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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
3章 誓いの指輪
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約束


 その知らせが届いたのは、騎士競技会本戦の当日の朝だった。



「――国を捨てるなら付き合う」


 シオンは会場に向かう馬車の中でその書状に目を通すと、苛立った様子でそう言いながら私に差し出した。その態度だけでも内容におよその察しがつくが、苦笑いで受け取るとあえてゆっくり時間をかけて目を通す。


 エミリア様はあの時約束したとおり、謀略をめぐらせたのは殿下で私達は被害者であると証言し、殿下の偽証を牽制してくれた。しかしそれだけでは殿下が罪に問われることはなく、シオンは司法機関にその裁きを求めようと奔走していた。

 王弟殿下が民をどのようにでも扱う権利を有しているのに対し、私は今のところただの一市民に過ぎないので刑事裁判を提訴することはできないらしく、民事調停裁判という種類のものになるらしい。

 これは、その民事調停の前の相談を受ける弁護士から送られてきた書状だった。

 難解な言葉が連なるが、なんとか内容を理解できる程度には読むことはできる。要旨をまとめると、シオンの所有物を盗む、または損壊させようとしたとして裁判を提起することは可能だが、しかしシオンもまたヴィオール殿下及び騎士団長カラム様を負傷させているので勝訴を勝ち取ることは至極困難と判断される、というものだ。

 また、末尾には丁寧に《ヴィオール殿下の温情で反逆罪に問われないことを有り難く受け止め、感謝すべきである。》という警告が記されていた。


 書状の端からちらりとシオンの様子を伺うと、不機嫌そうに窓の外を睨んでいる。

 民が貴族の所有物であるという扱いはわかっていただろうに、文面で改めて私を婚約者としてではなく所有物として扱われていることがなおさらシオンの怒りを加速させているのだろう。


「社会的制裁は十分に受けたと聞くから、様子を見てもいいんじゃないかしら?」


 読み終わった書状を畳みながら答えると、隣に座っているヒース様が無言で手を差し出したので素直に手渡す。

 空になった手で、シオンの怒りを宥めようとのその手を取る。しかし、その程度では彼の苛立ちは収まりそうにはなかった。


 エミリア様の証言は裁判に必要なそれに留まることなく、機会があればお茶会でも晩餐会でも舞踏会でも、ありとあらゆる場所で事件について語り広めているらしい。


――貞操の誓いのために命すら擲とうとし、怒りのあまり殿下に剣を向けたシオン様にそれを許さなかった高潔な精神。

 共謀者である私を許し、負傷したカラム殿の手当までしてしまう慈悲深さ!

 ああ、あれほどの人格者は貴族の中にもそう数多くいないわ……!


 招待を受けたお茶会の席で見た、陶酔しきった様子で貴婦人方に熱く語るエミリア様の姿が浮かぶ。あれは私のことではないどこかの聖人伝説だと内心失笑するしかなく、ひどく居心地が悪かったのだけど。

 しかしアグライアの姫君が流すその聖人伝説のおかげで、さすがの王弟殿下もひそひそと陰口を叩かれ、妻も実家に帰省し、今までかしづいていた貴公子達の一部もそれとなく距離をおいていく……などといった社会的制裁はかなり受けているらしい。

 おかげで私を誹謗する噂はずいぶんと減った。お茶会や晩餐会に出向いても――エミリア様が私をいたく可愛がって牽制しているという事実はあるのだろうが――あからさまに冷たい視線や暴言を投げられることはほとんどなくなったと言っていい。

 それだけでも、ありがたい話だと思う。

 これまで心優しく良心のある貴族はイグナス家の人々しか知らなかったけれど、エミリア様をはじめとしてまだまだ数多くいるのだと実感する。


 殿下の贖罪をという面では満足のいく結果とは言えない。あの人がどんな罰を受けたとしても許す気にはなれないし、正直もう二度と顔を見たくないし、あんな人が権力を握っていると思うとぞっとするのだけれど。

 けれど、これでよしとしなければならないのだと思う。

 この国に、この街に、留まり続けることのほうが大事だから。


「シオン、私はこれほど立派な領主が治める街は他にないと思うのよ」


 ちらりと見た領主は読み終わった書状を畳んで封筒に戻すと、腕を組んであとは無表情に目を閉じている。


「だからもう少し冷静になって」


 シオンの手に籠っていた力がゆるゆると解けて、ほんの少し胸を撫で下ろす。

 表情には納得できないと書いてあるけれど。


 シオンだってわかっているはずだ。

 私が国を捨ててもいいと言ったことが本意ではないことくらい。

 例え両親は連れて出たとしても、それ以外の親しい人々を何人連れて出たとしても――たくさんの人々を苦境の中に置き去りにして自分達だけが幸せになんてなれないことくらい。


