Fate
201x年2月3日
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「ちょっと!これ何よっ」
洗面所からヒステリックな声。
ドタドタと走る足音、そして俺の頭に何か置かれた感触。手に取ると、さっき洗濯機に入れた靴下が片方。振り返ると、娘の心美が嫌な笑いを浮かべている。
「ママが、こんなモノを洗濯機に入れないでってさ?」
人差し指と親指の爪の先で、少しも触れたくないのに、無理に掴んでますって、そんな主張が見て取れる。心美はブラブラ靴下を見せると、そのまま俺の足元に投げ捨て、そそくさと自分の部屋に逃げ込む。
俺はいつものことさと靴下を拾い、指定の洗濯カゴへ靴下を入れに行く。
妻の弘美が無言の冷めた目で俺を睨み付けている。
俺は無視して、洗濯カゴに靴下を入れる。
「チっ」
無言で出て行こうとする俺の背中に、特大の舌打ちを浴びせてくる。
考え事しながらだったから、無意識に洗濯機に入れてしまった。たったそれだけのことのはず、でも、この仕打ちだよ。
ご覧の通り、冷え切った家庭。あ、自己紹介が遅くなったけど、俺は倉田隆仁。40歳。もうこんな生活を10年近く続けてる。
辛くないかって?確かに慣れたと言えば慣れたけど、すっかり疲れ切ってるね。35年の住宅ローンを支払うためだけに生きてます、そんな感じ。
愛する家族も紹介しておこうか?妻の弘美は36歳。ちょっとした美人。すこし派手。そんな印象。結婚して最初の2年は幸せと言えば、幸せだったかな?もう記憶も曖昧なもんでね。そして、可愛い娘は心美。ココミって読むんだけど、妻が可愛いからってだけで決めた名前。今年13歳。妻によく似てきてさ、俺もほんと困ってる。
もし、過去に戻ることができるのなら、結婚は違う女性としろって、俺に忠告するね。絶対。
そうだ、俺の悩み聞いてもらえるかな?最近、やる気が起きなくて困ってる。朝も起きる事が難しくなってきてて、昼間やたらと眠い。ちゃんと寝てるんだ。でも、夜中目が覚めるし、早朝にも目が覚めるし、寝た気がしないんだな。
会社で眠くなってしまってさ、最近おかしいんだよな。
会社の健康診断で相談したら、カウンセラー紹介されたよ。何でも心の健康診断が必要なんだってさ。まいったね。まだカウンセリングは受けてない。正直、仕事クビになるかもしれないって、尻込みしてるのは事実。まだ大丈夫って、自分に言い聞かせてる。
201x年4月18日
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あ、久しぶりだね。
聞いてくれよ。まずいんだよ、すごくね。もう、何もできないし、不安だし、イライラするし・・・自分は誰にも必要とされない、くだらない奴だって、そんなことばかり考えてる。
カウンセリングに行ったかって?
・・・行ってないんだ。やっぱり行かないとダメかな?
そうだよな。俺・・・おかしくなってる。
明日病院行くよ。
201x年4月19日
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やあ・・・。
病院行ってきたよ。まずいね。うつ病だってさ。2か月仕事休めって言われた。
弘美に言ったらどうなるか、想像しただけで吐き気してきた。
医者には洗いざらい話したさ。家の中での待遇も、何もかもね?
医者曰く「ご家庭内の問題ですね。長年に渡って、蓄積されてきたストレスのせいですよ。この病気はストレス源との関わりを断ち切る、あるいは緩和することが重要です。ご家族内のことですので立ち入ったことも言えませんが、ご夫婦でカウンセリングを行いましょうか?」
これ、無理だよ。10年も同じこと繰り返してきてるのにさ?解決も何も・・・。弘美がカウンセリングなて受けるわけもない。俺、どうしよう。
とにかく、仕事は休もう。
201x年4月25日
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ついにバレた。弘美もさすがに、休み過ぎだろ?って、問い詰められた。
もう言うしかないから、言ったさ。うつ病だって。2か月休まないとって。
「ハァ?」
と、第一声。
「給料出んの?」
次のありがたいお言葉。
休職だから、会社から給与は当然無い。健康保険組合から、傷病手当ってのが出る。でも給与の7割くらいしか出ないんだ。
「3割カット?どおすんのよ、その足りない分は?」
何も言えねぇ、って、誰か言ってたよね。誰だっけ?
