が残っている。顔の輪郭、目もと、口もとだ。多分、昔の同僚が見たら、すぐにおれとはわからないが、やがて気づくだろう。そして言うに違いない。どうしてそんな格好をしているんだい、見まちがえるじゃないか。おれは言う、おれは変わるんだ、おれは蝶になるんだよ、星になるんだよ。
自分の顔と思いを巡らしていると後ろに三人の美容師達がやってきた。三十五を過ぎたおばさんだ。みんな厚化粧でごまかしているが、ブスばかりだ。きっと売れ残りのハイミス
だろう。
「えーっと、原口丈さんですね」
「はい、そうです」
「では、そろそろ始めますがあなたの場合は大分変ですね。何に出演するんですか、何か変装するみたいですよ」
「えっ、変装?」
「ええ、このノートの通りに化粧を行ったらピエロみたいになりますよ」
「何かの間違いじゃないのですか、おれは歌手だよ」
「でも、ここにそう書いてあります。時間があまりないから始めますよ、いいですね」
「ちょっと待ってくれ、マネージャーを呼んでくれ、いや違う。早川さんを呼んでくれ、早川プロダクションの早川涼子さんだ」
「はい」と美容師達は困った顔をして出てゆく。おれも困っているんだ、いきなり、変装だなんて。何かの手違いだろう、おかしいよ。しばらくして、いつものきびしい表情で早川さんがやってきた。
「何言ってるのよ、原口君。あなたは大きく変わるんでしょう、だったらこのとおりにしてちょうだい。あの歌を歌うには歌い手のほうにもそれ相応の格好をしなくちゃ。変装じゃないわよ。あなたには人間でも男でも女でもない道化師になるのよ。あの歌には人をすごく不安定にさせる力があるのよ。その力をもっと強く表現するためには、あなた自身が不安定そのものにならなくちゃいけないわ。男でも女でも人間でもない道化師はいわばはみだし者で不安定な存在なのよ。そんな格好をするのは恥ずかしいけれども、あなたもスターになりたいのならやるしかないのよ」
やるしかないか―。おれはもう後へ戻れない。やるしかないんだ。よし、やってやろうじゃないか。こうなったら、何でもやってやる。何でもやってスターになってやるんだ。
まず、やわらかい指で丁寧に顔を洗われた。それから化粧水みないなものをたっぷり顔全体に塗られ、パフでおしろいを薄くつけられた。その後、砥の粉のような赤黄い粉が顔中に叩きつけられた。面くらっていると美容師は眉に墨を入れ、つけまつげをはめた。鏡を見ているとだんだん自分の顔がおっかなくなってきた。くまどりがされ顔に変な模様ができた。これじゃあ、ピエロと言うより変なプロレスラーだ。
「さあ、もうすぐ終りですから」とのっほの美容師が言った。最後に顔全体に緑の粉をまぶせられた。そしてブカブカのまっ赤な風船みたいなつなぎの服を着、腰に大きな紫のベルトをする。その上にスコットランドの兵士がはくようなスカートをはく。黒と金のチェックのスカートだ。終わった。おれはピエロになった。はたして変わったのだろうか。
「はい、スタート十分前、用意いい?原口君」と元気そうな声で色の黒いアシスタント・ディレクターが声をかけてきた。
「もちろん、いいですよ」
おれより早く早川さんが言う。胸が高鳴る。はたしてうまく歌えるのか。音程をはずさないか、歌詞を間違えないか、うまく振り付けができるか、心配だ。そわそわしてくる。落ちつかない。どうしよう、おれにできるのか、ああ、だめだ。冷や汗がでてくる。これではメークが落ちる。いけない。落ちつけ、落ちつくんだ。さもないと笑い者にされる、スターになれないのだ。とにかく落ちつくんだ。心を静めなければ。
「原口君、さあ、いくわよ」
二人してテレビ局の長い廊下に出る。膝がガタガタ震える。もう、だめだ。おれにはできない。他人の前で歌えない、きっと間違えるよ。ものすごくドキドキする。
「落ちついて行きなさい、もう、あなたはスターよ。大観衆の中でもビクともしないスターよ。何も緊張することなんかないのよ。今まで練習したとおりすればいいのよ。それであなたは立派なスターになれるのよ。さあ、時間よ、がんばって行ってらっしゃい」そう言って早川さんはすばやく右の頬にキスをしてくれた。
おれは臆病な人間だ、何事に対しても恐がっている。今、おれはテレビに出る。テレビを通じて何万人という人間がおれを見る。そう考えるともうダメだ。恐がってしまう。ものすごく恐い、他人が恐いよ。見つめられるのが恐いよ。廊下で立ち止まる。どうしよう、落ちつけと言っても体が落ちつかない。自然に体全体が震えてくる。どうしても止められない。
「何してんの、あなた、変わりたいんでしょう。以前の臆病な人間から変わりたいんでしょう。だったら、立ちなさい。あなたは変われるのよ。今、あそこに出て行った変われるのよ、王者になれるのよ。さぁ、立って。変わることだけ考えて、さぁ」
変わる、変わる、変わる。おれは変わる。変わるんだ。今、今、今、変わるんだ。行かなくては、出て行かなくては変われない。もういやだ、首のおれはいやだ。昔なんかに戻りたくない。変わりたい。だから、行くんだ。あそこへ行く。
「変わる、変わる、変わる」口の中で何回も何回も言う。不思議に震えが止まる。汗が止まる。よし、おれは変わってやる。
廊下を右に回る。第一スタジオと書かれた大きな鉄製のドアが見える。いよいよだ。ドアをあける。奥にカーテンがかかっている。
カーテンの間から光が漏れている。声が伝わってくる。スタジオの華やかな雰囲気が伝わってくる。カーテンのそばのヘッドホンをした若い男が手を振る。さぁ、出番だ。今、幕があく、おれは変わる。カーテンをくぐってスタジオに入る。まぶしい。目がくらみそうだ。拍手と歓声。司会者がおれを紹介する。「シェーネ・MY LOVEの原口丈さんです。原口さんは今日がカンバックしてテレビ初出演。さぁ、拍手」
大きな拍手が起こると同時にキャアーという女の悲鳴。司会者もおれを見てびっくりするがそこがプロらしく平静を保って
「おや、ちょっと変わって格好ですが、よく似合ってますね。芸術的ですね。衣装は自分で決められたのですか」
「そうだ」とかぼそい女みたいな声だが精一杯力強く言う。スタジオが雑つく。きっとおれの事を気ちがいと思っているのだろう。
