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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
2章 かりそめの恋人
41/101

銀のユリに誓う1


 心臓が軋むほどの激しい鼓動を刻むのと正反対に、不思議と思考は冴えた。


「そんなこと、できるわけが……」


 できるわけがないと理性が冷静に告げて、胸が軋む痛みに目を伏せる。

 シオンが本心からそれを願ってくれたとしても、それは叶わないのだと思うと、顔を上げられない。あのひたむきな目を見たら、理屈を捻曲げても了承せずにいられなくなるという予感があった。


「父も君が了承するならと許可をくれた」

「………うそ………」


 けれど腕を緩めて顔色を覗き込んでくるシオンがこともなげにと言い放った言葉に驚き、反射的に顔を上げた。


「うん、私も自分の耳を疑った。だけど意外とあっさり、新しい娘を歓迎すると伝えろと言ってくれた」


 シオンは少しだけ複雑な笑みを浮かべていた。


(そんなはずがない。だってヒース様は私が望むようにと……)


 疑問がすぐには喉を通らなくてまごついていると、彼はポケットから純白の小箱を取り出し、手触りのいい上質のベルベット地の小箱を丁寧に開けてから私に向けて差し出した。

 その柔らかそうなリングピローの上にのっているのは、銀の指輪だった。

 浮かび上がるユリの紋章――イグナスの家紋を中心に据え、腕の部分は優美なツタが模された繊細な意匠の指輪が月明かりを浴びて柔らかい光を放っている。


「嫌なら突き返してもいいけど、確認だけはしてみて」


 彼の顔と指輪を何度か見比べてから、恐る恐る手に取ると、内側に刻印が彫られていた。

 それを読み、息を呑む。


《愛するサラへ婚約の証として シオン・イグナス》


 家紋を刻んだ指輪は正式な妻にしか贈ることを許されないとも、必ず当主の承諾を得なければ作ることができないとも聞いたことがある。

 つまりこれがヒース様が了承した証ということだ。


――君の望みが叶うよう配慮しよう。


 脳裏に蘇ったヒース様の声に、目を覆う。

 思い返してみるととてもあの方らしい言いようだった。


「でも――……でも、許される、わけ……が……」

「法の上で必要なのは家長の赦しだけだ。このとおり父の許可があって、他の誰が許さないと?」


 法律なんて貴族のためにあるもので、私達には縁のないものだった。民にとっての法は貴族の機嫌そのものと教えられて生きてきた。

 その上、女は勉強なんてできなくてもいいと言われてきた。

 そんなことなんてお構いなしに、法律でも勉強でも私に教えたのはシオンだ。師であるシオンに反駁の余地があるはずがなく、ただ口を噤んだ。


「…………でも…………」


 うまく言葉にできないけれど、納得したわけではない。

 この街の人々は暖かく見守ってくれているけれど、この街を一歩出れば違う。

 今でもシオンは嘲笑され、私を中傷する噂で溢れているのに。婚約なんかして、それがどうなるのかと思うとぞっとする。


「他人の言葉などそよ風と変わらないと言ったのは君だ」


 きっぱりとした強い意志を秘めた声に心が揺れ、呻く。



――ごめん、八つ当たりだ。


 違う。

 あの時本当に謝るべきだったのは、私。

 サラは私のものだと言った時の意志の強さが、気がついたらその背中に縋って泣いていた自分の弱さが怖かった。いっそ殿下のようにひどい人なら楽になれるのではないかと挑発的なことを言って、怒らせて、傷つけた。