「黙ってんじゃないわよ。何とか言ったらどおなの?」
しょうがないから、俺、言ったさ。家庭内のストレスが病気の原因なんだって。弘美や心美の対応が悪すぎるんだってね。
「私のせいだって言いたいわけ?心美が悪いって?ふざけんなっ」
近くにあったティッシュの箱投げつけられた。
弘美の目…今まで見た中でも…無機質な、冷たい憎悪の眼差し。
ゾッとした。でも、それと別に、胸の奥に湧き上がる感情もあった。
俺だけに聞こえた気がした。プチんって、何か切れる音。
自分でも、何があったか、疑うくらい。弘美が、呆気に取られてる。
そう、俺は怒鳴ってた。うるせぇって。こんなにも大きな声出せるんだ?って、自分でも驚いた。
「な、何よ、そんなにバカでかい声出してさ?近所迷惑よ?」
俺…出て行くよ。こんなところ居られない…。
気が付いたら、そう言ってた。後悔なんてするもんか。そんな気持ち。もっと早く出ていくべきだったんだ。
「あんたにそんなことができるなんて、少し驚いたわ。私は構わないわよ、好きにしたらいいわ。あ、でも慰謝料と養育費キチンともらいますからね?消えてもらったほうが、何かといいわ。ほんと」
弘美は、ちょっとだけ動揺してる。でも、怯むほどでも無い。俺は、わかった、それだけ言って、身の回りの物バッグに詰め込んだ。
俺の物…少ない事少ない事。この場合、楽でいいや。
離婚届は後で送るって言い捨てて、とにかく家を出た。
201x年7月3日
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家を出て2か月ちょっと。
独りになった効果は絶大で、うつ病の治療は順調だった。
今は減薬の終わりで、そろそろ薬もいらないだろうって主治医に言われてる。
離婚のほうは問題なく片付けた。俺・・・弘美が言う条件、全部飲んだから。
弘美に内緒でやってた株があったから、それ売ってなんとか乗り切った。
少し手元に残ったから、それでFXを始めて、何とか生活できるようになってる。
俺の隠れた才能。弘美はぽんと支払った俺の態度に、どこからお金を出したのか?って顔に書いてあったが、貰うもの貰えたらいいわ、って感じ。
会社の同僚や友達に、離婚は大変だ。パワーがいるぞ、って脅されていたが、全く気にすることも無かった。ほんとあっという間。まあ、うちの場合は特殊なんだろうけど。
そんなことよりも、さっきの事なんだけどさ?聞いてよ。
今まであまり気にもしていなかったけど、歯磨きしてる時に何気なく鏡を見た瞬間、愕然としたんだ。髪はボサボサ、たるんだ頬、そこには初老の男がいたんだ。
俺…?とても40代には見えない…
何とかしなきゃ。素直にそう思った。
201x年8月19日
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駅から自宅へ向かう。今日はジムに行ってたんだ。
身体を徹底的に鍛え直して、食生活も変えた。
多分、肉体的にはかなり改善できたと思う。体脂肪率も9%まで落ちたし、腹筋も割れ目が見えてる。きっと弘美も心美も、会っても気が付かないかもしれない、そんな風に思えるほど変わったって実感がある。まあ、会いたいとも思わないけどね。
FXの投資も軌道に乗って、無理なく生活できるまでになった。
がむしゃらに身体鍛えて、頑張ってきたからストレスも溜まってる感じがする。
気分転換しなきゃね。
201x年9月6日
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いつからだろう?雑誌かTVか忘れてしまったけど、そのとき見た風景が忘れられない。
名前もわからない、どこかの島。どこなんだろう?
