泡立白―二度見―
雪が降ってる。と思った。
一瞬だけ窓の外を眺めて、そして、顎先から落ちた汗の粒で我に返る。
あ、今僕は『二度見』をした。こんな動作、マンガのキャラクター特有の感情表現だと思っていたけれど、汗滴る季節の雪に、うっかり視線を奪われた。
「異常気象? 外は寒いのかな」
部屋の中はひどく暑いのだ。いくら働いても汗をかかない扇風機が、少しだけうらやましい。通りの音がうるさくて、締め切っていた窓を試しに開けてみる。
「う、ううん。あまりかわらない」
多少風がある分窓は開けておいた方が涼しい、と感じるくらいで、とても雪が降るような気温じゃなかった。
じりじり、じりじりと、焼け付くような音で虫が鳴く。
雪が降るのはあり得ない。だけど、空から白い固まりが降ってきているのは、自分の目が証明しているし。いったいこれはなんなんだ。
はっきりとした、現実とは隔絶したところにある矛盾が、目の前にはある。たとえば、どんなものも貫く最強の矛と、どんなものも通さぬ絶対の盾とがあって、どちらが真実か証明しようとしたら、どちらも同時に証明されてしまったような――矛は盾を貫き、盾は矛を通さなかったという、そんな理解を超えた出来事が、この真夏の雪にはある。
まあ、例え矛が勝っても、盾が勝っても、どちらかが嘘であった以上、嘘の最強に勝ったものが、本当の最強だとは証明されはしない……だから、最強の矛と盾を売る商人の――矛盾の故事からは、商人は嘘を吐くものだ、という教訓を得ることもできるが、今、話の本筋はそんな漢字の成り立ちとは違う。どちらかというと、僕は世界の成り立ちを疑うべき光景を目にしているのだ。
ここで「ええええええええええええ?!」とか大声を出してみるのも、なかなかすっきりしていいかもしれないけど。今は一人なのでやめておく。きっと誰にもフォローされないと虚しくなるから。
少しだけまじめに考えてみよう。
季節に関係なく、空から白い粉のようなものが降る……あ。
もしかして火山灰だろうか。ありえそうだ。雪が降るよりはずっと。もしかしたら、この暑さも噴火のせいだったりするのかもしれない。
よし、少しだけ考えたっ。
「そうだ、矛炒ちゃんにも教えてあげよう」
まどからベランダに出る。どこにでもありそうな集合住宅『団地!!』のベランダ。当然隣の住居のベランダとの間に壁がある。のだが。
団地の壁は、非常時に隣家へ避難できるように突き破りやすいように作られており。たとえば、何年か前の僕が誤って壁を壊してしまい、以降そのまんま放置されて、お隣の久家と風通しが良くなっている、なんてこともあったりする。
トイウワケデ。
積んである荷物をどかし、壁の下方に空いた穴を通り抜け、隣の家の窓をノック。
「こんこんこん。むー、いーりちゃーん。あーそ、びーましょー」
しかし反応がない。カーテンが閉まって室内は見えないけれど、いつもならこの時間は家に居るはずだ。偶然今日は出かけているのだろうか。
窓を引いてみると、サーと摩擦音を立てながら簡単に開いた。
「あれ、やっぱり居るのかな。矛炒ちゃーん! 入るよー」
一声かけてカーテンの中をのぞく。
矛炒ちゃんは、まだベッドで寝ている。なんてことはなく、本当に部屋の中は無人のようだった。
「窓の鍵は、掛け忘れかな」
まあ、地上四階の部屋の窓の閉め忘れは、別に致命傷ではないだろうけれど。
言いつつ、勝手知ったる風に、勝手に部屋に上がる。
ベッドの上には、脱ぎ散らかされたTシャツと短パン。
おや、と思う。またしても二度見。
別に、女子の部屋に来て脱いだ服に興味を持ったとか、そう言うことではなく。単純な違和感がそこにはあった。
矛炒ちゃんの部屋はとてもよく片づけか行き届いている。いつ来ても――いつ押し掛けて来ても、服が脱ぎ散らかされているなんてことは一度もなかった。ステンレスの机の上も消しカス一つない。本棚は綺麗に作品、作者毎に並べられていて、真ん中の一段だけ、小物置き場として使われている。その段には、二枚貝のデザインの小皿が置いてあって、いつも彼女は、外出時に見つけ易いよう、そこに家の鍵を乗せてたが――その場所には、しっかりと鍵が残っている。しかも極めつけには、その隣にスマホまで……。
「なんだこれ、何か不穏な感じが」
誰もいない、窓の鍵は開いていて、脱ぎ散らかされた服、置きっぱなしの鍵とスマホ。
ともすると、異常気象なんかより、ずっと大変なことが起きているような気が。
「えぇ、まさかな、ちょっと待てよぉ」
注意深く部屋の様子を伺う。
多分、直前まで着替えをしていたのだと思う。ベッドの上の服もそうだが、襖の《ふすま》戸も開きっぱなしだ。
「服を着替えて……片づけもしないまま、家の鍵も、スマホも持たないで。ついでに戸締まりもしないまま、矛炒ちゃんが出かけるなんてことがあるか」
いや、そんなことはあるはずがない。
と心の中で反語を完成させた。
国語なんてわざわざやる必要なくね、と話し合った小学生とか中学生時代が懐かしい。今僕は「反語を使ったってことは、強調したいわけだから、ここでの『そんなことあるはずない』はもうものすごくとっても『そんなことあるはずない』って思ってるんだな」と自己分析できる。うん、国語を学んでいなかったら、「あれ、今の喋り方オシャレじゃね?」で終わっていたよ。教育。大事。
だが、教育とは別に、余計なことばかり思い出してしまう時は、自分が割と焦っている時だと、経験則で学んでいた。
急ぎ足で玄関に向かう。
少しだけまじめに考えてみよう。
矛炒ちゃんがこんな状態で家を空けるわけがない。それならば、矛炒ちゃんは、自分の意志で家を空けたわけではない。ということではなかろうか。
やっぱり今日は暑い、汗が止まらない。
「誘拐……とか……?」
玄関に着くと、そこには普段彼女がよく履いている靴が、乱雑に端っこに押しのけられたように転がっていた。
余計なことが頭の中を駆けめぐる。
静かな家の中で、カーテンを揺らす風と一緒にじりじりと鳴く虫の音が外から響き、じんわりと耳を満たした。それに呼応するように汗が噴き出す。
「ええええええええええええ――」
こんな日に雪が降るわけない。