「きれいな声ですね」と司会者はいたい所をついてくる。
「これがおれの地声だ」とつっばねる。
「では、さっそくシェーネ・MY LOVEを歌ってもらいましょう」
スタジオはまだ雑ついている。それを無視して前奏が流れてくる。例の四分の五拍子の不安定なリズムだ。スタジオが静かになる。観衆がじっと耳をすまし、おれを見つめる。おれはゆっくり、とてもゆっくりと小さな声で歌い出す。あせってはダメだ、落ちつけ。腹から声を出す。うまくリズムに乗る。不安定、不安定になるんだ。この音を支配するんだ。この音を包みこめ、そう自分に言い聞かし、ゆるやかにそれでいて急いでいる様に歌う。青いスポットライトがおれを包み、スタジオ全体が薄暗くなる。観衆は何かに耐えている様に身動きをしない。おれは歌う、今度はできる限り大きな声で歌う。観衆が首を振る。この音におれの声に酔っているように首を動かし、体を揺さぶる。よし、うまくいった。おれはここにいる人間を包みこんだ。美はおっかないものだという所で悲鳴にも似た非常に高い声を出す。観衆は一瞬びっくりするが、音に合わして体を揺さぶりつづける。不安定に揺さぶっている。よし、これでいいんだ。おれは支配した。このスタジオにいる人間を支配した。テンポはだんだんに上がっていき、おれは大きく、あるいは急に弱く、強弱をうまくつかいながら観衆に訴える。君らは今、不安定なんだ、今にも飛び出したいんだ。君らは爆発するぞ、もうじき、吹っ飛ぶぞ。ここは戦場なんだ、いつ弾が飛んでくるかわからない。いつ、死ぬかわからない。とにかく不安なんだ。だから歌え、この歌を歌え。この歌を歌えば救われる、助かるぞ、もう恐くないんだ、死ぬことなんか恐くないんだ。だから歌え、思いっきり歌え。おれの歌は最後の所にさしかかる。
美は消えるものだとあの人は言った
あの人は生まれる 私は消える
私はシェーネ シェーネ
シェーネ・MY LOVE
おれは精一杯歌った。観衆はじっくりおれの歌を聞いた。成功だ。一瞬だがおれはこの観衆を支配した。神になった。そしておれは変わった、大きく変わった。別のものになったんだ。
「シェーネ・MY LOVE」は、発売以来、三週目で早くもベストテン入りし、四週目に堂々一位になった。おれはあちこちのテレビ局を回り、一生懸命歌った。一日に何十回と「シェーネ・MY LOVE」を歌うのでもうすっかりこの曲の意味がつかめてきた。この曲は人を不安定にするだけでなく、反対にやすらぎを与えるんだ。不安定の中のやすらぎ―。朝のあわただしい秒刻みのラッジュアワーの中で電車に間に合うようにと必至に駅の階段をかけ上がり、駅員に押されながら発車寸前に飛びのり、あぁ間に合ったとほっとため息をついた時、目の前にとても奇麗な美人がいてやさしい目で見つめられた時の何とも言えない気持ちだ。あわただしい生活の中でほんの一瞬、美しい物に見とれて、今までのあわただしさを忘れる―そんな気持ちをこの歌は与えてくれる。そしてそれが美なんだ。おれはこの歌を歌うことによって、人々に不安定の中の美を教えてやるんだ。美とは決して安定なものじゃないんだ。激しく変化する中にこそ美はあるんだ。変わっていくものに美は存在しているんだ。変わっていくから、二度と同じ状態がないからこそ美しいんだ。だから、この「シェーネ・MY LOVE」の詞は言っている、金閣寺はうそっぱちだと。金閣寺は放火された。この世から消えされた。何故だ。美しくないからだ。美しくないのに、金閣寺はこの世で一番美しいと言われているから、がまんができなかったんだ。金閣寺は決して変わらない、変化しない。変化しないものなんて美しくないから焼かれたんだ。今、おれは変化している。どんどん変化している。だから、おれは美しいんだ、おれは美しいものになれたんだ。
新装した渋野公開堂でおれにとって初のコンサートが始まった。デビューして一ヶ月あまりでコンサートなんて早すぎるが、本物の原口丈が何回もコンサートを行っているから不自然ではない。カンバック・コンサートだ。
その日、おれは初めて何千人という人の前で歌った。テレビ局ではたかだか百人ぐらいだったがここは違った。観衆に圧倒されそうだった。そんな中でこの前と同じように早川さんがついてくれていた。
観衆にのまれちゃいけない。反対に観衆をのむのよ。自分と同じ人間と思うからあがるのよ。自分と同じ意志をもった人間と考えるからいけないのよ。この会場にいる者は全てあなたの奴隷と思いなさい。あなたが働けと言ったら少しも休まずに働く奴隷と考えなさい。あなたの命令一つでこの会場の人間はどうにでも動くのよ。あなたが死ねと言ったら、みんなすぐに舌をかんで死んでしまうでしょう。あなたは命令するだけでいいのよ。あなたは王よ。そしてあなたの命令は歌よ。この不安定な歌が命令なのよ。
早川さんはそう言っておれをはげましてくれた。不思議なことに早川さんにそう言われると本当におれはえらくなった様な気がした。大袈裟な言い方だが、おれは絶対君主か、いやそれ以上のもの、まるで神にでもなった様な気がした。そして何でもやれると思った。自分で思った通りのことがやれると思った。おれは力を持っている、ものすごい力を待っているんだ、そう思った。そしてステージで思いきり歌った。
四分の五拍子の元素、デイブ・ブルーベックの「テイク・ファイブ」を最初にハミングし、次に井上陽水の「傘がない」を歌い、シェーネ・MY LOVEの伴奏が流れる中、谷崎順一郎の「刺青」をおれの澄みきったボーイソプラノの声で朗読した。その最中、舞台の背景は影絵の様に心理学で使うロールシャッハテストを次々と写しだした。
朗読が終わるとおれは目をつむり、ゆっくりと会場に来ている者に話だした。
君らは今、自分をどう思っている。自分自身のことをどう考えているんだ。君らは一体何だ。自分の事を何だと思う。おれは自分を美しいと思っている。君らは自分を美しいと思わないか。そこの赤いチェックのセーターの女の子、ああ、君だ。君は自分を美しいと思わないか。君はきれいだ、本当にきれいだ、美しい。まるで花だ。春に咲く美しい花だ。