気になって、ネットで少し探してみた。
見つけた。それは小笠原諸島の父島だった。東京から船で24時間ほどかかるらしい。飛行機は飛んでない。
生活には余裕もあるし、たまには旅行もいいかもしれない。かなり時間がかかるけど、もう時間に縛られる生活もしてないし・・・
行ってみよう。
201x9月14日
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父島へ向かうことにした。今日は週に1回の出港日だ。11:00に出港して翌日の11:00に島に着く。
10:15には竹橋桟橋へ到着できるよう自宅を出た。久しぶりに高揚感がある。
竹橋桟橋付近は生憎の小雨だった。まだ残暑が残っているから、寒くはない。ちなみに、現地は晴れで31℃もあるらしい。
チェックインカウンターで乗船券を引換、待合所で待った。乗船時にはアナウンスが流れるらしい。
東京湾を離れると、携帯が使えなくなるみたいだから、今のうちに確認しておこう。と、いっても重要な物はなにも無いな。誰かからメッセージが来るわけでもなく、電話だってかかってこない。
だらだらとニュースサイトなど見ていると、乗船のアナウンスが流れた。
おがさわら丸は、イメージ以上に大きかった。全長150mだから、大きいのは確かだ。考えてみると、船旅は初めてだ。電車か飛行機、そして車。移動手段と言えばそんなものだ。都心にいると船という選択は普通ないよな。
さすがにスイートは予約しなかったけど、ある程度落ち着けるほうが良いってことで、1等客室を貸切予約していた。追加料金が発生するけど、今回は特別だ。
客室は綺麗だった。想像してたよりも全然いい。TVとソファ、それからベッド。24時間もかかるけど、これなら落ち着いて行けそうだ。
出航してしばらくは小雨だったけど、今ではすっかり晴れてきたので、デッキに出てみた。海風が気持ちいい。思ったほど揺れることもなく、穏やかに進んでいる。船首から船尾に伸びる各国の国旗が、風でバタバタしてるとこや、無数に起きる波が消えたり現れたりするのを、ぼーっと眺めてた。
ふと気が付いて携帯を見ると14:43。結構ぼんやりしていたみたいだ。でも到着まではかなりかかる。
キリが無いので客室に戻ることにした。
201x年9月15日
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持ってきてた雑誌や小説を読んでいるうちに、いつの間にか眠っていたみたい。時計を確認すると5:26。何時に寝たのかも覚えていない。船の上だからなのか、ベッドが合わないのかわからないけど、全身疲れているようなそんな感じ。
あと6時間弱。特にすることもないので、もう一回寝よう。
びくっとして起きた。心臓がドキドキしている。悪夢を見たような気がしたけど、何も覚えていない。ひどく嫌な気持ちで飛び起きた。一瞬どこにいるのか、わからなくなった。
そうだ、船に乗ってるんだっけ。携帯を見ると10:12。もうすぐ到着だ。顔洗って、降りる準備だ。暑くなってるから、ハーフパンツに履き替えないと。
タラップを降りて、父島を踏みしめる。まだ揺れているような感覚があるけど、問題というほどでもない。
チェックインまで時間もあるし、特に急ぐ旅じゃない。二見港からホテルまで、のんびりと散歩を兼ねて歩いてみることにした。
南国の太陽って感じで、ジリジリ肌を焦がしてるのがわかる。湿気は少ないから、不快ではなかった。それでも、歩いていると大量の汗が流れ落ちるのがわかった。
二見港を過ぎて、ホテルまで少し登っている。ちょうどカーブの手前に女性がしゃがみこんでるのが見えた。キャリーバッグを確かめているようだ。文句を言ってるのが途切れ途切れ聞こえるから、具合が悪いということではないらしい。
すぐそばまで来たので、大丈夫ですか?って聞いてみた。
「え?あの、キャスターが壊れちゃって・・・」
その人はサングラスをずらして、俺のほうを見た。目が合う。長い沈黙。その間、心の隅々まで触られているような、むずむずするような、そんな感覚に襲われた。別に不快な感じではないんだけど。
どこまで行くんですか?と俺。聞けば、同じホテルだったので、運びましょうか?って言ってた。
「ホント?すごく助かるけど、重いわよ?」
そういって立ち上がった彼女は、淡い青のワンピースに白いサンダル。長い髪が風に揺れてた。俺は、軽いもんですよって、さっとキャリーを持って先を歩き出した。身体は鍛えておくもんだね。
少しの登って行く感じだけど、5分ほどでホテルに着いた。俺はボーイさんに事情を話してキャリーバッグを渡す。
「ありがと。ホントに助かったわ」
サングラスを外した彼女は、太陽のような微笑みを浮かべ、ペコリと頭を下げた。どういたしまして、と俺。