 なのに私は優しさに甘えて謝ることすらできなかった。


――弱みにつけこむみたいで平等フェアじゃないから。


 貴族と民が平等であるはずがないのにと思った。



 絡まった糸のように、思い出と思考が複雑にもつれて、どうやってほどけばいいのか見当がつかない。


「……だって、そんな……御伽話じゃあるまいし――聞いたことが……ない。そんなこと、できるはずが――……」


 夢物語は叶わないからこそ夢見るのだと理性が警鐘を鳴らす。


「できないと決めて、諦めて――それで君は後悔しない?」

「…………っ」

「私は諦めない。前例がないなら作る」


 ぐらりと世界が揺れたような感覚に襲われて、手中の小箱を抱え込むようにうずくまると、シオンは私を包み込むようにゆっくりと背中に掌を当てる。



――これは護身のためのものだから。


 怯える私に申し訳なさそうにそう言って撫でていた剣は今も、その腰に下げられている。



「御伽話ではなく現実だ。だから苦労を承知で――君にだって苦労も迷惑もかけることを承知で、我が儘を承知で、願う。私と一緒に立ち向かってほしい」

「――……っ!」


 耳元で囁くように問われ、絡まり合う一番太い紐が一息に引き抜かれたような感覚が駆け抜けて、全身が震えた。

 胸を掻き毟りたくなるようなもどかしさと底なしの不安に、絡む糸に縋りつきたい衝動に襲われる。


 世間知らずの坊ちゃんが家を捨てて生きていけるほど、世の中は甘くない。

 心の隅でそう思ったこともある。

 それも、違う。

 怯えて、竦んで、動けなかったのは、私の方だった。

 臆病で。身分とか、立場だとか、そういうものにいじけて、諦めて――そのくせに、彼の優しさを甘受するばかり。

 そんな自分が、厭わしかった。

 言い訳ばかり、泣いてばかり、八つ当たりばかり。

 素気ない態度も冷たい言葉も――全部シオンは許して、傍にいたいと言い続け、手を差し伸べ続けてくれたのに。


「君が私を助け、私は君を守る。そうして苦労も喜びも、すべてを君とともに分かち合いたいんだ」


 自分ではどうしようもなかったわだかまりが、彼の一言ごとにいとも簡単に緩んで、勝手に解けていく。

 追い縋る余裕など与えずに、するすると逃げていく。


「……どうして、私なの?」


 最後の糸に追い縋るように必死に尋ねた。

 それを聞くのは、もう3度目になる。

 1度目ははぐらかされ、2度目は見識を与えると答えた。でもそれはいくらでも替えのきくもので、茨の道と知っていて飛び込むほどの理由には思えない。


「最初はかわいいなって、ただそれだけで君に声をかけた。君に振られて目が覚めて、君の見識と慈愛に惹かれた。圧制に耐える健気さにも。けれどなにより――君は、父の叱責から私を庇った」


 シオンは今度こそくしゃくしゃに歪んだ笑みを浮かべて答えた。


「仕事を失い自身よりも大事な家族を路頭に迷わせるかもしれないのに、自ら汚名を着てでも守ろうとしてくれた」

「………あれは、」

「君にとってあれが単に恩返しだったとしても。大事なのは、君は家族のための苦労を苦労とも思わず、家族を守るために戦えることだ」


 言い訳を遮ったシオンは、痛みに耐えるように私の肩に額をつけて息を吐いた。


「私は小さい頃からずっと家族がほしいと願っていた。家族のような、ではなくて――本物の家族と温かい家庭を築くのが夢だった」


 それはどこにでもあるごくありふれた幸福なのに、シオンがどれほど切にそれを願っていたのかと考えると爪先から震えが走る。


「だから、君しかいないと思った。貧しさにも病にも揺るがないその強い絆を、私にも結んでくれるならどれほどの苦難も厭わないと」


 抱きしめる腕に力がこもり、声に冗談まじりの笑いが混ざる。


「私個人としては君と暮らせるならこの身分も街も捨てて構わないんだけど――それでは君に叱られるから。逃げずに立ち向かおうと思う」


 ふつりと最後の糸が切れた感覚がした。

 それでも手中にある白い小箱はまだ手に馴染まなくて、闇に沈んだ足下は足を下ろしていいのかもわからなくて。

 寄る辺のない不安に瞬きを繰り返して視線を泳がせる。




 シオンはゆっくりと息を吐きながら腕を緩めた。


「――誓うよ。神と、そして誰より君に」


 忠誠を誓う騎士のように私の前に膝をつき、指輪ごと手を握りしめる。

 優しい琥珀色の瞳が心まで届きそうなほどまっすぐに、真摯に私の目を見つめ――逸らすことができなかった。


「どんなに時が経っても、どんなに姿が変わったとしても、変わらずに生涯君だけを愛すると」


 息を呑んでただ呆然と見つめる中、シオンは歌うように滑らかに宣誓する。


「老いも病気も、どんな不遇でも、決して私の思いを変えることはできない。それを証明してみせる。死が私たちを引き裂くまで、ずっと君の傍にいる」


 握られた手にも、見つめる瞳にも、力がこもる。


「――だから、私の家族として、共に生きてほしい」


 心に刻み込むようにゆっくりと紡がれる誓いの言葉の一言一言が胸を打ち、いろんな気持ちが溢れかえって、言葉にならなかった。

 ほろほろと涙が零れ落ち、返事を待つシオンに縋って、ただ、泣いた。


 シオンは何も言わずに、私が落ち着くまでずっと背中をさすり続けてくれた。




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