自分で気づかないか、自分の美しさを。そして思わないか、今の自分がこの世で一番美しいと。君らは若い。まだ十代だろう。本当に若い。三十代や四十代の中年がうらやむような年だ。そんな君らは美しいんだ。君らは花だ。春に咲く美しい淡いピンク色の花だ。だれもが見とれ、匂いを嗅いでうっとりとするあの花だ。花見だと言って、その花の下で酒を飲んだり弁当を食べたり踊ったりする花だ。その花が何故美しいと思われるか君らは知っているか。わからないだろう。それはその花が散ってしまうからなんだ。その花が咲いているのがほんの短い時間だからだ。せいぜい長くもっても一週間だ。風が吹けば一変に散ってしまう。だからだ、だから美しいんだ。短い時間しか咲かないから美しいんだ。おれの言っている事がわかるか。その花が何週間も何ヶ月ももしかして一年も咲いていたらどう思う。きっとみんな見あきて美しいなんて言わない。だれも花見などしない。無視されるだけだ。おれの言いたいのはそう言うことだ。美しいというのは、消えることがわかっているから美しいと感じられるんだ。君らはやがて年をとる。今、この瞬間にも年をとっている。そら、もう一分過ぎだ。もう、年をとった。
老けた。どんどん老けていく。だから一瞬なんだ。人間が美しいのはほめだ。その一瞬を過ぎるともうだめだ。もう美しくない。醜いだけだ。おれが美しいのもこの一瞬だ。君らとすごしたこの一瞬なんだ。明日になったらおれは醜くなっているかもしれない。いや、きっとそうなっている。おれは変わって行く、老いていっているんだ。だから歌ってくれ、この歌を歌ってくれ、おれと一緒に歌ってくれ。静かに前奏が流れ、不安定な四分の五拍子のリズムが始まる。そしておれは歌った。四分の五拍子のリズムに完全に包まれ、その中で自然に歌った。観衆もやがて歌い始めた。歌っているうちおれは何とも言えない満足感に浸った。
うれしくてうれしくて涙が出てきた。観衆がおれの思うように歌ってくれて、その観衆の中でおれは本当に自分の好きなことをしている。おれはこの歌が好きだ。このシェーネ・MY LOVEが好きだ。そして歌うことが好きだ。何よりもおれのこの声が好きだ。透明的で高く澄んだ声。この声は美しい。この声があるからこそ、この歌が歌えるんだ。この声はすばらしい、本当にすばらしいよ。ありがとう早川さん、おれをこの声にしてくれて。おれはしあわせだよ。今、しあわせだよ。やっとしあわせってものを感じられたよ。ありがとう。おれって不思議な人間だな。以前、あれ程いやだった声がこんなにすばらしいものになるなんて。全く不思議だよ。人間ってわからないなあ。何が欠点で何が長所になるか全くわからない。そして人生って本当にわからないものだよ。あんなに自分がいやだったのが、今おれはおれ自身が好きなんだ。おれは自分を愛している。自分がこの世の中で一番美しいと思えるよ。ありがとう、早川さん。ありがとう、みんな。ありがとう、ありがとう。静かに幕がおり、コンサートは終わった。
シェーネ・MY LOVEは十五週連続一位だった。おれはその間寝るひまもないぐらい働いた。サイン会、雑誌のグラビアの撮影、インタビュー、対談など忙しい毎日だった。そんな中、おれのニューアルバム「仮面の告白」が発売された。このアルバムはおれの細く澄んだ声を効果的にアレンジし、四分の五拍子のリズムと、一九七十年代の初期のフォークリングをうまくミックスしたものだった。井上陽水の「感謝しらずの女」から始まり、彼の「愛は君」、尾崎豊の「I LOVE YOU」、伊藤敏博の「サヨナラ模様」、そしておれの「シェーネ・MY LOVE」でA面は終わっている。B面はディブ・ブルーベックの「テイク・ファイブ」「イレブン・フォア」「いつか王子様」などのモダンジャズを編曲し日本語の歌詞をつけたものだった。
このアルバムも発売と同時に爆発的に売れ始めた。どこのCD店でも品切れでレコード会社に注文が殺到した。おれは何故こんなにおれの歌が売れるのかわからなかった。おれの声のためか、それとも歌がいいのか、あれこれを考えたが確かな解答はでない。確かに声はいい、自分で言うのも変だが美しすぎる声だ。高く澄んでいて壊れそうに細い声、きつくたたくとガラスのようにバラバラに割れてしまうのではないかと思われる声だ。でもそれだけではないはずだ。魅力的な声を出す歌手なら他にもたくさんいる。では、何故だろう。おれのどこにそんな力があるのだろう。
ある新聞では「仮面の告白」をまるで麻薬の歌だと書いていた。
このアルバムを聞いていると不安になる。落ちつかない。心がそわそわしてくる。実に不思議な歌である。アルバムの内容と言えば、以前のフォークソングのヒット曲とモダンジャズだが、原口丈が歌うと別の歌に聞こえる。うまく言葉では言い表わせないが、一度メロディーをバラバラに分解して、その一つ一つの破片を実にうまくくっつけて歌っているみたいだ。しかし、ちょっと力を加えるともう一度バラバラになって、今度は元に戻らない。そんな歌い方だ。要するに壊れやすいという事である。力がなく、弱々しく、そして不安定である。そんな歌い方が聞いているものを不安にする。そして聞き手はまるで恐いものみたさのようにその不安感を求め続ける。
一度その不安感を覚えると、もうその不安感がなくては生きてゆけないようにこのアルバムを聞き続けている。
そして、もう一つの特長は聞き手は決して歌わないと言うことだ。このアルバムの中に収録されているフォークソングはヒット曲ばかりなのでレコードに合わせて口ずさんでもいいはずなのに、我々が調べた限りでは大多数の者は決して一緒に歌わない。ただ、聞くことに徹している。何には一日中聞いている者までいる。まるで麻薬である。これは音と歌の麻薬としか言えない。
そしてそれを作り出している原口丈もちょっとおかしい。原口丈は二年ぶりに芸能界にカンバックしたわけだが、以前の激しさ、荒々しさや男っほいところは消え、静かで女性的である。美しいと言ったほうがいいかもしれない。何か、とらえようのない美しさを原口丈は身につけている。そして、何よりも声が大きく変わっている。以前の太くたくましい声から、今や蚊のなくような細い声になっている。どうしてこおも大きく変わりえたのであろうか。不思議である。まるで別人のような変わり方である。我々は原口丈が蒸発してからの二年間どうしていたのか全く知らない。プロダクションもそれを公開していない。この二年間に何があったのか、それが原口丈の変化とぞっとするような美しさと不安定な歌い方がどのようにして生まれたかを解く鍵であろう。