そうそう、俺もチェックインしないと・・・。チェックインが終わって、キーを受け取ったときに、俺の肘をチョンチョンって。振り返ると彼女がいた。
「お礼に飲み物でもご馳走するけど、どうかな?」
お礼なんか別にいいんですよって、そんなつもりで運んだんじゃないし・・・って、横目でラウンジを見ると、美味しそうに生ビールを飲むお客さんがちらほら。思わず喉が鳴ってた。
「ほら、やっぱり、飲みたいんでしょ?」
クスクス笑う彼女に、俺もつられて笑ってた。
「荷物置いてくるから、15分後にここで待ち合わせね」
ひらひら手を振って、彼女は部屋へ向かった。んじゃ、俺も部屋に行くか。
琥珀色のビールを一気に飲む。中ジョッキの半分が一瞬で消えた。美味い。ふーっと一息。5分遅刻して現れた彼女は、あまり飲みたくもない感じで、レモンティーの氷をストローでつついてた。
「とっても美味しそうに飲むのね?見てて気持ちがいい」
生ビールが大好きな俺には、いつものことだった。しかも、この熱気と汗だくな状況ではなおさらだ。
「まだ名前言ってないよね。私、サキよ。あなたは?」
ジョッキを置くと同時に、彼女が名乗ったから、俺も慌てて自己紹介した。
「リュウジ?じゃあ、お兄さんがいるのかな?」
俺は長男だった。親父が隆だったから、それに親父の好きな「仁」をくっつけた名前。仲の良い友達にはリュウジンって呼ばれた、なんて聞かれもしないことまで答えて、残り半分を飲み乾した。
「おかわり頼みましょうか?」
俺は昼間っから酔っ払いたくないって、丁寧に断った。まだ、行きたいところもあるからって。
「そう?じゃあ、私も行きたいところあるから、行くわね」
ひらひらと手を振って、伝票を握ると彼女は去った。何となく気になって振り返ったが、もう彼女は居なかった。
201x年9月16日
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父島での二日目。
今日は少し遠くまで行ってみよう。漠然とした思いに任せて動いてみるつもりだ。バスの一日券を購入した。バスは好きな場所で乗り降りできるらしい。
ゆっくり240号線沿いを歩く。1時間間隔でバスが出ているようだから、いつかバスがくるだろう。のんびり周りの景色を楽しんで、かなり歩いた時、ようやくバスが来たので、手を挙げて乗せてもらう。
日本とは思えない、エメラルドブルーの美しい海岸沿いを走る。少し先に白浜が見えてきた。よし、降りてみよう。運転手さんに聞くと、ちょうどバス停があるらしいので、そこで止めてもらうことにした。
バス停にも記載があって、ここは境浦海岸だとわかった。目を引くのは、浜辺から少し先に沈んだ船が見える。太平洋戦争で魚雷を受けた輸送船だと後で知った。
波が穏やかで、すごく落ち着く。浜辺を歩くと、石に混じって白い欠片が多く見える。これも後から知ったが、白い欠片はサンゴの死骸なんだとか。
その中から、少し歪だけど、ハートみたいに見えるスベスベの白い欠片があった。それを記念にとポケットに入れた。
何をするわけでもなく、波の音を聞いて、ぶらぶらと歩いたり、座って船を眺めたり…気が付いたらかなり時間が過ぎてた。もう昼過ぎてる。腹減った…食事もしたいから、一旦ホテルに帰ろう。
ホテルに戻って、フロントでキーを受け取る。
「お待ちください、倉田様、ご伝言をお預かりしています」
去ろうとしたところで呼び止められた。ホテルのメモ帳に書かれた伝言を、フロントから受け取った。エレベーターに乗り込み、メモを読んだ。
『今日の17時、フロントで待ってます。 沙紀』
女性的な綺麗で流れるような文字。
エレベーターは部屋のあるフロアに到着して、ドアが開いていたが、メモをずっと眺めていた。そして、ドアが閉まりかける瞬間我に返って慌てて降りた。
ホテルの喫茶店で適当な昼食を済ませて、持ってきたノートPCを使って色々と調べてみた。今日行った境浦海岸とか、他行けそうなところ、興味をひくようなところ、あれこれ見ていた。南側まで行ってみたいが、バスでは厳しいように思うし、山道なども多いように見える。
レンタカーでも借りようか?そんなことを思いつつ、時計を見ると16:48になっていた。シャワー浴びよう。午前中の歩きまわった時の汗を流したい。
フロントには、ホテルに戻って来た人や、これから夕食に行くって感じの人で、そこそこ賑わっていた。携帯を見ると17:02だった。フロントにある、周辺案内のパンフレットをもらい、ソファに座った。
さっき自分で調べた内容がほとんどで、特に目新しい物がなかった。パンフレットを置いて、沙紀を探してみる。え、すぐ後ろのソファに沙紀が座ってた。
「何か面白い所あった?」
え、いつからいたの?教えてくれたらいいのに…
「凄く真剣な感じだったから、ちょっと見てた…」
イタズラが見つかった子供みたいな笑顔。綺麗な顔立ちだから、そのギャップが凄いんだな。
で、今からどうするんだろ?
