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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
第二部 1章 竜と人
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出逢い2



 まわりの空気がとてもあたたかくて、穏やかだった。

 甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。

 誰かに抱きしめられている感触が暖かくて、とても心地いい。

 そしてその優しい空気に溶けていくように痛みがじんわりとやわらいでいく。


 ぼんやりと、僕は死ぬのかなと思った。


 母が迎えにきてくれて、抱きしめてくれているのかもしれない。

 こんなに心地いいのなら死ぬのも悪くないかもしれないと考えながら、とろとろとまどろみの中を落ちていく――








「――……っ!」

「きゃっ!」


 ふいに、ひんやりとした人の指とやわらかな布が傷口に触れるわずかな痛みに飛び起きた。起きた拍子に傷口に激痛が走り、それが意識をはっきりと現実に引き戻す。

 それと同時に短い悲鳴が上がり、手が引っ込んでいくのを視界の端に捉える。

 引っ込んだ手を追って悲鳴の主を睨むと、意識が飛ぶ前に逃げた人間だった。今も身を後ろに引き、僕の爪がすぐさま届く範囲から逃げ出している。


「あ、あの……包帯を巻こうと思ったんだけど……痛かったかしら?」


 彼女はぎこちなく笑みを作り、手に持った白くて細い布を持ち上げて見せた。


「ホウタイ……?」


 言葉の意味がわからずに鸚鵡返しに聞き返す。彼女はこくんと頷いて、僕の傷口に心配そうな視線を向けた。彼女の視線を追って自分の傷を見、傷口に緑色の何かが貼られていることに気づく。

 くん、と鼻を利かせれば、それが揉んだヨモギの葉だとわかる。

 そういえば、人がそうやって植物の力を利用して血を止めたり傷の修復を促したり、病気を治したりしているのを何度か見た。怪我をした人間があんな感じの細い布を巻いているのも見た覚えがある。

 それらは元々治癒力が高く病気もしない僕らには縁がなく、興味も引かなかったけれど。

 でも今、蓬の薬効がじわりと身に染みていくと――それは元来備わっている治癒力からすれば本当に微々たるものだったけれど――その薬効と一緒に胸の中になにかじんとするものが広がっていって、とても不思議な気分がした。


 首を傾げれば不意に、寝ている場所も倒れた場所ではないと気づき、人間を警戒しながら周りの様子を伺う。

 丸太と板を組み立てて作られた大きな箱のようなもの――どうやら、人間の巣の中のようだった。しかしこの巣はとても小さくて、僕が元の姿に戻れば壊れそうなほどだけど。

 僕が寝ているのは藁の上に布を被せた寝床で、そのほかには小さな机と椅子は2脚。机の上にはパンと、半分くらい水が入っているガラス瓶がひとつずつ。壁には鍬や鎌などのいくつかの農具と、あとは逆さ吊りにされて元の姿を保ったまま乾燥した花束がたくさん掛けられている。

 ひとつだけの小さな窓は開け放たれていて、風が外からユリの匂いを運び込んでくる。窓枠に仕切られた外の世界は、全て花で埋まっている。そのほとんどがユリだ。

 あとは僕が寝ている寝床と同じようにつくられた小さな寝床がいつくかあって、中のひとつにうさぎが眠っていた。そのうさぎは身体に彼女が持っていたのと同じ、白くて細い布を巻かれている。

 つまりあの細い布の名前が『ホウタイ』で、傷口を保護したり蓬がずれないように巻いておくものだろうと理解する。


 彼女の周りには鳥やうさぎなど数匹の動物が集まっている。彼らにも傷薬のあとがあったり、ホウタイを巻かれていた。

 つぶらな目で不安げに僕の様子を伺う彼らは、この人間を傷つけないでほしいという意志をもっていた。


「……これは……君が……?」


 動物達をひとしきり眺めた後、改めて自分の傷口に視線を向けた。

 つまり、僕は彼らと同じで、彼女に保護されたのだろうかと思いつつもそれが信じられなくて。


「ええ」


 彼女は緊張を緩め、ほんの少しだけ笑みを作って頷いてみせた。

 その笑顔に悪意は微塵も感じられなかったけれど、警戒して眉を寄せる。


「何故? 人間は僕を見れば逃げるか、傷つけるか、どちらかしかしなかった」


 動物達は正直だ。

 彼らがああして信頼して身を寄せるのならば、害がないのだろうと思える。

 だが、簡単には信じられなかった。

 長いこと会ってみたい話してみたいと願い続けた人間の呼びかけに喜び勇んで応じたのに。地上に降り立つや怖い顔でたくさんの人間に追い回されて、命辛々逃げる道すがら出会った人間は恐怖にひきつった顔で逃げまどうばかりだったのだから。


「……そうね。確かに普通は逃げるでしょうね」


 彼女はくす、と笑った。

 そんな猜疑心を抜かれてしまうほどふんわりとした優しい笑みが、花が綻ぶように広がった。


「あなたがこんな大怪我をして倒れなかったら、私も逃げたと思うわ」


 意味がわからなくて目を瞬かせると、彼女は母が人間に注いでいたのとよく似たあたたかな視線を僕に注いだ。


「正直怖かったし、最初は逃げようとも思ったけれど――」


 ゆっくりと長いまつ毛が伏せられ、わずかな迷いを滲ませた後、彼女は再び微笑んだ。


「だけどあなたは傷ついて助けを求めているのを見捨てられるほど悪いものには見えなかったから」


 その微笑みに――なぜだろうか、どきりと心臓が脈打ち、改めて彼女の姿をまじまじと見た。

 腰ほどまでの長さがあるのに軽やかに風に舞う柔らかな蜂蜜色の髪は、光を浴びて空気に溶けるかのように見える。優しい新緑色の瞳は透き通り、きらきらと輝く。穏やかな雨音のような、落ち着いた声――その姿は、羽が生えていれば故郷にいた妖精によく似ていると思った。

 途端、無性に故郷が恋しくなった。

 ほんの半日前までいた場所。

 退屈なほど平和で穏やかな、神の住む世界に。


(……帰りたい)


 そう切に願うと、ぽろりと涙が一粒こぼれた。


「傷が、痛むの?」


 心配そうに表情を伺う彼女は、やっぱり僕の近くをひらひらと舞い遊ぶ小さな妖精達のようだった。

 そのあたたかい思い出が、不信感を氷のように溶かしていく。


「ううん、大丈夫」


 涙を拭ってぷるぷると頭を振ると、彼女はかすかに笑みを浮かべた。


「――…ありがとう」


 この人間は信用していいんだと思った。

 多分、彼女が僕を悪いものではないと思ったのと同じように。


 そう。母が見つめ続けたのは、僕が話をしたいと思っていた人間という生き物は、こういう表情をしているものだった。


 ずっと張りつめていた緊張を、ようやくゆるゆるとほどいていく。

 地上に降りてはじめて、気を張らずに、心を許してゆったりしてもいい場所が与えられたことが嬉しくて、くすぐったくて、ほんの少し、笑みがこぼれた。


「でも、そのホウタイはやめて欲しいな。元の姿に戻った時に苦しそうだから」


 この華奢な半分人間の体型に合わせて巻かれ、うっかり元の姿に戻った時にはヒョウタンになってしまいそうだ。

 その自分の姿を想像したら――多分、実際には傷口に食い込んで痛い思いをした瞬間に、あんな布なんかちぎれてしまうのだろうけど――笑顔が溢れてとまらなかった。



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