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銀のユリに誓う  作者: 葵生りん
第一部 1章 野に咲く花
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プロローグ2


 王都で定期的に催される舞踏会や夜会といった社交の場に赴き、諸侯と情報交換をしたり交流を深めるのは、イグナス家の子息として父から与えられた仕事のひとつだ。だが人を値踏みするような視線と悪い噂ばかりが飛び交う雰囲気はいつまでたっても馴染むことができなかった。場繋ぎに口をつける葡萄酒の味は良いものばかりだが、慣れていないせいで深酔いすることもまだ多くかったのだ。

 だから彼女と言葉を交わした時の記憶は少し曖昧で、何年経っても思い返す度に悔やまれた。




「はー……腹減った。エドガー、なにかあるか?」


 着替えるのも億劫で煌びやかな盛装のまま、裏口につけた馬車から厨房のドアに倒れ込むように押し入る。いつものこの時間ならば薄暗い厨房の隅に置かれている小さな作業用の机と椅子に腰掛けて献立を組んでいる料理長のエドガーに声をかけながら、覚束ない足取りで厨房を横切る。


「坊ちゃ――シオン様、晩餐会に行ってこられたのではなかったのですか? 御馳走がたくさんあったでしょうに」

「御馳走には違いないが、あんな他人の顔色を伺いながらなんて、食べた気がしない」


 慌てて立ち上がった料理長と入れ違いに、どさりと倒れ込むように椅子に座る。体が重くてそのまま机に突っ伏している私の背中に、いたわりと困惑がないまぜの視線が降り注ぐ。


「でしたらお部屋にお持ちしますから、着替えられてください」

「ここでいい」


 最近では帰ってくる度に同じような会話を繰り返してばかりいる。


(うー……気持ち悪い。あの空気に馴れ合うのは気が進まないけど、いい加減に酒くらいは慣れないとなぁ……)


 いつもこの時間、この場所には気心の知れた料理長しかいなくて、だからこそ気兼ねなくだらだらと愚痴をこぼしてみたりするのだが、今日は珍しく呼び方が「シオン様」だなとぼんやり思う。


「エドガー、なんで今日は――」


 乱れ落ちてくる髪を重い手でかきあげながら顔を上げ、口を開きかけたところで、エドガーが私の隣に苦笑混じりに目配せをした。


「すまないが、少し待っていてくれるかい?」

「はい、大丈夫です」


 それでようやく、私はそこにひとりの少女が座っていることに気づいたのだ。

 花を生けていた、あの娘だった。今は質素な白ブラウスに丈の長いスカートという、ごく一般的な町娘の格好だが。

 あれは夢か幻だったのだろうかと思いはじめた頃だったからなおのこと、アルコールのせいで頭の中にぼんやりとかかっていた靄が急速に晴れていく。


「君をこの前城内で見かけて、誰かと思ってたんだ。新しく入ったメイドかなにか?」

「いえ……」


 ずしりと重い体を叱咤しつつ起こして――でも、肩肘ついたまま――問いかける。

 料理長はにやにやしながら軽食の準備に場を離れ、取り残された彼女は緊張した様子で香草の名前や数字が列挙されたメモに視線を落とした。


「いえ、城内で作業する時には制服をお借りしていますが、先月から御用命を頂きました花屋の娘で、サラと申します」


 耳慣れたきゃあきゃあと騒ぐ甲高い声や甘ったるい猫撫で声ではなく、少し低めの、まるで雨音のように耳朶に柔らかく響く落ち着いた声が心地良い。

 こんなところで話す機会に恵まれるとは運がいい――いやでもできたら素面がよかったなどと思考が迷走していく。


「ああ。道理で、いい匂いがするんだ」


 弁明するなら、酒のせいだったのだと思う。

 普段なら相手が貴婦人だろうと使用人だろうと軽々しく触れることはないよう、厳格な父に躾けられている。けれどその時は花の香りに誘われた蝶にでもなったかのように、透き通る月光のような美しい髪に手を伸ばしていた。

 一房手に取った髪の香りを、顔を近づけて確かめる。先ほどまで少々強い香水にばかり慣らされていた鼻孔をかすかな花の芳香が優しくくすぐり、その心地よさに目を細める。


「社交会の女性たちの香水より、この花の匂いの方が優しくて好きだな」


 そのまま上げた視線が、間近で絡み合った。

 瞬間、サラは身を震わせたかと思うと頬を赤く染めてさっと目を伏せた。


 その声も、纏う香りも、反応も、なにもかもが新鮮だった。


「坊ちゃん、初対面の女性をいきなり口説いたりしたらヒース様に叱られますよ」

「口説いてない」


 チキンの香草焼きとレタスを挟んだボリュームあるサンドイッチを4つ、手早く拵えてきた料理長が冷やかしてきて、思わずむくれる。


「自覚がないならなおさらタチが悪いですね。自重なさってください」


 サラに誤解を与えたくなくて軽くエドを睨みつけるが、エドガーは涼しい顔でそれを受け流して笑っている。その当然と言わんばかりの態度と父の名に、軽々しく髪に触れた軽率さが急にうしろめたくなる。