「サラ……私は二度と君に剣なんか握らせたくない」


 逆に私の手を包み込んだシオンの声はいつになくかぼそく、苦々しい。


「私と対等だと言ったのはあなたでしょう。あなたが私を守るように、私もあなたを守る。この指輪がある限り、その決意を変えることはできません」


 きっぱりとした決意を告げれば、シオンは苦い笑みをこぼしながら私の手を引いて自分の隣に座らせた。


「強情だな」


 呆れ顔だけれども笑って済ませてくれるシオンが近くにいてくれることを、幸せだと思う。

 思った瞬間、不意に黒髪の少女の姿が脳裏に浮かんで苦い気持ちがこみ上げた。


「……あの子、ひどいことをされていないといいのだけれど」


 まるで空に憧れる籠の中の鳥。

 優しい人に愛されて幸せになることを夢見て私を希望だと言ったあの少女のことを、他人事とは思えなかった。


「あぁ、アイリならエミリア様がいたく気に入ったとバジリオ家に交渉して身請けし、エミリア様の傍付きになったそうだよ。今度の茶会あたりで多分顔を会わせられると思う」

「そう……それは、よかった」


 シオンが子供を慰めるようにぽんぽんと頭を撫でるから少しだけほっとして、左手の薬指にはめられている銀の指輪を右手で包み込む。


「……でも、きっと他の誰かが八つ当たりされている」


 言っても詮無いことだと思いつつも、ぽつりと憂いをこぼしてしまう。


「それはどうにもできないな。たとえ使用人を全員他家が引き取ったとしても、新しく雇われるだけだ」

「……それは、わかっているけど……」


 わかっていてもこぼさずにはいられなかった。

 法に定められた「民をどのようにでも扱う権利を有している」という王の権利の恐ろしさに、改めて鳥肌が立つ。

 いくら貴族に親を殺されても黙って叩頭せよと教えられ育ってきたといっても、実感が足りなかったのだと思い知らされた。逆えないと言っても、リュイナールにおいては死んだ方がマシだと思うほどに虐げられるなどあり得なかったから。

 しかし現在実権を握る王弟があれでは――。


「雲行きが怪しいのは確かだな」


 私の肩を抱いたシオンが窓の外に視線を移してぽつりと呟いた。それにつられて窓の外に視線を移してみるが、雲一つない快晴の空が広がっている。

 ふと、シオンが剣の柄に手を添えていることに気づいてひやりとした。


「シオン、やっぱり手に掛けておくべきだったとか思ってないでしょうね?」


 剣を握る彼の手に両手を重ねて問いかけると、シオンはいたずらを見つかった子供のようにくしゃりと笑った。


「いや、さすがにそれは――」


 ない、とは言い切らないままシオンは再び外を眺め、沈黙が流れた。


「シオン!」

「あぁ、いや……考えごとをしていただけだ。もう王族に剣を向けたりしない」


 不安から咎める声が出る。

 シオンが反逆者として裁かれることがなかったのは、エミリア様が必死にあれは大事な婚約者を守ろうという一心が謀略により長じた結果で本来謀反の意などなかったのだという保証をつけて、あちこちに手をまわしてくれたからだ。

 今度王に対する敵愾心をわずかでも顕してしまえば、その言い訳は通らなくなるし、保証したエミリア様にも多大な迷惑をかけることになる。


「……大丈夫、君をひとりにする気はないよ」


 シオンは泡が弾けたように唐突に笑みを作り、額に軽い口づけを落とした。


「君は放っておくとなにをするかわからないって肝に銘じたから」

「どういう意味よ……!」


 むくれると満足そうに笑ったシオンが、次の瞬間唐突に表情を引き締めてまっすぐに見つめてきた。


「サラ、本当に競技会優勝の褒美に望むものはなにもない?」

「……? ええ、特にないけど……」

「じゃあ、私が決めるけどいい?」

「いいもなにも、それって元々あなたが得た権利だから当然でしょう?」


 唐突な質問の意図が知れずに首を傾げたそのとき、馬車が一際揺れて停止した。


「――着いたようだな」


 ヒース様が溜息混じりに呟くと、私達に見向きもせずに馬車を降りていくのを横目に見送る。シオンは困惑したままの私の手を取った。


 本日はエメラルドグリーンに金糸の刺繍と繊細な白のレースが豪奢な、エミリア様から先日の詫びにと贈られたドレスに身を包んでいる私をしばし見つめ、少し照れくさそうに笑った。


「サラ、優勝したら君から褒美をくれる?」

「褒美……?」


 私にあげられるようなものがあるだろうかと思案するうちに、彼は私の頬に指を滑らせる。


「優勝を祝して、君から褒美の口づけを」


 思わず頬を染めて口元を覆って、視線を泳がせる。

 そんなはしたないこと――と、思う。けれど先日、言葉も行動もなにひとつ返さないままではいけないと思ったばかりだと思い直す。


「……そのくらいなら……別にかまわないけど……」


 じっくりと迷ってから答えると、シオンは輝くような笑顔を満面に広げた。


「約束したよ。必ず優勝するから覚悟しておいて」


 無邪気といっていいほどの笑顔に、嫌な予感を覚えるものの――彼は、ひらひらと手を振りながら闘技場へと足を踏み出してしまった。




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