「ホテルの北側行って見た?凄く素敵な所あるの。行って見ない?」
そっちは行ってない…何かあったかな?パンフレットを開いた。宮之浜園地…湾になってる公園だ。ここなの?パンフレットを見せると、沙紀は頷く。
「リュウジン、行こう?」
言い終わる前に、沙紀は立ち上がってた。真っ白なブラウスに、ネイビーのスカート。清潔感ある、洗いたての匂いが、柔らかく漂ってる。沙紀に遅れないように、俺も急ごう。
道は舗装されているけど、木々に囲まれていて、もう日が暮れ出していて、凄く暗い。左右にカーブしながら、15分ほど歩いた。
目の前が開けて、南国って感じのビーチが広がってる。Cの字みたいに、両側から突き出した岬に囲まれてるから、天然のプールみたいに海面が穏やかだ。
沙紀はまっすぐベンチへ向うと、静かに座った。俺も隣に座る。携帯を取り出そうとしたら、ポケットから何か落ちた。カサッと乾いた音立てて、沙紀の足に当たった。
「ハート?綺麗…」
今日の午前中に、境浦海岸で拾ったんだ、良かったらあげるよ。
「いいの?」
たくさん落ちてるから、また拾えるからってだけ言うと、しばらく二人とも無言で海を見てた。映画とかドラマにでもでてきそうな、絵になる風景。夕暮れの少し暗いオレンジに包まれてる。
俺は、いつの間にか話してた。今までのこと。うつ病になったこと、離婚したこと、何故か父島に来たくて仕方なかったこと…
「そっか。リュウジン…生まれ変わるんだね。全部捨ててさ?ここに来て、生まれ変わるんだよ」
沙紀は遠くを見つめたまま、呟くように言った。そして、携帯で俺の写真を撮った。
それから、他愛も無い話しをしてた。でも、無性に楽しかった。沙紀の声に安らぎを感じてた。
「そろそろ、戻りましょう」
そう言いながら、沙紀は携帯を取り出した。
「また伝言するのも面倒だから、メアド教えて?」
お互いのアドレス交換して、ホテルへと戻った。
「何だか疲れちゃった。もう寝るね」
ロビーに着くと、沙紀はひらひらとら手を振って、部屋に戻って行った。沙紀の後ろ姿を、エレベーターの扉が隠すまで見つめてた。
201x年9月17日
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今日も沙紀と出掛ける。特に何か特別な事するわけでもなく、一緒に歩いて、話しをするだけ。
それでも、凄く充実してた。
そしてまた、宮之浜に来てた。すっかり暗くなってる。
「泳ぎたいな…」
沙紀は立ち上がった。こんな暗いんじゃ、危ないからって、俺も慌てて立ち上がる。
「あっ…」
沙紀は少しよろけると、俺に抱きついてきた。沙紀の少しひんやりとた額が俺の胸に当たってた。沙紀の身体の温もりを、俺は身体の全てで感じてる。
「ねぇ、しっかりと捕まえて。私をずっと捕まえていて」
沙紀は力を込めて抱きついてきた。俺も沙紀をキツく抱きしめてた。
静かな波の音、優しい風の音、虫の声…
空には無数の星が瞬いて、柔らかい光をふりそそいでる。俺、時間が止まってるんじゃないか、そんな風に思った。
どれくらいそうしてたのか、全くわからない。どれくらい時間が過ぎたんだろう?
「明日帰らなきゃ…、私…時間が無いの…」
そう言って、沙紀は身体を離して、波打ち際まで走った。愛おしむように波に触ると、振り返って微笑んだ。暗くてよく見えなかったけど、泣いてたんじゃないかな?
「リュウジン、戻ろう?」
沙紀は俺の手を握ると、引っ張るように歩き出してた。
201x年9月18日
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俺は沙紀の荷物を持って、二見港にいた。あと少しで沙紀とお別れだ。沙紀は静かに港を見てる。
俺はあと1週間ここにいるつもりだったけど、ひどく寂しい気持ちになってる。
「荷物、ありがとう。そろそろ行くね」
沙紀?また会えるのかな?
