夜を過ごす
「おかえり」
侍女の控室で用意されていたネグリジェに――純白なのに裾や肩口にレースがたっぷりとあしらわれて華やかな印象の意匠だ。揃いのケープも羽織っているが、丈が膝までしかないから落ち着かない――着替えてから部屋の扉を叩くと、シオンは返事より先に扉を開けて安堵の笑みを浮かべた。
まるではじめてひとりで留守番をした子犬のような歓迎ぶりに、自然と口元が綻ぶ。
「………ただいま」
ただの挨拶なのに気恥ずかしくて俯くと、唐突に抱き寄せられ耳元に安堵の息がかかる。
「うん、おかえり」
もう一度繰り返したのは寂しかったのか、それとも私が帰るかもしれないと不安だった反動かもしれない。そう思うと「大丈夫」と背中を撫でてあげたくなって自然と手が伸びる。
「あらあらシオン様ったら。お熱いのは結構ですけど、扉を閉めておふたりになってからにしてくださいませ」
「ティナ、いたのか」
「いたのかとはご挨拶ですね。お茶のおかわりと膝掛けをお持ちしましたが、不要でしたか?」
「…………いや、ありがとう」
けれどそれより早く後ろに控えていたティナに冷やかされ、シオンは慌てて腕を離した。その脇を茶器の類と毛織物の膝掛けを抱えたティナが小気味のいい足取りですり抜け、シオンとふたりでその後を追う。手際よく先に出されていたカップを片づけて新しい紅茶を二人分準備し、シオンに膝掛けを渡すと退室した。
「ごめん、散らかしてて」
言いながらシオンはテーブルの上に積み上げられている本の山を脇に寄せ、今し方用意してもらって湯気を上げているティーカップの脇に無造作に置かれていた分厚い本を重ねた。
既に盛装を解いているシオンはソファでくつろいでいたのだろうと思われるが、それらはくつろいで読む種類の本には思えない。今朝ドレスに着替えてここにきた時もシオンはずいぶんと分厚い本を開いていたことを思い出して、積み上げられた本のタイトルに視線を走らせてみるが、やはり『法と国家』『グラド国民十法』『家督――の……』といった堅苦しいものばかりで、しかもあちこちに付箋が挟み込まれている。
生活に必要な最低限の読み書きしかできない私には書名すら読めない単語があるけれど、おそらくはヒース様の跡を継ぐ勉強だろうと思えて微笑ましい。
ヒース様も仕事熱心な方だけれど、自室でもこれほどとなるとシオンもかなりの勉強家だ。
「興味があるなら読んでみる?」
「無理よ。こんな難しそうな本ばかり」
「威圧感はあるけど読み込むと面白いんだ。たとえば――知ってる? 歳を数えるのにも法の定めがあるんだ」
無理だと首を振ったのに、シオンは一冊の本を手に取って話し続ける。
「ほら、《年齢ノ計算ニ関スル法律》ってのがあって、《一、年齢ハ出生ノ日ヨリ之を起算ス》《二、年齢ハ出生ノ日ノ前日ノ終了ヲ以テ満了ス》って」
シオンはパラパラと慣れた様子でページをめくって一節を指し示したが、私には確かにそれらしい単語が並んでいる、くらいしか理解できなかった。
「……法律って、そんな当然のことも定められているものなのね」
「そう。私もそれが不思議で調べてみたんだけど、異国には数え年っていうのもあるんだよ」
感嘆の息をこぼすと、シオンの説明には大袈裟なくらいの熱が入る。
「数え年って?」
「新年を迎えた時に全国民が一斉に歳を取るっていう年齢の数え方だ」
「え。一斉にって、本当に?」
「本当に」
言葉もなく目を丸めると、今度は得意げに破顔した。
「私達が当然だと思っていることは、異国では当然じゃないかもしれない。そう思ったら、いろいろと調べるのが面白くなってきてね。異国の文献は入手も解読も大変だけど」
凄い、と素直に思った。
これを読める学識も、疑問を追求する意欲も。
「勉強熱心ね」
「父上には動機が不純だと叱られた」
「動機って?」
尋ねたがシオンは急に照れくさそうに押し黙って教えてくれなかった。それより、と言って別の法律のことを話し出す。
その内容は知らない単語も多くて理解できないこともあるのだけど、意気揚々と解説をする姿は眩しいほどに思えた。