最後にこれは仮説だが、今の社会にとって原口丈の存在そのものが不自然ではないだろうか。原口丈の美しさと壊れそうな声、それに不安定な歌い方、これは聞き手にとって麻薬だと言ったが、あるいはこの歌の中に聞き手は自分の死を見ているのではないだろうか。未来で必ず起るであろう自己の死を想像しているのではあるまいか。あの不安定な歌の不安感は、死への不安感ではないのか。そうだとすれば、原口丈はただひたすら死への不安感を歌っている。いや、原口丈そのものが死へと向かって全速力で走っているのではないだろうか。
おれが死へと向かって走っているって。バカな。おれはしあわせさ、おれは満足しているんだ。今の自分が最高なんだ。おれは死なない。おれは永遠に生きて、このままスターでいるんだ。
おれはとうとう映画に出演することになった。それも主役でだ。映画のタイトルは「シェーネ」、おれの「シェーネ・MY LOVE」から作った脚本である。
話の筋は、貧しい美大生が深夜の公園でシェーネと名乗る記憶喪失の女性と会い、同棲を始める。美大生はひたすら美しい絵を描こうと努力しているが、彼には美というものがつかめていない。そんな中で出会ったシェーネという女性に美しさを感じ、彼女をモデルにして描こうとするが、どうしてもうまく描けない。自分の技術がへたなのではなく、美しさというものが一体何であるか、彼にはわからない。シェーネはその美大生のため、自分を犠牲にして働き続ける。美大生は働かず毎日毎日絵を描いている。そんな中、シェーネが持っていた三島由起夫の「金閣寺」を読む。そして「金閣寺」の主人公がどうして金閣寺を焼いたのかを自分で考える。だが、答えは見つからない。ただ一つ『彼は金閣寺がこの世で一番美しいものだと信じていた』という文章だけを強く印象にとどめ、自分にとって何がこの世で一番美しいものかと捜す。そして自分が一番好きなもの、愛しているものこそ美しいんだと気づく。それはシェーネしかいなかった。何の不満も不平も言わず、彼のために働きつづけるシェーネしかいなかった。彼はいろいろな所に行ってシェーネを描き続けた。北海道の草原から、九州の最南端の佐田岬まで日本中を二人で歩いてまわった。しかし、満足する作品は描けなかった。彼は落胆し、シェーネに自分は才能のないダメな人間だから別れてくれと言うが、シェーネはもう一度だけ私を描いてほしいとはげまし、彼と初めて出会った公園に連れていく。そしてレオタード姿のシェーネを描き始める。しかし彼には気力はなく、これを最後に画家をやめようと決心する。しかし、そんな事におかまいなく、シェーネは飛び回り独りで円舞を始める。その時、一台の乗用車が猛スピードで公園の柵を越え、シェーネをはね飛ばす。ほんの一瞬、夜の闇の空中に舞うシェーネを見た彼は、シェーネの死を思い、同時に美しいと感じる。彼は額から血を出しながら空中で一回転するシェーネを脳裏に焼きつけ、シェーネの初七日の後、さっそくその構図で描き始める。彼はその作品を「シェーネ・MY LOVE」と題をつけ日展に応募する。彼の作品は見事に賞を受けるが、彼は画家をやめ、シェーネの遺骨を持ってひとり旅に出る。
おれはもちろんその美大生をやるわけだが、相手役は白川ゆりという女優だ。おれは全く彼女を知らない。顔を見たこともないし、名前すら知らない。おれが芸能界にうといと言ってしまえばそれまでだが、それにしても無名な女優だ。おれが主演する映画だから、せめて相武紗季さんや桐谷 美玲さんなどをつかってくれたらいいはずなのに、おれとしては何ともあまり気のりがしない。しかし、おれ自身にとっては初出演なのだから、そうも言っておれない。おれなりに精一杯やってこの映画をヒットさせなくては。そうでないと、おれはスーパースターになれない。俳優もこなす大スターになれない。
シェーネ・MY LOVEのランク・インが始まった。おれは京都の撮影所にいる。数々のライトが照りつけている。監督、助監督、照明など数々の役割をもった人間が忙しそうに走り回っている。おれはそれを人ごとみたいに見ながらメークアップされている。いかにも画家みたいに髪の毛をバサバサにされ、ところどころに無精ひげが残っているようにひげを剃られ、服はうす汚れたTシャツとジーパンを身につけ、少し顔色が悪いように青じみた液を顔にぬられている。でも、目元だけは血ばしったようにきつく仕上げられている。なぜなら、おれがこれから演技するシーンは濡れ場だ。
三日前に早川さんにいきなり濡れ場からやりましょうと言われた。おれは一瞬耳を疑った。濡れ場?まさか冗談だろ、この前、もらった脚本には濡れ場のシーンはなかったはずだ。
「冗談でしょう」
「いいえ、本当です。私の意見で濡れ場のシーンを作ってもらったのよ」冷静な声だった。この人が冗談を言うはずがない。すると、やはり本当にやらされるのだろう。でもどうすればいいのか。初出演なのにいきなり濡れ場なんて。一体どういう風に演技すればいいのか。戸惑っているとまたもや感情のない声で言われた。
「あなたの意外性を見せてほしいのよ。今までは美しさや静けさで人気を得ていたわ。でも、それだけじゃあ、スターの座を維持していくのはむずかしいわ。この辺でこんなこともできるのかとファンを驚かしてほしいのよ。それには濡れ場が一番よ。それもハードコア的に荒々しく女を犯すシーンよ。男らしく野獣的な一面を見せてほしいのよ。これはあなたのためよ。あなたが絶対的なスターになるための必要条件よ」
スターのための必要条件か。そう言われては仕方がない。ここまでなれたのもこの人のおかげだから、この人の言うように動いていれば間違いはない。