「また…メールするね」
沙紀はくるりと背を向け、おがさわら丸へと消えて行った。
ゆっくりと船が出て行く。二見港は見送りの人たちで賑わっている。おがさわら丸に並走して、島の漁船も複数走り出す。
ありがとう!また来いよ!
島の人達は、口々に言って手を振ってる。中には、海に飛び込む人もいる。
俺は、おがさわら丸のデッキに目を走らせ、沙紀の姿を探した。でも、どこにも沙紀の姿は無かった。
少しずつ遠ざかる船。俺も岸壁まで走った。その時、誰かに押されたんだ。俺は岸壁から海に落ちてた。
白い泡…必死で水を掻き分けて、海面に出る。おがさわら丸は、かなり離れていた。一番後ろのデッキに、淡い青のワンピースが見えたような気がした。
漁船に引き上げてもらい、二見港に戻る。
すっかり気が抜けてしまって、漁船にへたり込んだ。
ホテルに戻り、シャワーを浴びた。頭からしばらく熱いお湯をかけてぼーっとしていた。少しスッキリしたかも。
タオルで頭を拭きながら、テーブルの上を見る。濡れた財布、濡れた紙幣、カード類などが並べてある。当然、まだ乾いてはいない。見送りに行くとき、部屋に携帯を置き忘れてラッキーだった。この状況で携帯まで使えなくなると辛い。
携帯を見ると、メールが来ていた。
『
落ちてるの見たゾ!?
撮った写真送りたいから、住所おしえてね(^_-)-☆
沙紀
』
すぐに住所を送った。
もう電波が届かない場所だろうから、明日にならないと読めないだろう。まだ夕方だけど、何もする気になれずベッドに横なった。
いつの間にか眠ってしまっていた。
201x年9月25日
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島は素晴らしかった。沙紀がいなくなって、気が抜けてしまったけど、島で過ごす時間には癒しがあった。自然と足が宮之浜に向かっていて、その大半を宮之浜で過ごすことになった。
のんびりと過ごしたようにも思うけど、気が付いたら今日は帰る日だった。
あの後、沙紀からは一度も連絡がなかった。何度かメールを送ってみたけど、何の反応もないのが気になる。
沙紀にとって、単なる旅行で終わってしまった・・・ってことなのかな?
バッグに適当に服や身の回りの物を詰め込んで、二見港に向かった。
201x年9月26日
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久しぶりの雑踏。最初に感じたのは、なんてうるさいんだ?って事。人も多過ぎる。
竹橋桟橋に降りた時から、違和感が消えないんだ。
島の感覚に馴染んでたから、都心の人混みや喧騒がとにかくツライ。久しぶりの電車も、何か違うそんな感じしかしないんだ。
自宅にたどり着いた時には、ひどく疲れ切っていた。
二週間も不在にしていたから、ポストの中にはチラシやDMが大量に入っていた。その中に混じって、一回り大きい封筒があった。差出人には沙紀の名前があった。住所は長野県になっている。荷物を玄関に置いて、急いで封を開けてみた。
中には便箋と写真、それからイラストが入っていた。
『
とっても島が恋しい。またいつか行けるのかな・・・
私が一番気に入っている写真送るね
あなたに逢いたい
でも、きっと・・・もう逢えない
沙紀
』
便箋には、これだけ書かれていた。写真は宮之浜で撮った1枚。少し暗いが、オレンジ色に包まれた俺がいる。少し微笑んでるように見えて、すごく穏やかな表情。
俺ってこんな感じだっけ?なんだか別人がいるような、そんな感覚に捉われたんだ。
イラストの方はかなり上手いように思える。漫画チックではあるけど、よく特徴を掴んでいて、誰が描かれているのかわかる。俺が沙紀を抱きしめてる場面だった。あの時だ。イラストの下側には、全てカタカナのメッセージが書かれている。
『
リュウジンノハダノニオイ・・・
ムネノコドウ・・・
ドウカコノトキガ、エイエンニツヅキマスヨウニ
』
