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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
2章 かりそめの恋人
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踏み出す一歩1



 城の中庭にある修練場に、シオンはひとりで立っていた。

 訓練用の剣の柄を右手に握り、左手を添えてまっすぐ正面に構えるその雰囲気は普段の穏やかな彼とは別人のように見えた。

 およそ2メートルほど先に立てられている丸太を睨む彼の視線は、訓練用の刃の潰された剣などよりもよほど鋭く研ぎすまされ、近寄ることも声をかけることも躊躇われて――そもそも通りかかっただけでたいした用事もないのだけど――ただじっと見守る。


 シオンは目を閉じ、深く、ゆっくりと息を吐く。

 体の中のすべての息を吐ききったところで呼吸を止めると、鋭い双牟が正面の丸太を睨みつけ、斜め右上に降りかぶると同時に大きく踏み込み、隼のような速さで一息に目標との距離を縮め――


「せぁっ……!」


 目標の前で唐突に身を屈めたかと思うと、くるりと身を翻し遠心力を刃に乗せ、気合いとともに右下から左上へと振りあげた。

 訓練用の剣なのに、その斬撃は人の胴回りほどの丸太に食い込むほどだ。


……不思議な人だ、と思う。


 少し前までなら、剣でも弓でも武器を見ると嫌悪が先だって竦んでしまうのが常だったから、剣術やその練習をこうして眺めているなんて絶対にありえなかった。けれどあれが真剣なら、あるいは人間だったらと考えると背筋が寒くなるものの、あえて考えようとしない限りはそんな想像は彼と結びつかない。それどころか彼の動きは水の流れのようになめらかで優美に立ち回り、まるで一筋の光が舞い踊るように美しくさえ思えるから、不思議だった。

 しかも、貴公子といえば武器や武術以上に嫌悪ばかりが先立っていたのに。婚約者に――妾や情婦ではなく、正式な妻の座を約束された婚約者になるだなんて思いも寄らなかったし、未だに信じられなくて苦笑いが漏れる。


 婚約を公表すると、リュイナールの街は収穫祭でも始まったかという騒ぎになったし、それは近隣の街にも及んだらしい。

 領主一族の婚姻というのは、普段圧制に耐え鬱屈とした日々を過ごしている民衆でも陽気に飲み歌い騒ぐ口実になるし、商売も繁盛するから喜ばれることではある。現にシオンのお兄様方が結婚した時のお祭り騒ぎは私の記憶にも残っているから、そういうものなのかもしれないけれど。

 けれど、実際の輿入れの日は随分先だ。

 いつ話したのだったか、自分の結婚式の花は全部自分で育てたものを使うだなんて子供の夢想をシオンはしっかりと覚えていた。そしてその夢を叶えればいいだなんて言うのだから困った。街娘と貴人ではその規模が全く違うことをちゃんと理解しているのか甚だ怪しいが、大きくても小さくても夢だったなら叶えればいい、などと言う。

 それに加えて誰だか知らないが、家紋にちなんでユリの季節に執り行ったらいいんじゃないかと言い出して、その案に乗ることが決まった。ユリの季節は終わったばかりだから季節が巡るのを待たなくてはならないが、尋常ではない量の花の用意とシオンの妻として恥ずかしくない立ち振る舞いや教養のレッスンが課され、途轍もなく忙しい毎日を過ごしている。

 しかし、日々がめまぐるしいせいなのか、どうにも実感が湧いてこない。

 これまで温かい目で見守ってくれていたソラさんをはじめとする市場の仲間達が祝福してくれるのはわかるが、街を通るだけの行商人や隣街の人々までが自分のことにように喜び騒ぐのは不思議な気がしたし、ましてやおめでとうと言われても、どこか他人事のように聞こえてしまう。

 二ヶ月も経って祭の雰囲気はさすがに消えたが、人々はどこか浮き足立っている。その浮かれた空気に乗り切れず、ひとり取り残されているような感覚がして寂しい。輿入れすればこの城で暮らすことになるし、父の始めた花屋は畳むことになるし――。