そんな風に考え、おれはいとも簡単にひきうけてしまった。でも、いざ目の前の四畳半のアパートのセットにふとんがひかれると、何とも言えない不安感がこみあげてきた。おれにできるのか。みんなが見ている前でできるのか。演技だ、わりきればいい、そう思い込むのだが、カメラがまわっている前でおれに女を犯すシーンができるのか。やるしかない。ここまで来たらやるしかない。しかし不安だ、恐い。何が恐いのかわからないがひざが震える。どうやって演技すればいいのか。発情期のオス犬みたいにただメス犬にかぶりつけばいいのか。ただ本能のままに動けばいいのか。でもおれは人間だ。理性を持った人間だ。さあ、ラブシーンを始めてと言われても真に迫った演技ができるわけがない。みんなが見ているんだ。その前でどうやってやればいいんだ。ソープランドへでも行って、スケベー椅子にすわるのとわけが違う。ここは撮影所なんだ。おれの動作は全てあのカメラに写されるんだ。それなのに濃厚なラブシーンなんかできるはずがない。おれはあやつり人形じゃないんだ、おれは感情を持った人間だ、人間なんだ。
おれがためらっているうちにメークは終わり、いよいよ監督のスタートを持つばかりになった。白川ゆりはすでにセットの中にはいっていて落ちついてすわっている。どうしてあんなに落ちついていられるのか不思議だ。恐くないのか。恥ずかしくないのか。おれは恐い、本当に恐いよ。助監督がセットの中にはいれとおれに言う。おれは震えながらはいる。白川ゆりは軽く会釈して「お願いします」と澄んだ声で言った。おれはてれながら、こちらこそと言った。彼女はまっすぐにおれの目を見ている。おれも彼女を見る。きれいだ。確かに美人だ。でも、それだけだ。今、おれにわかっているのはそれだけだ。彼女が何を考え、おれをどう思っているのか全然わからない。一体、彼女は今この瞬間に何を考えているのか、何を思っているのか。
「さぁ、始めるよ、原口君、白川ゆりちゃん。いいかい、ハイ スタート」
監督の鋭い声がとぶや、おれは脚本にあるように、彼女の首すじにキスをし、それからゆっくりのブラウスを脱がし始める。彼女は「やめて」と短く言い、少し抵抗をするがそのままおれのされるままになる。おれは彼女を押したおし、ブラウスをひきちぎる。そして―
「カット、カット、カット!全然なってないよ、原口君。君、着せかえごっごじゃないんだよ。これは濡れ場だよ。わかってるの君、もっと本気でやってよ。犯すんだよ、これは。
本気でやってくれなくちゃ」
「そうですよ。原口君、君はカメラを意識すぎですよ。もっと自然にふるまってくれなくちゃ、ねぇ、監督」「さぁ、もう一度いくよ。いいかい、スタート」
おれはさっきと同じ動作を操りかえす。白川ゆりはたくみに官能的な声を出す。おれは荒々しくあらわになった乳房に顔をうずめ、首を左右にふる。白川ゆりはこの時とばかりに体をそりかえす。
「カット!何かよそよそしいんだよ。見ていてイライラする。もっと自由にやってくれないか。脚本を多少無視してもいいから。もっと真に迫って。なぁ、あんた大スターだろう。
たかがラブシーンだ、脚本どおりにやればいいと思っているのと違う?あんたの顔みてたら、そう見えるよ。あんた、さめてるよ。さめてこの状態を観察しているよ。おれは何年もこの商売をしているから、わかるんだけど、あんたには迷いがあるよ。この映画の主人公になりきってないよ。自分を別の所において、体だけで演技しているよ。心と体が合ってないよ。バラバラだ。あんたの心はこの撮影所なんかにない。ましてこの四畳半のセットになんかない。もっともっと遠い所にあって、自分の体が演技するのをながめているよ。そして笑っているんじゃない。もっと、やれやれなんか言って。なぁ、原口君、君もこの映画に賭けているんだろ。だったら、燃えてくれよ。心の底から演技してくれよ。本当にこの女を犯してくれよ。あんた、男だろ、だったら、やれよ。やるんだよ」
心と体が合ってない。確かにそうだ。おれの頭の中は冷静だ。全然、興奮していない。燃えていない。ただ、ながめているだけだ。しかし、わかっていてもできないんだ。衆人監視の中でやれないよ。そんな気分になれない。監督が見ている、助監督が見ている、そして白川ゆりが見ている。みんながおれを見て、カメラはおれを追ってるよ。それは理屈だ。単なる理屈だ。おまえは恐がってるよ。見物人をカメラをそして白川ゆりを恐がっている。違う、おれは恐くない。おれはスターだ。そうだ、おまえはスターだ、大スターだ、だったらやれよ。たかが女じゃないか、そうだろう。女の一人ぐらい犯したっていいんだ。おまえはスターだから。この女はおまえのえさだ。さぁ、やれよ。やりたいんだろ。だったら、やれよ。おれは、おれは人間だ。心を持った人間だ、獣じゃない。弱虫!きさまは変な理屈を言ってのがれようとしている。
きさまは、臆病者だ、女一人も犯せないんだ。情けないやつだ。笑ってやれ、みんなでこの弱虫を笑ってやれ。やめてくれ、おれは弱虫じゃない。おれはスターなんだ、それも大スターなんだ。そうだ、そうなんだ。おまえは弱虫な大スターだ。違う、違う。だったらやれよ。さぁ、やれよ。犯せよ。犯す、犯す、犯す、おれはこの女を犯す、おれはこの女が好きだ、この女が欲しい、この女をやりたいよ、この女としたい、この女をおれにくれ。
女の頬を激しく打つ、打つ、打つ。女は凄い悲鳴をあげる。女の腕を思いっきり押さえつける。女は激しくあばれる。なおも腕をしめあげる。ブラウスをブラジャーごとひきちぎる。乳房をわしづかみにし、スカートをひっぱる。女は足をばたばたさせる。「動くな!」女の股間にひざを押しつけ、乳首をかむ。左手でパンティーをひきずりおろす。女は死んだように動かない。女の足を大きく広げる。女の股間に自分の股間を押しつけ、激しく上下に揺さぶる。「起きろ、起きるんだ!」女の口を無理にこじあけ、指をつっこむ。女は胃液を出し指にかみつく。左手でこめかみを殴る。女は物凄い悲鳴をあげる。「気違いよ、この人気違いよ。だれか、だれか助けて!」女はおれの腹を蹴る。おれは髪の毛をひっぱり、女を一回転させる。女は鼻血を出し、口から血を吐く。「やめろ、やめるんだ、原口君。もおいい、よすんだ。原口君、落ちつけ」だれかがおれをとり押さえる。うるさい!ひっこんでろ!女はその間に逃げる。おれは女を追っかけ、後から首を絞めあげる。「よせ!」だれかがまたもや、おれの邪魔をする。おれはそいつに向かって殴りかかる。このやろう、バシッ!