「……そうか?」

「その距離で好きだなんて口説きの常套句じゃないですか。私も若い頃には使ったもんです」

「それは匂いの話だ」


 ちらりと見たサラは確かに緊張と困惑に溢れていて、罪悪感が言い訳を口に上らせる。


「はははは、坊ちゃんの言動は破壊力がありますからねぇ」

「破壊力?」

「ええ、そりゃもう大砲並の」

「エドガー、意味がわからないんだが」

「まあ、とにかくどうぞ温かいうちにお召し上がりください」


 ふてくされると、遠慮なく朗らかに笑うエドガーが目の前に皿を置いた。手早くフィンガーボールも添えて。

 笑うエドガーにつられたのか、サラの表情も少し和らいだ。

 途端、唐突にお腹の虫が目の前のサンドイッチを催促し、サラはついにくすくすと笑い声を漏らした。


「ふ……ふふふ。どうぞ、召し上がってください」


 気持ちは非常に複雑だが、こうも腹の虫がぐうぐうと鳴いていてはどういいわけしたところで格好悪い。ひとまず腹の虫を黙らせるために身に付いた躾に従ってきちんと姿勢を正して手を洗い、食前の祈りと挨拶も済ませてから一口齧り付く。レモングラスの香りと胡椒ペッパーの効いたあたたかいチキンと、しゃきっとしたレタスの歯ごたえが、引き攣れていた胃腸を刺激して、一口食べたらあとは止まらずに猛然と食べ進める。


「やっぱりエドガーの作ったご飯が一番おいしい」


 二個目を手に取りつつ、心から感嘆の声が漏れる。

 最近では社交会の後は毎回この調子というのも理由のひとつだろうが、さすがは離乳食から世話になっている料理長。提供までの早さと心を読んだようなメニューは、周到な準備と経験の賜物といえるだろう。


「ありがとうございます」


 気持ちのいい食べっぷりを嬉しそうに眺めていたエドガーは、二個目を食べ終わるとミントの葉を一片浮かべたグラスの水を苦笑いで差し出した。


「しかしね、坊ちゃん。もう子供じゃないんですから、こんな薄暗い厨房の隅っこではなく、食堂か、せめてお部屋でお召し上がりくださいね」


 3つめのサンドイッチの最後の一口を頬張るといささか不機嫌に眉を寄せ、グラスを受け取る。


「ひとりで食べるのは人の顔色を伺いながら食べるのと同じくらい味気ないから嫌だ。こうやって気心の知れた家族や友人と他愛のない話をしていれば何倍もおいしいと、サラはそう思わない?」


 グラスを一気に煽り、名残惜しく4つめを手に取りながらサラに話を振る。

 父は昔から執務室で食事を取ることが殆どで、滅多なことでは食堂に顔を出さない。母は亡くしているし、二人の兄達も結婚して今は遠方にいる。

 だからちゃんと食堂の長いテーブルについたとしても、いつもひとりきりだ。大勢で囲むための長いテーブルの端にひとりでついて豪華な食事をするより、まかない食をかき込むように食べる使用人達と一緒に同じものを食べるほうが好きだった。


 問われたもののサラは首を捻るばかりで返事に困っていた。その間に4つめもぺろりと食べ終え、ごちそうさまと声をかける。


「うちの坊ちゃんはこういう人なんだ」


 エドガーはくすぐったそうに笑うと、早くも空になった皿の片づけにかかる。

 返事に困っているのかサラはエドガーの後ろ姿をみつめている。空腹が満たされると疲れがどっと押し寄せ、睡魔がやってくる。眠気と戦いながら机に肘をついて、後かたづけをしている初老の料理長の後ろ姿を一緒に眺めた。

 私の身長があの腰よりも低い頃には足下をちょろちょろとしていたが、今ではもう身長は悠に越え、仕事中に傍に寄ると邪魔だろうなーー。

 針でつつかれるような痛みについと目をそらし、代わりにちらと覗きみたサラは心細そうな表情を浮かべてやはりエドガーの背中を見つめている。

 なにか話をしていた方が気楽だろうかとぼんやりと思って、とりとめのないことを一方的に喋った。


「母は自分の命と引き替えに私を産み落とした。だから私の記憶にある限り、近くにいて世話をしてくれたのは忙しい父ではなく、エドやユマたちだったし。遊び相手は年の離れた兄達よりティナだった。……だから、彼らは私の家族なんだ」


 おぼろげな記憶の断片――最後にそんなことを話したら、サラが少しだけ心から笑ってくれた。……ような気がする。

 営業用ではない素直な笑顔は、もしかするとただの夢だったかもしれないと思うほど、花も恥入るようなかわいらしさで――つくづく、記憶が曖昧なのが惜しまれる。



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