求婚2
細い腕が、首筋に絡みつく。
それは抱っこをせがんでしがみついてくる幼子のようだ。
――だが、その背筋がひやりとするほど真っ直ぐで熱のこもった視線は幼子のそれでは、決してない。
息を呑んでじりと後ずさる。だが、ほんの1歩分下がったところで背中に木がぶつかった。
愛くるしい、端正な顔が……吐息の音まで聞こえそうなほどに寄せられる。
「……冗談、でしょう?」
そうであってほしいと願った声は、かすかに震えていた。
こんな無邪気な子供とはほど遠いというのに、権力を振りかざした貴族に言い寄られた記憶が呼び起こされて。
「だって……私は人で、あなたは神様の竜なのに……」
「うん。だからサラが竜になればいい」
にこにこと無邪気に笑う少年の姿と、言葉の距離があまりにも遠い。
その姿と実年齢の乖離と同じく。
「歳も違うし、昨日会ったばかりだし、」
「僕達の寿命だとそんなに違わない。僕は、ずっと君にそばにいてほしい」
なんと答えればいいのか、突然のことに混乱してうまく言葉が出てこない。
ソウジュはそんな私の様子に気づかないのか、くるりとした目で見つめ続けた。間近で見ると青い瞳の虹彩は猫のように縦に尖っていて、人間ではないのだと認識を改めさせられる。
「僕、一晩冷静に考えた」
真っ直ぐなソウジュの視線は、シオンとそれとよく似ていた。
「君を人間にしておくのは惜しいって」
けれど、シオンに見つめられるときのような暖かな気持ちにはなれない。むしろ――ぞわりと鳥肌が立つ。
「僕らの寿命は君たちからすれば永遠といえるほど長い。こんな言い方をすれば気を悪くするかもしれないけれど、僕から見れば人間は臆病で弱くて短慮で短命な生き物だもの」
(――この子は、純粋すぎる……)
この子はこの姿通りの無力な子供ではないのだと、まっすぐ合わせた視線の奥に潜む竜の力を、今更になって思い知る。
爪や鱗がある手足を隠しているが、強大な力を秘めたこの子にとって、人間はアリみたいなものなのだ。人も子供の頃に興味本位でアリやバッタなどの虫をいじめてみたり、飼ってみたりする。それと同じように、無慈悲に人を、その圧倒的な力で踏みにじることが簡単にできてしまう。
ほんの少しの癇癪であったとしても――。
そう思った瞬間に、冷えていた背筋は一気に凍りついた。
なんとか怒らせずに断る言葉を探さなければと、気ばかりが焦ってうまく頭が回らない。
「でも君は違う。優しくて賢い。だから――……」
「待って、ソウジュ!」
機嫌を害さないようにという思考とは関係なく、両腕は首筋に両手を絡ませて迫ってくるソウジュを精一杯の力で押し戻していた。
シオンの顔が浮かんで、男の子に――子供としてならまだしも、男としてこんなふうに強く抱きしめられることには、とても耐えられなかった。
同時に、拒絶にソウジュがどんな反応をするのかと思うと、顔を上げることもできないまま、必死に腕を突っ張った。
「あなたは追われてばかりいたから私を特別に思うかもしれないけど、でも人だってそんなに悪い生き物じゃない。私のような人なんて、たくさんいるのよ?」
絞り出すように必死に言い訳をするものの、ソウジュはなにも反応しなくてしばし沈黙が流れた。
動かないソウジュに、いつものように首から下げている指輪の上に手を当てて恐る恐る顔を上げた。
彼は、ぽかんとしていた。
特に怒るわけでも、悲しむわけでもなく、本当にぽかんと。
その表情に少しだけ安堵しながらも、服の上から指輪を握る。
「それに私にはシオンが――結婚の約束をした人がいるの」
――老いても、変わらず君を愛する。
老いていくのが楽しみになるほど嬉しかったシオンの言葉を思い出すと、自然と笑みが零れた。
「私は、不老になるよりシオンと一緒に老いていくほうがいい」
ソウジュはゆっくりと大きくぱちりと目を瞬かせる。
それから、同じくゆっくりと地面に視線を落とした。
「……そう……なんだ」
ようやくソウジュから零れた声は、明らかにしょんぼりと沈んでいた。
「それじゃあ、しょうがないね」
それは自分自身に言い聞かせるように聞こえた。幼子が自分に言い聞かせようとする様は少なからず哀れみを呼ぶ。だが今この子の頭を撫でてあげるわけにはいかないのだと、自分の手のひらを押さえ込む。
「断られるとは思ってなかったな。人はみんな不老や永遠を求めていると思っていた。――サラはやっぱり珍しいと思うし、人でいるのは惜しいと思うけれど。でも、それが君の幸せだと言うのなら、僕は諦めるしかないね」
そう言ったソウジュは、唐突に再び無邪気な笑顔を取り戻して、顔を上げた。
「でも、これは取っておいて。竜の言葉で呼びかけてくれれば地上のどこにいても僕に聞こえるから、僕の名を呼んでくれればいつでも飛んでいくよ」
ソウジュはいつの間にか私が落としていた小瓶を拾い上げ、再び私の手に握らせると立ち上がって伸びをした。
空に向かって伸ばされた腕に、手当の跡のない真新しい切り傷が見えた。
「――…ごめんね。今の僕に与えられるものはこれくらいしかないんだ」
伸び上がってから落ちた肩が、無性に寂しげに見えた。
ぽつりと落とした言葉と、その申し訳なさそうな表情に胸がじんと震える。
「ソウジュ……」
なんて義理堅い子だろう。
感謝の意を示すために、わざわざ自分の身を傷つけるなんて。
「さよなら、サラ。また会えたら嬉しいな」
相変わらず無邪気な笑顔を浮かべた少年は手を振り、森の中へと姿を隠した。
* * *
森の中を歩きながら、良くも悪くも無邪気で幼い――なんて純粋な少年なのだろうかと考える。
(……これで、よかったのよね?)
花籠の中、花々の茎と葉の間からからちらりとのぞく小瓶を見るたび、自問する。
万病に効く妙薬になる……。
そう思うと、長年父を苦しめてきた病魔のことが脳裏をよぎった。
それに、王が王子の病気を治そうと竜の血を求めているという話も。
だが、ソウジュはこれを飲めば竜になると言った。これは決して使ってはいけない、人の手には余るものだ。
……捨てるべきなのかもしれない。
しかし、自分にできるせめてもの感謝の気持ちだと置いていったことを思うと、それもできなかった。
神と自分の良心に恥じない、最善の行動をしたつもりだ。
この竜の血のことは、ヒース様も交えてシオンに相談し、後々考えればいい。
だからこれでよかったんだ、と結論づけて前を向いた時だった。
「そこの娘、待て!」
突如、野太い声に呼び止められて慌てて振り返る。
軍服を着た男が、最初はひとり。彼の言葉に続いて十人ほどが、森の木の陰から現れた。
いつの間にか、私の周囲には――距離があるからまばらではあるが――人の壁ができあがっていた。
「名を名乗れ。そしてこの森の中で何をしていたのかも」
最初に声をかけた壮年の騎士が剣を抜き、威嚇しながら問いかけた。
「私はリュイナールで花屋をしているサラと申します。この森に畑があるので、こうして花を摘みに――」
説明する間にも、彼らは距離を詰めていく。
花籠の中の小瓶が見つからないように、それとなく持ち直したが――。