「……羨ましい」
ぽつりとこぼれた羨望に、シオンは本の解説を中断して首を傾げた。
「勉強するのは嫌いじゃなかったの。でも賢しい女は煙たがられるから勉強なんてできなくていいってずっと言われてきたから」
溜息混じりに言ってソファに腰を下ろす。
父は簡単な読み書きを教えてくれたし、店を任され必要になったから結果としてよかったのかもしれないと言われるようにはなったけれど。母は今でも裁縫や料理や洗濯といった家事を覚えたほうがいいと小言をこぼす。
「私はついこのあいだまで嫌いだった」
シオンは苦笑いで私の膝に膝掛けをかけてから、少し距離をおいて隣に座った。
「……うん。じゃあ一緒に勉強会でもしようか」
「え?」
信じられずに見つめると、シオンは笑う。
「人の意見を聞くのも大事だし、サラの意見はとても貴重だと思う。単語が読めないだけで理解できないわけじゃないだろうし、知らない単語があれば説明する。これなんか――」
シオンは言いながら一冊の本を――背表紙だけで掌がいっぱいになるような分厚さの本を――手にとって膝の上に広げた。
女だからと頭ごなしに否定しなかったことに驚き惚けていると、ふいに彼が平民と貴族が同じだと言ったことが思い起こされて、胸がじんわりと温かくなる。
シオンは私にも見えるように本を半分だけ自分の膝にのせ、残りの半分はソファの上に広げた。必然、読みあげているのがどの単語かわかるように差し示してくれる体勢はちょっと傾き、維持するのが大変そうだった。
その遠慮がちな姿勢だって、あの日の誓いの遵守だ。
「………よく見えないわ」
胸の奥をくすぐられているようで落ち着かなくて、言い訳じみたことを口にしながらソファに投げられている方の片端を持ち上げた。それを膝に乗せられるように距離を詰めて座り直す。
なにか言われたらすぐに離れようと身構えたけれど、シオンはぱちりと目を瞬かせただけで、結局なにも言わずに朗読を再開した。
寄り添っているわけではない。ただ一冊の本を一緒に膝に乗せているだけ。
なのに読み上げるシオンの声は嬉しそうだ。その声を聞いているのも、シオンのいるほうの空気がほんのりと温かいのも、くすぐったくて落ち着かない。
内容はわからないことも多いけれど、私が少し首を傾げるとシオンは読み上げるのを中断して「どこかわからない?」と逐一尋ねて説明を加えてくれて。
知らないことを知るというのは面白い。夢中で話をきいているうちに夜は更けて、何時までそうして勉強会をしていたのか――記憶にない。
* * *
「……あら、まぁ」
翌朝。
ふたりを起こして身支度させるために控えめに叩いてから扉を開けると、意外な光景に小さく声を上げた。
ソファに並んで座ったふたりの膝の上には広げられたままの一冊の本。座った位置には微妙な距離が開いているものの、サラちゃんはシオン様の肩に寄りかかり、シオン様はそんなサラちゃんの頭に頬をつけて――要するに、寄り添いあって眠っていた。
「んー…………」
しばし扉を開けたまま逡巡したが、結局水を張った盥とタオルを扉の近くの台にのせただけで、できるだけ静かに扉を閉めた。
だって、誕生日の翌朝にシオン様があんなに安らかな寝顔をしているのもはじめてのことだし。いつもは朝日よりも小鳥達よりも早起きしているはずのサラちゃんが誰かに寄りかかって寝坊するなんてね、これはもう奇跡としかいいようがないから。
「シオン様、あと10分だけですからね」
ニヤニヤしながらこそっと告げて、控室に戻る。
「あらティナ。シオン様はもうお目覚めになったの?」
「ううん。サラちゃんと寄り添って寝てる顔があんまり幸せそうだったから。あと10分だけそっとしとくことにしたわ」
「あらまあ……」
呼び止めた同僚が頬を染めたのをみて、我ながら満足のいく仕事をしたと浸りながらふたりに運ぶ紅茶の用意に取りかかる。
苦いくらいに濃く煎れて熱々を運んであげれば、ちょうど良い頃合いになるだろう。




