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鼓動が大きく跳ねている。
ドクンドクンと脈打つ音だけが耳に響き、自分の荒い呼吸なんて、全く聞こえなかった。
人気のなくなった校舎はやけに静かで、外はもう夜の闇に包まれていた。下校時間はとっくに過ぎ、残っているのは運動部員くらいだ。
秋嶋充は階段の手すりを掴んだまま、肩を上下させている。その顔は高潮し、息も白くなる季節だというのに、うっすらと額に汗が滲んで、前髪が張りついていた。無意識にずれた黒縁の眼鏡をあげ、息苦しさに赤いネクタイを緩める。
元はといえば、図書室の整理を押しつけられたときから始まった。充の図書当番は明日だったはずなのに、先輩からと後輩から、「真面目だから」という理由で押し切られてしまった。断わらずに引き受けたのは、誰がやるかということで無駄な話し合いをそれ以上続けたくなかったからだ。
整理が一段落したときには、外はもう真っ暗だった。
カバンを教室に置いていたことを思い出し、充は暗い廊下を歩く。明かりが廊下に漏れている自分のクラスを覗くと、見慣れた後姿が目に入った。
すぐに教室に入らなかったのは、相手が中畑真澄だったから。
中畑はクラスでも人気者で、自分とは違い人望も厚い男だ。遊んでいそうな派手な容姿はしていても、女性と付き合っているような噂は聞いたことがない。
どんなに中畑が人当たりが良くても、充は話しかけたことがなかった。相手から言葉をかけられたことはあるが、それも委員会決めのときに一言だけ。二年に進級して同じクラスになって以来、話したのはそれっきりである。
すぐに教室に入らなかったのは、中畑が携帯で誰かと話しているのが廊下に漏れ聞こえていたというのもあるが、充には別の理由があった。
「当たり前だろ」
扉の前で入るタイミングを計りかねていた充は、耳を澄ましてしまう。中畑の声を聞いた途端、扉にかけていた指が強張った。教室からガタッと机の動く音がし、反射的に足が後ろに退く。
「好きだよ」
拗ねたように言う彼の口調には、滅多に聞けないような甘さが滲んでいた。
思わず声が漏れそうになった充は、それを必死に抑え込んで唾を飲み込んだ。
頭が理解した瞬間、目の前がハレーションを起こす。足元がグラついているように感じ、平衡感覚を保っていられなくなった。
「じゃあな」と言う声が意外に近くで聞こえた途端、体がビクリと反応しその場から逃げ出した。上履きがバタバタと廊下を叩く。顎を上向かせ、喘ぐように息を吐き出していた。
階段を駆け上がり、踊り場の手前でようやく足を止める。止まらない動悸を落ち着かせようと、乾いた唇を舌で湿らせた。
「好きとか死んでも言わねぇよ。正直ダセぇ」
中畑がそんなことを話していたのを聞いたことがある。それなのに、確かに「好き」と言っていた。自分の発言を覆すほど好きな彼女がいるのか。
手すりを掴んだまま、急に足に力が入らなくなったかのように、長い足を折り曲げて、階段に腰を下ろした。
頭によぎるのは、彼が誰かに向ける屈託のない笑顔。
自分に持っていないものを持っている中畑が好きだった。充は、薄々自分の性癖に気付いていて、女性よりも男性の方に視線が向くことで確信した。つい最近のことである。
期待していたのだ。今まで女性と噂がなかったのは、自分と同じだからなのだと。
何かを堪えるように目を細め、細く長いため息をつく。細かく震える吐息は、溶けるように闇に消えた。
※※※
翌日、充は学生カバンではなく、市販のトートバックを学校に持っていった。規定外のバックを持って教室に入っても、誰一人としてからかう者はいない。
みんなもしていることだから、ではなくて、どうでもいいこと、だからだ。
教室に入っても誰も挨拶しないし、充だってしようと思ったことはない。クラスメイトは充のことを、幽霊と陰ながらに呼んでいる。そのくらい地味で目立たない存在なのだ。
うなじまでかかった少し長めの髪と、目を隠す前髪は、どうしても重たく見えるし、黒縁の眼鏡は根暗の印象を深くさせる。それでもイジメの対象にならなくてすんだのは、身長が高いせいで、多少なりとも威圧感を与えるからなのだろうか。
ざわざわと騒がしい教室に踏み出した足が止まる。
一番大きく群がっている集団の中に彼はいた。同じ制服を着た有象無象の中で、否応のない存在感を発揮している。脱色した長い金髪のせいでもあるのだろうが、中畑だけが目立っていた。サイドの髪を後ろで一つにまとめている。
彼に変わった様子はなさそうだった。
充は止めていた足を動かし、窓ぎわ一番後ろの自分の席につく。横のフックに掛かったままになっていたカバンを確かめて、やはりここにあったのだとホッとした。
机に肘をついて手のひらに顎を乗せ、考えごとをしているように見せかけて、中畑に視線を這わす。長い前髪はこのためにあるようなものだった。
充には幼い頃から、人を見つめる癖がある。気になることがあれば、それしか目に入らなくなってしまうのだ。強い視線を感じると相手が不快になってしまうことを知ってからは、前髪を伸ばして目を隠すようにした。
「おい中畑。それって雑誌に載ってた、レア物のリングじゃね?」
「おっ、よく気付いたな。バイトした金でやっと買ったんだぜ? いいだろ」
中畑は机の上に座って、自慢げにシルバーリングのはまった手をかざしている。制服は着崩していて、グレーのズボンを腰ではいている。それなのにだらしなく見えないのが不思議だ。
やはり視線を感じたからか、中畑が充の方に顔を向けた。
目が合ってしまった、そう思ったとき、彼は首を傾げながら、充に笑顔を向けたのだ。形の良い薄い唇が弧を描き、「なに?」と無言で聞いてくる。ひょうきんな彼らしい、人好きするような笑みだった。
後ろめたさいっぱいだった充は、なるべく自然を装って目をそらす。まるで何も見ていないというふうに顔を窓の外に向けた。
そして、狙い済ましたかのようにチャイムが鳴り始める。
自分の横顔に、中畑の視線が張り付いているのを感じたが、絶対に振り向かなかった。
空に一筋の飛行機雲が、ずっと奥まで続いている。それは消えることなく、どんどん厚みを増しているように見えた。
「天気は下り坂だろうな」
小さく口の中で呟いた言葉は、誰の耳にも、自分の耳にも届かない。
見上げた空に、見つめるのはさっきので最後だと言い聞かせ、苦しげに息を呑む。
けれど、充の全神経は中畑の方へ向かっていた。