おれの目の前にあるのは椅子だった。金銀で飾りつけられた大きな椅子だった。だれかがその椅子に座っている。そして、椅子の前には何百人もの人間が土下座をしている。椅子に座っているやつは笑っている。大きく口をあけて笑っている。そいつの顔、体全体どこもかしこも傷だらけだ。打撲傷、刃傷、嚙傷、そんな傷でいっぱいだ。そいつは始終キョロキョロしている。笑っているが何かに怯えているようだ。
そいつの後にもう一人、傷だらけの覆面をした男が急に現われた。椅子に座っている男はすばやく立ち上がると、覆面の男に殴りかかっていった。手にはいつの間にか大きなオノが握られている。覆面の男も変わった武器を持って戦っている。土下座している人間はただ見ているだけだ。覆面の男はやがて劣勢になり、後ずさりしていった。椅子の男はオノを思いっきり覆面の男の右肩に打ち落ろした。覆面の男の右腕がなくなった。しかし、覆面の男は戦いをやめようとしない。椅子の男は今度は左腕をオノで立ち切った。覆面の男は両肩からおびただしい血を流しながらも向っていっている。椅子の男はニヤリと笑うと覆面の男の首めがけてオノを投げた。アッという間に覆面の男の首が飛んだ。椅子の男はゆっくりと覆面の男の頭をかかえ椅子に座った。そして覆面をとった。アッ!その顔はおれだった。おれの顔だった。ワァー!
目の前はぼんやりと明るかった。視力が徐徐に戻ってくる。おれのマンションだった。時計を見る。午前十時十七分、日付を見る。撮影から二日たっている。その間、おれは何をしていたのだろうか。とりあえず早川さんに電話をしなくては。
「もしもし、原口ですけど早川さんをお願いします」
「はい、ちょっとお待ち下さい」
「どう、少しは落ちついた」早川さんの声だ。
「……」
「あれだけ暴れるとは。私も思っていなかったわ。後で話を聞いたんだけと凄かったそうね」
「えっ、おれ、何をしたんですか」
「覚えてないの」
「何をですか」
「あなた、ラブシーンで大暴れしたわ。白川ゆりを殺そうとしたわ。でも迫力があったわ。後で私がうまく編集したんだけど、いい映画になりそうよ。ちょっと脚本に修正を加えなければいけないけど」
「えっ…、それで撮影はどうなりました」
「一ヶ月延期よ。白川ゆりがけがをしちゃって。でも心配はいらないわ。彼女のけがは精心的なもの、あなたの変わりように耐えられなかっただけだわ」
「おれが変わった」
「そう、あなたは野獣になったわ。だれにも取り押さえることができない強い野獣に。あなたは心の中に凄い物をまだ持ってるみたい。それを出せばあなたはまた変わるわ、今よりも、もっともっと変わるわ。あなたは無限の可能性を秘めているのよ」
「おれが変わる。もう、いいですよ。これ以上変わりたくない。おれはこのままでいいですよ」
「そうはいかないわ。今度はあなた自身で変わるんじゃない」
そう言って電話は切れた。
おれは変わりたくない。おれはこのままでいい。このままのスターでいたい。今が一番なんだ。最高なんだ。おれは今が最高に幸せなんだ。だから、もういい。今のままでいいんだ。おれは変わらない、もう絶対に変わらない。だれが変わるものか。おれはレコードをかける。おれの新しいシングルだ。
映画「シェーネ」は予想どおり大ヒットした。日本映画最高の興業記録だという。おれはさらに寝るひまもないくらい忙しくなった。週に十四本もテレビに出演し、その間にコンサートをし、サイン会をし、インタビューを受ける。次の映画も決まった。テレビドラマにも主演で出ている。アニメの声優もし、原口丈のサクセスストーリーという自伝まで出した。めしを食うひまがなくなった。顔色が悪くなった。それを隠すために厚化粧をする。肌が荒れる。薬を飲む。下痢をする。すぐ、かぜをひく。熱がでる。寝つかれない。睡眠時間が短いから、寝なくちゃいけないのに寝られない。どうしても寝られない。
頭が変になってくる。昨日のことが思い出せない。セリフを忘れる。とうとう歌詞まで忘れた。
酒を飲む。精心安定剤を飲む。睡眠剤を飲む。早川さんは仕事を減らしてくれて、精心科へつれて行ってくれた。催眠術をかけられた。夢を見た。大阪で会社勤めをしていたころの夢だった。おれは野球場で会った女と結婚していた。ヨーロッパへ新婚旅行をした。子供ができた。子供はよくおれになついでくれた。おれは幸せだった。近々、課長になると、部長になった仏頂面の上司が教えてくれた。二人目の子供ができたの女房が言う。おれは昇進すると言う。女房は笑う。おれも笑う。そこで夢はさあた。平凡だが幸せな夢だった。
今の生活とは全く違う生き方だ。もし、あの時、早川さんの車に、まっ赤なレクサスに乗らなかったら、この夢のようになっていたかもしれない。いや、きっとなっていた。この夢のように幸せになっていた。それじゃあ、今は不幸なのか。こんなに多くの人から尊敬されるのが不幸なのか。わからない、おれにはわからない。どうなればいいのかわからない。時計のアラームが鳴った。寝なくちゃいけない。明日はステージだ。精心科医からもらった薬を飲む。しばらくすると頭がぼーとなってくる。考えるのが面倒になってくる。おれは本当に幸せなのか、このままでいいのか、そんなことはもうどうでもいいことに思えてきた。頭はからっぽだ。今度目ざめたら、今考えていたこともきっと忘れているだろう。
