久矛炒―世界五分前仮説―
目を疑った。
だってあたしは今日の朝、冷房の温度を二十二度に設定したはずなんだから。
だけど窓の外には雪が降っているように見えるのだから。それはやっぱり、自分の目をまずは疑う。世界五分前仮説並に、なにもかもを疑ってみる。
世界五分前仮説とは、文字通り世界が偽の記憶や知識を持った状態で五分前に始まったかもしれない。なんていう懐疑主義の世界チャンピオンみたいな仮説だけど、真夏に雪が降ることに比べたらまだあり得そうだ。
「いやむしろ、もともと雪は真夏にだけ降るもので、でも五分前に世界の記憶は書き換えられて、雪が真冬にだけ降るものだと思いこんでるだけなのかもっ……なんてね」
ちょっと馬鹿げた独り言のあとには、誰が聞いてるわけでもないのに、冗談めかして自分にいいわけをしておく。
ホントはそんなこと思ってませんよー。冗談ですよー。って。
心の奥は知らない。ただ、自分は変人じゃないぞーって、自分に言い聞かせる。だって、馬鹿みたいなことを信じちゃいそうな、キラキラ純粋な自分より、しっかりしてて、現実見てて、それでいて冗談も言えちゃうような自分の方が、かっこよくて好きなんだから。
そうそう、だから。
きっと雪は真冬に降るのが正解で、私の記憶も世界の記憶も書き換えられたりはしていなくて。それじゃあ、冷房が二十二度の部屋から眺めるこの白いゆらゆらは何だろう。
ふっと空をのぞき込むと、ふわふわの雲が気楽そうに浮かんでた。
雲と綿菓子はよく似ている。
そういえば、こんな話を聞いたことがある。二つのものがあって、その二つは限りなく同じにできている。どうやっても見分けることはできない。ただ片方は本物と呼ばれ、もう片方は偽物と呼ばれる。だけれどそれは誰にも見分けられないんだから、もう同じということにしちゃおう。みたいな話が、あったようなぁ、なかったようなぁ。たぶんなかったかなぁ――なかったんかい!
まっ、あったかなかったかはこの際どうでもいいかっ。
つまり、雲と綿菓子はすごく似てるし、かなり同じようなものに見えるし、実は同じものなんじゃない!? ってこと。
もしもあそこに浮かんでいるのが雲じゃなくて綿菓子だとしたら……夏が暑すぎて、少しずつ溶けて落ちて来ちゃってるのかも。
「なんてね……そうだ、泡立くんにも教えてあげよ、どーせまだ寝てるだろうし」
もう一度窓の外を見る。
ゆらゆら、空気が歪むほど暑い空を白い斑点模様が彩っている。あれは甘いのか、冷たいのか、柔らかいのか、触れられるのか。
不思議と思おうか。不気味と思おうか。
なんだかよくわからないけれど、悪いことが起きている気はしない。
なんだか、肺の中で小さい私たちが風船を膨らませているみたいに、脇とか胸とか首のあたりがむずむずする。
「ふふん」
泡立くんのリアクションが楽しみ。
彼はどんな風にこの空を見るかな。
家の中に突撃して、寝癖の着いた少年をたたき起こす二分後の自分を空想する。
「よっし!」
部屋着をさっと脱いでベッドに放る。ん~、ワンピでいいか。
泡立くんなんかは、私のことを割と、仕草とか生活態度とかがちゃんとした女の子だと思ってくれているようだけど、見られてなければこんなもん。誰か来るときにぱぱっとかたずけられる程度なら、散らかした内には入らないのよっ。
はい、着替えおーわり!
だだだだだっ。はいはい、靴はおどきねっ! サンダルサンダル~。
がちゃ。
玄関を開くと、十度近い気温差に一瞬押し戻される。
「やっぱり暑いんだぁ」
廊下に出ると、喧騒と虫の音に包まれる。向かいに見える別棟が、太陽の光で真っ白に見えた。なのに不思議と、空からは雪のような、だけど決して雪じゃない何かがぽろぽろこぼれ落ちてきて、地面や植木を白く塗り替えている。
なんだかその景色に夢中だった。
子どもの時、夏の夜。蛍でいっぱいの河原を初めて見た時の自分も、きっとこんな気持ちだった。光のひとつひとつを目で追う。彼らがどこから来てどこへゆくのか気になった。でもいつの間にかどれがどれだかわからなくって、それでも私は、飽きもせずふわふわ飛んでいきそうな感情で、ずっと光を見つめ続けた。
よくわからないものに、ただわくわくしてただけなんだ。今もきっと同じ。
発泡スチロールでできた世界の天井が、別の世界とこすり合わされて、ぽろぽろ、ぽろぽろ、と崩れてるみたい。
玄関の鍵を部屋に置きっぱなしにしたのを思い出す。けど、どうせお隣さんだし、まあいっか、と駆けだした。
いちっ、にっ、さんっ、しー、ごっ!
がちゃ。
「ぴんぽーん!」
ドアを開け、サンダルを脱ぎながら静かな家の中に呼びかける。やっぱりまだ寝てるみたい。ママンもお出かけ中ね。
そこそこ散らかったリビングを八艘飛びで「よっ、ほいっ」と奥へ進む。
自分の家と真逆の間取りの家。
自分の部屋と同じポジションの部屋。
入り口の襖をサーッと引くと、そこにはまだ寝ている泡立くんの寝顔が――。