「………………」


 溜息混じりに、鎖骨の少し下に手をあてる。

 そこに、あの時受け取った銀の指輪がある。

 こんな瀟洒なものを身につけて野良仕事などできるはずがないから大事に箱にしまっておこうとしたら、シオンは肌身離さず身につけてほしいと拗ねた。だから折衷案として柔らかい組紐に通して首からかけておくことにしたのだ。


 冷静になって思い返せば本当に受け入れてもよかったのだろうかと不安になることはあるが、後悔はしていない。嘲笑も苦難も、彼が傍にいてくれるのなら耐えられると思う。

 ただ、環境が変わっていくことに戸惑っているだけだ――。


「サラ!」


 丸太から剣を引き抜き、一息ついてから顔を上げたシオンは見学者がいたことに気づいたらしい。急ににこりと人懐っこい笑みを浮かべて駆け寄ってくるので、思考が途絶えた。平々凡々とした名前なのに、シオンに呼ばれると特別な存在になったような気がしてくすぐられたような心地がする。


「仕事は終わった?」


 私が抱えている花を見て尋ねられ、仕事中に思わず目を留めて魅入ってしまったという事実が気恥ずかしくなって苦笑いになる。


「いいえ、まだ時間かかるわ」


 鋭い刃が氷のように溶けて春の日差しのように穏やかな笑みが戻ってきたことに、ほっと胸をなで下ろす。剣を握るシオンに目を奪われることもあるけれど、街で子供たちの遊び相手になってあげる姿が板についている彼のほうがやはり好きだった。


「そう。じゃあ、競技会の本戦も近いことだし、もう少し鍛錬しておこうかな」


 傷だらけの丸太を見やり、片手で軽々と剣を回して持ち換えながら呟く彼の目が再び鋭さを帯びて、なんだか無性に不安になる。


「……ねぇ、シオンはなぜ剣の練習をするの?」


 シオンは領主の補佐官なのに、時間を見つけては乗馬や剣の鍛錬を重ねている。しかもその腕ときたら、昨年は大怪我をしたとはいえ準優勝を飾るほどだし、今年の予選もすでに通過したらしい。


「君を守るため」

「またそうやってふざける」


 にやりといたずらをする少年のような笑みを浮かべる彼に苦笑する。根っから軽いわけではないのに、そうやってよくふざけて軽口を叩くのは彼の悪い癖だと思う。

 彼が剣を学び始めたのはヒース様の薦めもあって幼少の頃からと聞いている。出会ってから一年半くらいの私のためということはないだろう。


「真剣だよ。君や、この街や、そういう守りたいものを守るための力を得るために励んでる。父上も所帯を持つなら勉学も武術もより一層の研鑽を怠るなと煩いくらい言ってくるし、いい汗をかけばストレス発散にもなるし――」


 相変わらずにこやかに笑っているが言葉は少しだけ真剣味を帯び、溜息をつくしかない。どこまで本気なのかよくわからないが、彼の剣は人を傷つけるためではなく守るためというのは多分本気だろう。


「じゃあ、シオンは騎士になりたかったの? この国と弱者を守るのが騎士でしょう?」

「いや」


 くしゃりと笑顔を歪めたシオンは空を仰いだ。


「騎士は王の命令ひとつで見知らぬ遠くの街をも守らねばならないが、私はこの街や街の人々を守りたい。必要なのはそのための力だから」


 背筋にひやりとした水滴が滑り落ちたような気分がして、身が引き締まる。

 王に忠誠を誓った騎士でなくとも、領土を与えてくれた君主に対しての忠義は必要なはずだ。

 けれど貴族も民も同じ人だと言う彼の主義は、現行の封建制度と著しい乖離がある。さすがに端的な異議を堂々と唱えることこそしないが、言葉の端々に王家に対する不信が見え隠れする。ヒース様の言によればそれは今に始まったことではないが、王弟殿下が私に猥褻な奉仕を要求したあの一件が大きく拍車をかけたらしい。


「……いずれ、力が必要になる。そんな気がする」


 シオンは眩しそうに目を細め、ぽつりと呟いた。



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