寝られない、寝られない、寝られない。頭の中に音がいっぱい入ってきてぐるぐるかき回す。それを押さえるために睡眠薬を飲む。日増しに量が多くなってくる。やめようと思うのだがやめられない。もし、薬を飲まなかったら気が狂うだろう。いや、もう狂っているのかもしれない。おれはあらゆる名誉をつかんだ。そうだ、数々の賞を受けた。第二シングル「生きるって何ですか」で日本レコード大賞を、映画「ビック・バン」で日本アカデミー賞を、そして、その他、いろいろな数えきれないくらいの賞を受けた。でも、それが一体何だというのだ。今のおれにとって一番ほしいのは眠りだ。ぐっすり何もかも忘れて寝られることだ。どんな賞より、どんな名誉より眠りがほしい。ちょうど井上陽水の「傘がない」のように。
そうだ、おれにとっては眠りが傘なんだ。おれも傘がほしい、冷たい雨から守ってくれる傘がほしい。傘の下で風と雨をふせぎたい。もうこれ以上ぬれたくない。外は雨が降ってるよ。冷たい冷たい氷のような雨が。でもおれは傘を持っていない。どんどんぬれていく。体が冷えていく。寒いよ、とっても寒いよ。何とかして、雨をふせがなくちゃ、そして行かなくちゃ、おれの家に行かなくちゃおれの町に行かなくちゃ、そうしなければ寝られない。
外が明るくなってきた。もうすぐ夜が明ける。また、今夜も寝られなかった。十時からはリハーサルだ。局に行かなければならない。でも、もう行きたくない。ただ、じっとしていたい。動きたくない。
重い体を動かして窓のカーテンをあける。雨が降っている。雨の中を女の人が傘をさして歩いている。赤い傘だ。それに白い買物かご。買物かごの中は何だろう。赤い丸いものだ。きっとトマトだろう。女の人は買い物の帰りだ。家にはかわいい子供が待っていてお腹を減らして母親の帰りを待っているのだろう。その子のために母親は急いで帰るのだろう。なんとほほえましい想像なんだ。今のおれにこんな考えがわくなんて、全く不思議だ。ひょっとしたら、おれはまだいけるのかもしれない。でも、でも今は午前六時半だ。こんな時間に買い物をするわけがない。バカげた考え―そうさ、おれの考えることなんて、とんちんかんだ。おれにまともな考えがうかぶはずがない。
こら、そこの女、赤い傘の女、どこへ行くんだ。何故トマトを持っているんだ。何故、赤い傘なんだ。何故、トマトなんだ。何故、ここにいるんだ。何とか言ってくれ、こっちを向いてくれ、おれの声が聞こえないのか、おれを見てくれ、ここにいる、おれはここにいるんだ。
女がこちらを向く。白い顔、笑っている。おれを見て笑っている。何故、笑うんだ。やめろ、やめてくれ。
おれはベゴニアの鉢を力いっぱい投げつけた。女はうまくよけた。よけた拍子に買物かごの中からトマトが落ちた。女は拾わずに歩いて行く。
道のまん中のトマト、赤い熱したトマト。おれはトマトを見ている。向うから車がやってきた。車はトマトに近づいて行く。どんどん近づいていく。おれはトマトと車を交互に見る。トマトと車は一瞬一つになった。車は去って行く。道に残る一本の赤い筋。もうトマトはない、赤い赤い一本の筋になったんだ。まるで血のようだ。赤い血のようだ。おれにも流れているのだろうか、このような赤い血が。
手首を握る。脈を打っている。胸に手をあてる。鼓動がする。おれは生きている。でも、本当におれは生きているのか。ひょっとしたら、おれは死んでいるのかもしれない。いや、死んでないとしても、夢を見ているのかもしれない、長い長い現実と全く同じ夢を。もし夢だとしたら、さめるはずだ。夢の中から本当の現実に戻れるはずだ。どうすればいいのか。どうやればこの夢からぬけだせるんだ。
チャイムが鳴った。ドアをあける。マネージャーだ。マネージャーはおれに服を着せ、おれの腕をひっぱって連れて行く。局に連れていくんだ。そしてインタビューを受ける。それがおれの今日初めての仕事だ。でも、これが、おれがスターになったことや、おれが賞をとったことや、おれがまっ赤なレクサスに乗ったことが全部夢だとしたら、これから局に行くことも夢なのだ。今、こうして車に乗っていることも夢なのだ。夢なのだからさまさなければならない。どうしても、どうしても現実に戻らなければならない。時間はどんどん過ぎて行く。
車はテレビ局につき、おれはエレベーターに乗った。エレベーターは上昇する。四階で止まる。おれは長い廊下を歩く。
時間だ―時間が過ぎて行く。夢の中の時間が過ぎて行く。この夢はいつから続いているんだ、いつから夢の中なのだ。もう二年もおれは芸能界にいる。だとしたら、二年も夢の中にいるのか。いや違う、夢はほんの一瞬でも長い時間のはずだ。おれの時間は二年もたっていない。まだ現実では一分もたっていないはずだ。目をさませ、夢からぬけ出せ。
美人アナが笑っている。濃い化粧をした顔が笑っている。インタビューはもう始まっている。美人アナはおしゃべりで早口だ。まっ赤な服を着ている。まっ赤な服のトマト―この女はトマトだ。熟したトマトだ。
トマトの美人アナは笑っている。笑いながら質問している。おれはどう答えたらいいのか、何を言えばいいのかわからない。おれを見るな―おれを見ないでくれ―おれを見て笑わないでくれ―おれはスーパースターだ。おれは凄いんだ、おれは天才なんだ。だからそんなにおれを見ないでくれ。
