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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
3章 誓いの指輪
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罠4



 しかし、殿下はすぐにくっくと暗く忍び笑う。


「世間でおまえがなんと噂されているかを知っているか? その美貌で愚かなイグナス家の坊ちゃんを唆し、妻の座を約束させた希代の悪女だ」

「……知っていますが、それがなんだと言うのですか」


 睨み続ける私に、殿下は笑みを深めて鼻で笑う。


「しかし、舞踏会で浮気する婚約者に失望。さらに身分の高い男に乗り換えようと、こうして私を誘ったという筋書きだが、お気に召さないか?」

「なっ――……」


 一瞬、言葉が凍り付いた。


「こんな……力で押さえ込み、ドレスを切り裂いておいてそんな虚言――!」

「カラムは警護の任にあたっているにすぎない。希代の悪女と誑かされた愚者の言葉など誰も信じまい」


 余裕たっぷりの言いように、無駄だと悟る。

 捏造もいいところだが、王弟である彼がそう言えばそれが真実になるのだ。いくらでも言い訳がまかりとおる。もっと動かしようがない証拠でもない限り、悪女の言葉も愚者の言葉も意味をなさない。


「さて、遊びはおしまいだ」


 ぐっと強く足首を掴み上げられ、恐怖が舞い戻ってくる。


「あの男は婚約者を陵辱されてどうするだろうな? お前を見限るのか、それとも私に剣を向けて投獄されるのか。後者なら日頃から鬱陶しいヒースまで片がついていいのだが」


 だが“もうひとつの楽しみ”の意味を唐突に理解し、恐怖は怒りに塗り替えられた。

 この謀略はあの時の腹癒せに私を辱めるだけではない。シオンが激昂して殿下に刃向かえば、それをもって反逆者の汚名を着せ、イグナス家を取り潰すの口実にしようとしている。


(――そんなこと、絶対にさせない!)


 ぎゅっと拳を強く握ると、指輪の存在が強く感じられた。


「私に服従を誓うならお前だけは助け、私の下で働かせてやろう」


 短剣は殿下の手に握られたまま、私の腹に寄せられている。

 だが、剣など、もはやどうでもいいとすら思った。


 シオンは私をこんなふうに所有物として――まして己の欲望を満たす道具のように、玩具おもちゃのように扱ったことなど一度もない。

 あの人はずっと、自分の半身のように傷つくことを厭い、守るものとして慈しんでくれた。

 あの人のために私が差し出せるものがあるなら命すら惜しくはないと思った。ならば――。


「服従――」


 喉がカラカラに乾ききって、喉を震わせるとびりびりと痛んだ。卵を丸飲みするような違和感を堪えてなんとか一度息を飲み下す。

 それから、意を決して、一切の抵抗を放棄した。


「……これで、よろしいのでしょうか?」


 生理的な拒否反応をなんとか押さえ込んではいるが、声はどう頑張ってもひきつった。殿下は力の抜けた膝頭を掴んだまま用心深く私の顔色を伺っている。


「ふむ、諦めたか。もっと強情を張って楽しませてくれるものと思っていたが」

「無駄な足掻きなのでしょう?」

「さすがは希代の悪女。いい決断力だ」


 震える声で言葉を絞り出すと、殿下は満足げに目を細めた。


「……お願いですから、その剣を置いて腕を放してください。酷く痛くて怖くて――」


 哀れみを誘う涙声で願うと、騎士はかすかに押さえつける力を緩めた。私に気遣わしげな視線を投げ、そして許しを乞うて殿下に視線を投げた。

 殿下は得意げに鼻を鳴らし、ようやく剣を私の肌から遠ざける。


「カラム、離してやれ」


 ぎらぎらとした欲望に目を輝かせた殿下は許可を出し、騎士は安堵したように私の腕を解放した。

 用心深く見下される中で、あまりに強い拘束で痺れている腕をゆっくりと口元まで引き寄せ、そこにある痣を、そっと撫でる。


《愛するサラへ――》


 そう刻まれている銀の指輪に唇を寄せ――シオン、私も愛してると心の中で呟く。


 瞬間、申し訳ない気持ちが溢れた。

 こみあげてくる嗚咽を必死に堪える。


 その言葉を彼にちゃんと言ったことが一度もなかった。

 一度くらいちゃんと言っておくべきだった。

 太陽の光のように絶え間なく、惜しげもなく注がれる想いを、植物のようにただ甘受するばかりで、なにひとつ返していなかった。


(シオン、ごめんなさい。約束は、守れないけど――)


