痕跡
昨日の朝掃除したばかりの洗面台には、もう何本かの髪の毛が落ちていた。この髪をDNA鑑定すれば、A型ではなくAB型と出るのだろうか、なんて考えてみる。先だけが曲がった私の髪とは違う、全体的に緩くパーマがかかったその髪は、彼女が確かに私の部屋にいたことを物語っていた。最も、テーブルの上に置かれた空のお茶のペットボトルとか、カフェオレのパックとか、かすかに残る化粧品の匂いとか、彼女の痕跡は部屋のいたるところに転がっているのだけれど(私は買ってまでお茶を飲む人の心理が理解できないし、コーヒー飲料は苦くて飲めない。化粧をする意味は二十歳になった今でも見いだせない)、洗面台の髪は、彼女がこの部屋に泊まっていったことを生々しく物語っている。別に彼女がここに泊まるのは初めてではないのに、今日に限って妙に生々しい。久々に会った彼女の前でいつも通り自分勝手に振る舞ってしまった自己嫌悪のせいかもしれないし、漠然と数えているせいかもしれない。彼女は後何回、この部屋に泊まってくれるのだろう。
1年間という期限付きで彼女が関東の大学に行ったのはこの4月からである。それでもGWには、彼女は私たちの部活のステージを見にこちらに出向いてくれた。その時も彼女は私の部屋に泊まった。ステージの翌日、私は3コマほど大学の授業を自主的に休講した。2人で有名なお寺でも見に行こうかと言っていたけれど、大学の食堂で別の友人らも交えて話していれば、そんな時間はあっという間に無くなってしまった。
今回も2人で隣の市に観光に行こうかと話していたが、結局他の友人らと喋っているうちに時間はなくなってしまった。場所が大学の食堂からファミレスに変わったという違いはあったけれど。
彼女と出かける予定は、こんな風に悉く実現しない。
彼女が私の部屋に泊まるのは、私しかこの片田舎に住んでいないからだ。私たちの大学のキャンパスは、市内と片田舎の2箇所にある。部の練習場所は片田舎にある。そして片田舎キャンパスに通っているのは、部内の同期では私ともう1人だけだった。そのもう1人は実家から2時間かけて通っているという猛者であり、部の練習場から徒歩10分という恵まれた場所に下宿しているのは私だけだ。それ以外の同期たちは、市内キャンパスで授業を受けた後、電車で小一時間かけて片田舎での部活動に顔を出し、練習後は小一時間かけて市内の下宿、または実家へと帰っていく。市内に通い、市内に下宿していた彼女も例に漏れずそんな生活を1年続け、関東から戻ったら片田舎に住むことを決めた。市内への往復にかかる時間並びに交通費と、一限のために早起きすることを天秤にかけた結果、後者の方がいけると判断したらしい(後日、一限は入れない宣言をしていたことを知った)。市内よりもはるかに安い家賃も、彼女がこっちに住むことを後押しした。この夏休みの私の部屋への宿泊は、下宿先を予約するついでだった。
彼女が片田舎に住んでしまえば、私の部屋に泊まる必要はなくなるのだ。
夏休みの市内は人が多かった。家族連れや外国人の団体でごった返している。デザートだけを注文して一時間半居座ったファミレスを出て、さんざん駄弁った友人らと別れて駅に着いたのは、彼女の新幹線が出る一時間前だった。思いのほか早く彼女がお土産を選んでしまったので、駅地下のフードコートの一角で時間をつぶした。彼女と2人という貴重な時間は、いつものように私が一方的に喋って終わってしまった。毎回彼女の話を聞かなかったことに自己嫌悪しているというのに、本当に学習しない。それでも新幹線乗り場の改札をくぐった彼女は、振り向いてもう一度手を振ってくれた。申し訳なかった。
彼女を見送った後、アニメグッズ専門店目当てに駅前のショッピングビルに寄った。もやもやのせいということにして、挿絵が好みの本を衝動買いする。ついでにある店を覗いてみようと思い立った。エスカレーターで2階分降り、案内図を確認して目当ての店に向かう。
そこは3か月前、GWに彼女と訪れた三百均。
夜行バスで使うために首に巻くクッションを買った彼女は、そのままキラキラしたヘアアクセが並ぶ棚へ足を進めた。邪魔な前髪を誰に貰ったかも曖昧なクリップで留めているだけの私には、縁遠い棚だ。
「カチューシャで髪留めれば?」
「えっ?」
唐突だった。だって、そんな、つけたことないし、とあたふたしている私と、キラキラした棚の距離は、私の手首を引っ張る彼女によって強制的に縮められていく。
「ほら、これとか」
そう言いながら手に取った2つ目のカチューシャを私の頭に載せてから、彼女は言った。
「あ、似合う。可愛い――」
それは黒とか細いとか目立たない類ではなく、青と白のストライプの布リボンがついた太いやつで、そもそもそんな目立つアクセサリーなんて今まで着けたこともないわけで、第一私みたいな、自分磨くとか女子力とか、そういうのと無縁な冴えないヤツがいかにもなアクセサリーなんて着けるのはおこがましいわけで、絶対変に決まっているわけで――。そんな思いで頭はいっぱいだったが、
「いいじゃん、買えば?」
彼女の言葉の前には、うん、と言ってレジに行くしかなかった。このような状況において、似合わない、とか、可愛くない、とかいう女子はいないことくらい私も分かっている。それでも、バス停まで歩きながら、本当に似合ってた、可愛かったよ、と言うのは女子の社交辞令の範疇に入るのかどうかまでは、友人との買い物経験が皆無に等しい私には判別できなかった。
でも結局は嬉しかったわけで、部屋に一人でいる時や遠くに出掛けるときだけ着けてみたりして、徐々に抵抗を減らしていった。今日着けてみたのも、そうした涙ぐましい(?)努力があってのことである。昼間のファミレスで私がカチューシャを付けているのを初めて見た友人たちは、
「どうしたんそれ!?かわいー」
と言った。彼女は、
「でしょ」
と言ってくれた。嬉しかった。今日は素直に喜ぶことが出来た。
3か月ぶりのその店は小さくなったようだった。よく見ると数少ない商品が中心部に寄せられ、店の周囲を囲む真っ白な棚は空っぽだった。棚に貼られた紙によると、後十日で閉店するらしい。カチューシャもあった。10個ほど並んでいたが、布リボンが着いた太いものは一つもなかった。青と白のストライプの布リボンがついたカチューシャがあった痕跡は、無造作に積み重ねられたヘアアクセの山にも、空っぽの真っ白い棚にも、どこにもなかった。
各駅停車の電車に小一時間揺られて片田舎の部屋に戻り、洗面台の明かりを点けた。昨日の朝掃除したばかりの洗面台には、もう髪の毛が落ちている。緩くパーマのかかった、きっとAB型と鑑定される髪の毛。彼女が泊まった痕跡は、掃除してしまえば私の部屋からなくなってしまう。彼女がこの部屋に泊まることも、私が彼女を好きだということも、布リボンのカチューシャのように、その痕跡はどこにもなくなってしまうのだろうか。
昨日の朝掃除したばかりの洗面台は、空っぽの棚と同じ白色をしていた。
昔の思い出をベースに、短編風にまとめました。覚書程度に思っていただければ幸いです。