おれは何をすればいいのか、この女に対してどうしたらいいのか、この女は何故ここにいる。何故、おれの前に座っているんだ。この女はおれに何を言っているんだ。おれはこの女の言っていることがわからない。自分が何者かわからない。教えてくれ、おれは人間か、おれは生きているのか、おれの事を教えてくれ、言ってくれ、おれの名前を言ってくれ、おまえはおれの正体をしっているはずだ、おれの事を調べたはずだ、だらか、言ってくれ、本当の事を言ってくれ。
「おれは何者なんだ」
「おまえは何者だ」
「ここはどこだ、どこなんだ」
「おれは―おれは、だれだ」
「おまえは人間か」
「おまえは女か」
「おまえは生きているのか」
「おまえは―おまえは―おれは、おれは、おれは―おれは、わかったぞ」
「おれは、やっとわかった―おれは、毒虫なんだ!」
「おれは、醜い醜い毒虫なんだ」
おれは毒虫だ、おれは毒虫だ、おれは毒虫だ、どうしよう、どうしたらいいんだ。助けてくれ、あんた、おれを助けてくれ。おれは美人アナにつめよる。美人アナは悲鳴をあげる。美人アナは何か叫んでいる。でも、おれは美人アナの言っていることがかわらない。美人アナの言葉がわからない。
「助けてくれ、だれかおれを助けてくれ!」おれは毒虫になっちまったんだ。何とかしてくれ。おれを人間に戻してくれ。おれはスーパースターだったんだ。毒虫なんかじゃないんだ。毒虫なんかじゃ―何故だ、何故、あんたは逃げる。あんたはおれから逃げようとしている。やっぱりだ、やっぱり、おれは毒虫だ、そうだろ、おれは毒虫だろ、あんたの目にはおれはどう写っているんだ。答えてくれ、はっきりとおれに言ってくれ、おまえはきたなくて醜い毒虫だとはっきり大きな声で言ってくれ、な、言えよ、言うんだよ。あんたがおれを毒虫じゃないと言うんなら、おれにさわってくれ、おれの体にさわってくれ、握手してくれ、キスしてくれ、おれとセックスしてくれ。できないよ、あんたにはできない。何故なら、おれは毒虫だからだ。毒虫だ、毒虫だ、毒虫だ、おれは毒虫になっちまったんだ。
風が吹いている。猛烈な風だ。吹き飛ばされそうだ。ここはどこだろう。おれはどこにいるのだろうか。おれは自分がどこにいるかわからない。もう、おれには何も考えられない。おれはもう人間ではなくなったんだ。おれは毒虫だ。おれは茶色と緑色の縞模様のある毒虫なんだ。何とかしなければ、何かしなければ、おれは死んでしまう。おれは毒虫なんかにはなりたくはなかった。おれは蝶になりたかったんだ。おれは南国の色あざやかな美しい蝶になるはずだったんだ。何とかせねば、何とかして蝶に戻らなくては。
おれは蝶になる。蝶になって大空を飛びまわる。この東京の空を自由に飛びまわる。おれはこの場所から飛んでやる。ここはおれのための滑走路だ。ここは飛ぶための場所だ。だから、風が吹いているんだ。この風はおれを飛ばせてくれるはずだ。
目の前に柵がある。銀色の柵だ。おれは柵をのりこえる。コンクリートの緑に足をかける。下を見る。真下は高速道路の高架だ。そして、その下に歩道がある。歩道を向かすごく小さな物が動いている。ちらちらしてよくわからないが人間だ。下界は人間と人間の作った車でいっぱいだ。でもすごく小さい。離れているからだ、この場所に高さがあるからだ。この高さはおれのためにある。おれが飛ぶためにある。おれは飛ぶ。今、一、二の三で飛ぶ。だからもっと風よ吹いてくれ。おれは飛ぶよ。今、今、今、今、飛ぶよ。それっ。
おれの体は一瞬空中で止まった。
浮いてくれ、たのむ、飛ばせてくれ。風が体にあたる。目をあけていられない。体は落ちていく。風が髪の毛を飛ばす。鼻から風がはいってくる。だめだ、落ちる、おれは落ちている。どんどん、どんどん落ちていく。風圧が凄い。もう何も聞こえない。鼓膜が風圧でやぶれそうだ。全身を加速度が覆う。服がやぶける。落ちる。目の前に高速道路の高架があった。もうだめだ。おれは飛べないのか、やはりだめなのかおれの体が高速道路の高架を過ぎて落ちていく。マッチ箱のような車がどんどん大きくなっていく、歩道を歩く人間が大きくなっていく。おれの真下は車だ、まっ赤な車だ、おれはあの車にぶつかる。これでいいのか、おれの人生はこれでいいのか、もう、おれの心の中には、頭の中には何もないのか、もう、本当にいいのか。おれはまもなく、いや、今、赤い車の赤いボンネットに激突する―待て、待ってくれ、おれにはあるよ、まだ、あるよ、まだ、頭の中にあるよ。
おれは―おれは―もう一度―生まれ―変わり―たい
夏の太陽がアスファルトを照りつけている。汗が額から落ち、目に入る。暑い。おれは広い横断歩道のまん中でまたいつもの事を考えている。それにしても、昨日は変な夢を見たものだ。事もあろうにおれが毒虫になるなんて。おれは毒虫なんかにはなりたくない。絶対にいやだ。おれはもっとすばらしいもの、もっと美しいものになるんだ。そして、そうなることを願っている。心の底から、いつも、いかなる時も、どんな場所でも、常に願っている。
ああ、変わりたい、変わりたい、変わりたい。おれは、変わりたい。
終わり