逢えないってどういうことなんだろう。返事がないことはわかっていたが、またメールを送らずにはいられない。
201x年10月3日
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沙紀からは何も連絡が無かった。もう10月だ。
あれから、電話もかけてみたが、全くつながらないんだ。
気が付くと、手紙や写真、イラストを読み返している。
ふと、封筒の差出人に目が留まる。そうだ、住所は書いてあるじゃないか。行ってみるか・・・
長野県佐久市なら、車でもすぐに行ける。
じっとしていられない。レンタカーを借りに行こう。
平日の関越自動車道路は快適だった。
これならすぐに到着できそうだった。夕方までに自宅に帰宅することも可能だろう。
カーナビもあるし、道に迷うこともない。
封筒の住所をセットすると、迷わず出発した。
途中サービスエリアとパーキングエリアにトイレ休憩をしただけで、あとはひたすら走った。1時間17分で佐久インターに到着した。
もうすぐなんだ。
平屋のかなり立派な家の前に立っていた。塀に囲まれていて、門を通って中の母屋まで道が続いている。特にチャイムや呼び鈴のようなものがないので、入るしか無さそうだ。
玄関で少し躊躇したけど、思い切ってチャイムを鳴らす。
反応が無い。もう一度、押してみたけど反応が無いので、玄関を開けてみる。すみませんって、声を掛けてみると、かなり奥のほうからスタスタと足音が聞こえる。
「あっ・・・」
出てきたのは、昔は美人だったんだろうなって感じの女性。明らかに何か知ってるんだろうな。俺の顔見て、顔色変わった。
俺は名乗って、ここに来た理由を説明した。
「どぅぞ・・・おあがんなんし」
何か暗い感じ。でも、俺が誰か知ってる、それは間違えないようだった。
通された部屋は、20畳くらいありそうな、かなりの広さがある和室だ。低めの箪笥の上には、沙紀の写真。それからなんと、俺の写真が並べて置かれていた。
「沙紀・・・あんけらこんけら待ってても来ねぇよ」
え?と聞き返す俺。いくら待っても来ないってことらしい。何度か聞き返しながらだったけど、次のような事が聞けた。
沙紀は一回戻って来たが、すぐに出て行ってしまったらしい。1週間ほどして、また戻って来た時に、俺の写真を置いていった。この人がもしかしたら来るかもしれない、そんなことを言ってまた出て行ったと。
そして、箪笥の引き出しから封筒を取り出すと、それを俺にくれた。
何も書かれていない封筒。封もされていない。
中を見ると、便箋が数枚あるようだった。
『
私に必要なのは、淡い希望
淡い希望が私を動かしてる
もしかしたら、何か変わるかもしれない
もしかしたら、誰かが助けてくれるかもしれない
そんな希望があるから、私は行動できる
愛も恋もいらない
だって、それは心を弱くしてしまう
相手がいたら、頼ってしまうでしょ?
私・・・独り強く生きていかなければならないから
父島に行ったのは、私の生まれ故郷だったから
私の両親はもういない
私が産まれた後に、母は息を引き取った
父親は誰かわからない
そして、親戚の今あなたがいるこの家に引き取られた
だから、1度自分が産まれたところを見てみたかった
何かを見つけられるんじゃないかって
でも私の両親のことも、何もわからなかった
期待していたわけでもないのだけど
でも、リュウジンあなたを見つけた
あなたも、何もかも無くした状態で来たのよね?
私も色んな物無くしたんだ
私・・・ALSっていう病気なの
発症したら、2年ほどで死んでしまうって
ねえ?じっとしていたら、気が変になりそうよ
だから、私はいつも何かを探して動き回ってる
あとは絵を描いているわ
絵を描いている時だけは、色んな事も忘れられるし
あなたに渡したい物があるから、鍵を入れておきます
沙紀
追伸:アトリエの住所のメモも入れてあります
』
俺は何だかわからず、何度も、何度も読み返していた。
ALS? 難病?
