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「秋嶋、中畑。先に上がっていいぞ」
教師にそう言われたが、一度立ち止まってしまった足は、軽い痙攣を起こしたまま動かない。充は軽いめまいを感じながら無理に動こうとし、 体が斜めに傾いだ。
グッと力強い腕に引き寄せられる。
「大丈夫か? 掴まれよ」
身長差があまりないせいか、中畑の肩に掴まって別に歩きにくいといったことはなかった。
横を向き、張り付いた前髪ごしに彼を見ると、薄く開いた唇は、いつもより色づいて見え、触れた肩の半袖は、じっとりと湿っている。互いの白い息が、重なるほどに近くにいることに気付き、充は更衣室に着くまで、口を開くことはなかった。それは中畑も同じで、怒っているかのように眉を顰めたまま、前を見据えていた。
失恋してからこうして寄り添っているのは、なんという皮肉なのだろう。
更衣室に着いて、やっと一人でも歩けるようになり、中畑のそばを離れて長椅子に座る。
「ありがとう」
礼を言うも、沈黙が耐え切れず眼鏡を外してレンズを拭いていると、憤ったような低い声と視線が、横から突き刺さってくる。
「ありがとう、じゃねーよ」
汗を拭っていたタオルを充に投げつけ、ズカズカと近付いてきた中畑は、充の横に座り込んだ。埃っぽい空気を吸いながら、充は不謹慎にも鼓動が一つ大きく跳ねるのを感じる。
怒っているのはシカトしたからなのか。
「本気出せばできるのに、なんでやらねぇんだよ。悔しくないか? 自分よりできない奴が上にいるの」
髪ゴムを外した中畑は、砂埃のついた金髪を指で掻き乱した。
まるで見当違いの話に、バツが悪くなる。乾き始めた前髪に触れ、ぼやけた視界に映る彼を見つめた。
「俺は嫌だね。できることは精一杯やるってのが主義だから」
中畑は上の体操着だけ脱ぎ、勢いをつけて立ち上がった。
「じゃあ、なんで俺に合わせて走ったんだ? それも手を抜いてるってことだろ」
思わず反論してしまった充は、自分の顔があらわになっていることに気付いていない。中畑を見上げる際に、髪は横になびいてしまい、充の特徴的な目をはっきりと見せていた。
色素の薄い榛色した瞳は、黒髪とのコントラストで、より映えて見える。はっきりとした二重まぶたで、まつげは目元に影を落とすほど長かった。
中畑の目が一瞬だけ見開かれ、そのあと何回か瞬きを繰り返し、充の顔を眺めている。しかし、混乱したように頭を振り乱すと、急に冷静になり、制服に着替え始めた。
眼鏡をかけなおした充は、一体彼に何が起こったのか、全く理解していない。鮮明になった視界に映るのは、制服を着終わった中畑の姿だけだった。
すると、彼は思い出したかのように顔を振り向かせ、体操着を持って空いた手をポケットに突っ込んだ。
「最終的に手は抜いてないだろ? お前と一緒にすんな」
不遜な物言いだったが、目はからかいの色を滲ませていて、それほど嫌味に聞こえなかった。
更衣室の外が段々と騒がしくなって、コンクリートの壁にも響いてくる。
中畑が何かを言ったと同時に、更衣室の扉から三、四人の男子が騒ぎながら入ってきた。喧騒にまぎれて消えてしまった言葉は、充のところまで届かない。
何も反応せず、ただ投げつけられたタオルを握っている充に、中畑はニヤリと口角を上げ、
「気になったから、一緒に走った。そんだけ」
そう言い残して、男子の方へと向かった。
意味を持たない殺し文句。
哀しすぎて、笑ってしまいそうだ。