 私には何もないけれど、せめて私のあの人のために生きようと決めたから。


「かわいそうに。慰めてやるからな……」


 涙を必死に堪える姿を満足そうに眺めた殿下が両手を伸ばそうとし、手中の短剣を邪魔そうに一瞥すると、私の頭上にいる騎士へと差し出した。


「お前はこれを持って見張っておけ」


 疼痛がじわじわりと引いていくのを確認しながら、薄目で頭上の様子を窺う。

 男たちが剣を受け渡そうとした瞬間を見計らい――


(でも、私――あなたを守る!)


 痩せた男を押し退けると同時に手を伸ばし、全身の力を振り絞って剣を奪い取る。

 慣れていないせいもあって非常に動きにくいマーメイドドレスだが、皮肉にも切り裂かれていたおかげで動きやすい。


「………なっ………!?」


 奪い取った勢いで一回転し、窓際になんとか身を起こしてふたりの男を睨みつけると、そろって驚愕の表情を晒していた。

 しかし殿下はすぐに嘲笑を浮かべる。


「剣を奪ってどうするつもりだ。私に剣を向ければイグナスがどうなるか、教えてほしいのか?」

「必要ありません。この剣をあなた方に向けるほど、愚かではありませんから」


 息を整え、涙を拭い、ドレスの胸元をかき集めて、足をできるだけ隠しながら、彼らを睨みつけてきっぱりと言い捨てる。

 奪取した時に剣がかすったらしく、腕に傷がついて血が滲んでいた。

 それをみた一瞬、短剣を持つ手がふるえた。

 だが、恐れるなと自分に言い聞かせる。


 迷う暇などない。

 毎日使っているナイフや鎌だって、その気になれば凶器になる。

 使う側の心ひとつだ。

 シオンは守るために剣を振るう。

 だから彼の剣は見ていることができる。

 これは、シオンを守るために使う。

 だからこの刃は怖くなどない!


「では、なにをすると――」


 いいかけた殿下は、私の行動に続ける言葉を無くした。

 うっすらと口元に笑みさえ湛え、しっかりと握った短剣を自分の胸に垂直につきつける。


「いかに王弟殿下の権威であっても、これほど哀れな姿で自害したイグナス家の婚約者の遺体がベッド上にあればこの謀略を隠し通すことはできず、これほどの証拠が明るみに出れば言い逃れもできないのではないですか?」


 剣の柄に刻まれた王家の紋章。

 首筋と腕の小さな痣。

 男の手形がわかるほどくっきりと手首に刻まれた痣。

 切り裂かれたドレス。

 それらを、そっと一撫でする。


 悪女の言い訳が、愚者の戯れ言が、無意味でも。

 貞節の誓いを守った死は、死人に口がなかろうと関係なく雄弁であるはず。

 私が殿下を誘惑しただとか貶めようと謀ったとなどという偽証は説得力を欠き、怒り狂ったシオンが殿下を罵倒しようが――おそらく騎士が危害を加えさせはしないだろう――婚約者の死に臨んだ激情ならば、いくらか世間の裁量も見込め、シオンに反逆の汚名を着せることは、難しくなるはずだ。


 確信がある。

 シオンは絶対に私の遺体を隠蔽する時間を与えない。

 ヒース様は絶対にシオンと家名、リュイナールの街を守ってくれる。


 あの人を守るためなら、命など惜しくない。

 あの人達に危害を加える材料にされるくらいなら死んだ方がよほどいい。


「この身はシオン様のものと誓ったのです。その誓いを果たすことが許されないくらいなら、今ここで自害します!」



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