沙紀さんは病気なんですか?と、俺。
秋江と名乗った義母は、悲しそうに頷いた。大きな病院でもお手上げだって、ほんとに可哀想だって。
話しを続けるのが難しい状況だったけど、このまま黙っているわけにもいかない。アトリエはどの辺りにあるのか聞いてみた。アトリエは軽井沢の浅間山の近くとのことで、車で30分ほどらしい。
悲しそうな秋江に見送られ、俺は軽井沢へと向かった。
以前家族で軽井沢のショッピングモールに来たことがあったか。
国道18号線から塩沢湖方面へと道を曲がる。美術館が見えてきた。
その少し先には、畑が広がっている。その畑に囲まれた真ん中に、ウッドデッキが見えている。遠くには浅間山も一望できて、眺めが素晴らしい。昼間の明るい時間だと、もう少し景色も違うのだろう。今は夕暮れ時。
店のドアを開ける。豊潤なコーヒーの香りが漂っている。俺はコーヒーに詳しいわけでもないので、どんなブレンドの香りかはわからない。でも、すごく落ち着ける香りだ。
「いらっしゃいませ」
ブラウンのニット帽子、銀の丸い眼鏡に、覆われた髭。絵に描いたようなマスターだ。グラスを磨いていた手は止めず、にこやかに笑っている。俺はここに来た理由を説明する。
「あなたが・・・わかりました。アトリエに案内しますよ」
話しは全て通っていたんだろう。何の疑いもない感じで、マスターは奥に招き入れられた。
持っていた鍵を使って扉を開けた。
ふわっと香りが・・・清潔な洗濯物の香り。
部屋の中は、夕暮れのオレンジに染まっている。日当たりが良く、とても明るい部屋だった。左側にベッド、大きな窓からは浅間山が見える。右側には作業机があり、キャンバスが置いてあった。
キャンバスには木炭で書かれた人物像。とても穏やかに微笑んでる。色は付いてないけど、かなりリアルに描かれていて、すぐに誰なのかわかった。
沙紀からの封筒にもあった俺の写真と同じ構図。
よく見ると、キャンバスの左隅に何か書いてある。
『
Fate
』
「この絵をあなたにって。沙紀ちゃん言ってました。10年ほど前からここを使ってもらってるけど、病気になってしまってから、ここに籠ることが増えたね」
俺は事情をほとんど知らないって、マスターに話した。
「私には家族も居なくて、ここで脱サラして喫茶店始めた時だった。沙紀ちゃんは一番最初のお客さん。それから良く来てくれてね。私は腎臓が悪くて、移植すればよくなるって話を覚えててくれて、ドナー登録までしてくれた。残念なことにHLなんとかって型が合わなくて、無理だったけど。そんなことはいいんだ。私にとっては、本当に娘のように思ってるんだ。今どこで何をしているのか・・・」
マスターにも行先がわからないらしい。
「いつも突然来て作品を描いて、またどこかへ行くのを繰り返してるから、気にはならなかったんだけど、病気になってしまってからは、少し心配だね」
話していて気が付かなかったけど、すっかり辺りは暗くなっていた。
俺に何ができるのだろう?
全くわからない。
この部屋、沙紀の匂いが残るこの部屋に、もう少し居たい。そう思った。
とりあえず、どこか泊まるところが無いかマスターに聞いてみる。
「じゃあこの部屋の隣も空いてるから、そこを使ってください。沙紀ちゃんの友達なら大歓迎ですから」
部屋を準備すると言って、マスターは出て行った。
俺はベッドに腰かけて、キャンバスを眺めていた。
机の上に無造作に置かれた木炭、指のよく当たる部分がわずかに凹んでいる。
そっと触れると、無心にキャンバスに向かう沙紀が見えるような気がした。
201x年10月4日
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よく眠れなかった。まだ明け方早い時間だけど、マスターも開店の準備をしている。俺は邪魔にならないように、そっと店を出た。浅間山を見ながら辺りを散歩した。
どうしたらいいのか?
全くいい考えも思い浮かばなかった。
気が付いたら、島のことを考えていた。一緒に歩いた浜辺、満点の星空。
行くべきところは、他に無いように思った。
201x年10月12日
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俺はまた島にいた。
まさか、こんなに早く二度目訪れるなんて、考えもしなかった。
沙紀がここに居る確証は無い。
でも、もしかしたら、この島のどこかに沙紀がいるんじゃないかって、いつか会えるんじゃないかって、沙紀の言うように淡い希望に突き動かされ、ここまで来た。
もう俺には失うものなんて何もないんだ。
だから、ここでずっと待ってみよう。そう思った。
201x年10月26日
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宮之浜のビーチのベンチ。前に沙紀と座って話した場所。
そこに、いびつなハート型のサンゴの欠片があった。
沙紀にあげたものにそっくりだった。
その欠片には、消えかけの薄い文字が描かれていた。
『
Fate
』
俺は拾って帰ると、キャンパスの横の棚に並べて置いた。
多分、ここで間違っていない、そんな風に思っていいよね?
明日も、明後日も、その次も、ずっと・・・ここで・・・
待って見ようと思ってる。