久矛炒―誘拐―
「んー! んーんんーんー!」
気付いて! 泡立くん!
助けて!
もう本気で涙が流れていた。口を押さえる犯人の手に、びちゃびちゃとこぼれる。
「ちょ、ちょっと、静かに……落ち着け、おい、矛炒」
「んーんーんー! んーんんー! ……ん?」
ムイリ? それは私の名前だけれど。どうしてこの男が? そういえばなんだか聞き覚えのある声のような気も、しなくもない。
「オレだよオレ、わすれた?」
「んんんん?」
クロ兄? と尋ねたのが伝わったのか、口から手を離してくれた。
「そうそう」
クロ兄は泡立くんの様子を伺いながら、声をひそめて。
「とりあえず外に出よう」
と言った。
玄関から出ると、クロ兄は空から降る綿菓子みたいなのをひとつ掴んで私に差し出した。
「食べてみ」
「ぅぅう、大丈夫なの」
「ああ、おまえらの大好きなもんだぜ」
指先でちょんとつついてみる。柔らかくて、少しベタっとしたものが付いた。その指をくわえる。
「ぅぅうう、しょっぱい」
「それは矛炒が泣いてるからだな」
「だって……」
「ま、いいや。あいつが起きる前に行こうぜ」
いこうぜ? と言われても、今日はどこかに行く予定なんてなかったと思うけれど……もしかして。
「クロ兄……これはなんぱ?」
「なんてね!」
「ちょ! それは私のせりふだぞ!」
「いいからついて来いよ。どーせ暇なんだろ」
「暇だよこのやろーー!」
団地を降りながら聞くと、クロ兄は普通に私と泡立くんを連れ出しに来たらしいのだけど。寝ている泡立くんの顔を見て、悪巧みをしている最中だったらしい。そりゃあ! 私だって危ない奴が居ると勘違いするよ! めっちゃ悪そうな笑顔だったもん!
「悪かったって、あんまり積もると流石に自慢のこいつでも走れなくなるから急ぐぞ」
クロ兄が私の抗議をさっらっと流しながら、自慢のSUVの鍵を開けている時だった。
「矛炒ちゃん!」
と団地の上の方から誰かが叫ぶ声が聞こえた……てか、泡立くんじゃん。
「やべ、あいつもう起きてきたよ。ほら! さっさと乗れ矛炒!」
「わかってる。車高が高くて」
「後ろから押してやるよ」
割と乱雑な感じに思いっきり押し込まれて、シートにダイブした。
「うへっ」
「あれ、あいつどこ行った? まさか、もう降りて来てんのか」
クロ兄がエンジンをかけたところで、後ろの窓から外をのぞくと、泡立くんが脚を地面に突き刺して、停止していた。
「ふっ。残念だったなぁ、愚かな弟よ! 矛炒はオレがいただいていくぞ! あはははっはははははははあっははははっはははははは!」
「悪い! 悪い! 悪い! 笑い方が悪いよ!」
そんな感じで、私は誘拐されたことになったのでした。




