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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
第二部 1章 竜と人
94/101

決別5



 サラはゆっくりと降り注ぐ竜の血に手を伸ばした。

 それを見つめ――自分だけ時間が止まってしまったような感覚を覚えた。


 竜は自らの傷口を鼻先で押して、伸ばされたサラの手にぼたぼたと大量の血を降らせた。それを受け止めたサラは――おそらくは嫌悪感から――少しだけ迷うように眺めてから、ゆっくりと自分の口へと運んだ。


 嫌だ、とか、やめろ、とか。いろんな言葉が喉元までせり上がっているのに出てこない。腕をつかみ止めることはおろか身じろぎすらできず、ただただ呆然と見守るしかなかった。


 眉を寄せ、口元を強く両手で覆って吐き気を堪え――そして、細い喉元がごくりと波打つのを。


 その、次の瞬間だった。

 サラの手足が、白い燐光を放ち始めた。

 目を凝らせば、その光の下で肌が蛇のような鱗に変化していくのが見てとれる。


「――……サラ……?」


 思考を麻痺させているのは、落胆? 驚愕? 恐怖?

 そのいずれともつかず、名を呼ぶのが精一杯だった。



 呼ばれたサラが顔を上げ、目が合うとほほえんだ。

 いつものように、穏やかに。


「……シオン。あなたは私の誇り、私の生きる意味のすべてだった。だから――」


 指を絡めるように手を組んで顔を寄せ、そっと目を伏せる。

 額が触れる。

 それから、遠慮がちに、唇が触れた。


「………サ……ラ?」


 疑問を口にしようとすれば触れていただけの唇を押し当てられて封じられ、反射的に目を閉じた。

 強く押し当てられる唇のやわらかな感触は酔いしれそうなほどに甘美だが、今は戸惑うことしかできない。

 常ならばサラは口づけを求めると恥じらいから俯いたのか頷いたのかわからないような反応をする。自ら口づけを求めたこともなければ、こんな――自らキスをしてくるなんてことは絶対に――。


「どうか、あなたは生きて。どうか幸せになって――」


 間隙を縫うように呟かれた言葉は雷撃のようですらあった。

 痺れた口を開くより先に再度唇を封じられる。

 組まれた指が子供の手のように小さくなっていき、鋭い爪がちくりと掌を刺した。肌の感触が、つるりとした鱗のように変化する。


 ぞわりと背筋を這う嫌な感覚に、必死になって麻痺した頭を回転させようとするけれど、どうにも思うようにいかない。


 彼女が身を挺して守ろうとするのは、いったい何度目なのか。


 代わりに、そんな意味のない疑問が浮かんで消える。


 このキスは――別れの挨拶だ。

 竜に転成する、その瞬間を見せまいと。


 離すまいと強く握った手は拳の中に収まりそうなほど小さく、代わりに太い鉤爪が指の間に絡まっていた。触れ合う唇の感触が少し堅くてひんやりと冷たく変わり、サラはゆっくりと身を引いた。

 恐る恐る目を開けた時、腕の中にいたのは小型犬ほどの大きさの、白くて幼い一匹の竜だった。


「……サラ……?」


 エメラルドのような目をくるくるさせ、長い首をきょろきょろと動かして自身の体を眺め回してる幼竜に、半信半疑で声を掛ける。


「シオン、泣かないで……」


 胸にしがみつく小さな手と頬にそっとすり寄る肌の感触はトカゲのそれでひやりとするけれど――けれど、その声は間違いなくサラの声だった。

 思わず眼が潤み、頬が緩んだ。


「……サラ…――」


 愛しかった。

 傷ひとつない鱗に覆われたその竜が。


 サラの魂が、声が、無事であることが。




「――穢らわしい人間が、僕ら神竜に触れるな」


 けれど唐突に、白竜が子猫を運ぶ母猫のようにサラの首元を咥えてぬっと首をもたげた。

 無情にも幼竜と引き離され、剣を構えて竜を威嚇する。


「返せ! サラは私の――!!」


 幼竜をとても大事そうに背中に降ろした竜は、打って変わって冷酷な爬虫類の視線を送る。


「僕がサラに竜の命を与え、妻に迎えたいと申し出た時、サラはお前と共に老いるほうが幸せだと言った」

「…………――っ!」

「僕は、サラがそれを幸せだというならそれを甘受すべきだと思った。――けれど、」


 竜の表情は感情が読み取れない。

 だが声は少しずつ怒りに震え、軽蔑するように目をすがめる。


「けれどお前は、サラを助けなかった」


 助けられなかった、ではない。

 助けなかった、と言った竜の言葉が、胸を抉った。


「サラは炎に呑まれ、熱と痛みに耐え、それでも尚、お前のことを案じていたのに。お前はサラを助けなかった!」


 竜は言葉が出ないシオンを一瞥すると翼を大きく一振りし、ふわりと飛翔した。


「だから、サラは連れて行く。僕が守る」


 幼竜がその背中を滑り落ちてきたかと思うと、小さい羽を必死にパタパタと振り、シオンの目線の高さあたりに滞空する。


「神竜は神様のものだから。私は、ここにはいられない」

「サラ!!」

「――だから、さよなら」


 いつもの穏やかな声で、別れを告げられ。

 しかし、止める言葉が見つからなくて。

 ただサラの名を声の限り叫び、手を伸ばした。


 けれど、幼竜は木の葉のように身を翻し、手は宙を掻いた。


「サラッ!!」

「あなたが幸せでありますように」


 まるで異国の言葉のように幼竜はその名を受け流して場違いな祝福の言葉を残し、高度をあげていく。


「サラ――ッ!!!」


 声の限りに叫んでも、二匹の竜は高く高く空に舞い上がっていく。


 どれだけ必死に腕を伸ばし、声が枯れるほどに叫んでも。

 飛ぶ鳥を捕まえようとするのと同じように。

 月や星を捕まえようとするのと同じように。

 決して届かない絶望的な隔たりを痛感するだけだった。




 飛び去っていく二匹の竜が少しずつ小さくなって空に消えていくのを、茫然と見送ることしかできなかった。









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