瓦礫の砦(がれきのとりで)
樋口健一は泣いていた。
つい先日、ガンで妻を亡くしたのが理由ではない。その時はもう当分これだけ泣きつくすことは無いだろうと思っていたのだが、数日もしないうちにそれ以上に泣いた。2人の間に子供はいない。育児の時間よりも夫婦でいる時間を重視してたので、子供はいなかった。その事も理由の一つだった。
一番の理由は、妻の綾以外に自分を存在を正面から受け止める人がいないことに気がついたからだ。
綾とは周囲の猛反対を押し切って結婚した。反対した理由は健一の人当たりの悪さだった。付き合いもなく、愛想も悪い。いや、健一に言わせればうわべだけで中身で他人をあげつらって笑っている連中のご機嫌取りなどまっぴらごめんだった。そんなものは仕事のときだけでたくさんだとすら思っていた。
そこに現れたのが綾だった。大学の同じサークルで最初はおせっかいとも言える彼女の態度にうんざりしていたが、それが本心だとわかると急速に引かれた。重力のようだった。他人の汚さにうんざりしていた健一の心を綾は一気に引き寄せ、癒し、受け止めた。
そして周囲の反対をよそに結ばれたのだ。心も体も、そして亡くしてから魂までも結ばれたことに健一はようやく気づいていた。
だから、泣いていたのだ。
綾のように健一を受け止められる人間は健一にはいない。結婚した後も人当たりの悪さは相変わらずだったし、定年退職してからは、近所ともいっそう疎遠になった。だから、友達もいなかった。
一通り泣いて、空腹に我を取り戻した健一は、深まる秋の夜に肌寒い小雨の降る中、傘をさして近所のコンビニに向かった。今の健一には外出といえば主に食事のためにコンビニに行くのが主だった。コンビニでカツ丼を買った帰り道のことだった。
電柱の影にできた水溜りにテニスボールが置いてあった。表面の毛は筆先のように雨に濡れていた。その姿に親しいものを感じた健一は声をかけた。
「お前も一人なのかい?俺もこの前一人になっちゃったんだ。一緒に帰ろう。」
健一はテニスボールを拾い上げ、家路を急いだ。
テニスボールをタオルで丹念にぬぐったあと、健一は無造作にボールを床に置いてわびしい食事をした。サラリーマン時代に妻の希望で住宅ローンを組み、定年間近で住宅ローンを払い終えた家は、広々としていた。
(この家って、こんなに広かったっけ?)
妻が入院した頃に感じたささやかな疑問も、今では確信そのものとなっていた。当然だ。2人の為に買った家だ。一人で住むにはあまりにも広すぎてわびしすぎる。最近寝る前に電気を消して床につくと、家の中の闇が健一に一気にのしかかってくるような気がしていた。その闇が健一の全てを飲み込み、命すら吸い込もうとしている。心の片隅で闇におびえる健一の隣で肩を寄せてくれた妻はもういない。いつまでも耐えられそうに無かった。
健一は拾ってきたテニスボールを拾い上げて声をかけた。
「待ってろよ、そのうちお前にもたくさん友達を連れてくるからな。」
ボールは何も言わずに言葉を受け止めた。
それから健一は退職後と看病していた妻が亡くなってしまった事で、ありあまった時間をボールの友達集めに費やすようになった。集まってくる友達は実に個性的だった。古くなって見向きもされなくなったVHSのビデオデッキ、ブラウン管式のテレビ、洗濯機、冷蔵庫・・・。どれも古くなって見向きもされなくなった電化製品ばかりだった。不法投棄で有名な場所には自家用車で向かった。そこで拾うのは決まって山積みになった場所に置いてあった電化製品ではなく、山が崩れた拍子か何かで山から離れた位置に無造作に転がっていたガラクタを健一は拾い集めた。食事を惜しみ、生活を惜しみ、入浴を惜しみ、生活ゴミを捨てる時間を忘れて没頭した。集めてきた友達を家の中に積み上げた。そのうち家の中では足りなくなり、庭に積み上げた。庭でも足りなくなったら門の両脇へ。そのうち、ガラクタが道路にはみ出すようになった。ガラクターー彼にとってはボールの友達を集めてくるたびに彼はボールに声をかけた。
「またお前の友達を連れてきたぞ。」
満足そうな笑顔で、何かの反応を期待する笑顔で。しばらくの沈黙が、笑顔を真顔に戻すことがわかっていても、健一はそれをやめることはなく、友達集めもやめなかった。
やがて様々な人が苦情を言うようになった。お隣さん、町内会長、民生委員、市役所の職員、警察官。誰もがこう言った。
「このゴミを片付けないと不潔ですし、何より放火されると一気に燃え広がって危険ですし、悪臭でも困ってます。だから何とかしてください。」
冗談じゃない。友達を集めているのはなぜだと思う?表面ばかり張り付いた笑顔しやがって腹の中では俺を変わり者扱いしたり、疎ましがったり。笑ったりしてるんだろう?俺と同じように集団からはぐれたり離れたりしている奴らを俺は拾い集めてるんだ。それの一体何が悪い?
誰もが健一の支離滅裂な逆上混じりの反論に呆れながらも、捨て台詞のように「片付けてくださいよ」と言い残して去っていった。彼はこれらのガラクタを友達だといった。だが訪問者の誰もがこの健一の家を、頑なな心を表面化させたと表現するにふさわしい瓦礫の砦だと思った。
その彼らも、健一の本心などわかるはずなど無かった。健一ですら自覚していなかったかもしれない。
夜になると家の中を覆う闇を追い出すために、友達が必要だったと。
不愉快な訪問者と友達集めを繰り返す日々がやがて数年になったある日、健一は部屋の中でペットボトルのお茶を飲んでいた。部屋の中は天井近くまで高く積まれた友達でいっぱいになり、そのわずかな隙間をねずみが行き交いゴキブリが這いまわっていた。それでも彼は頓着していなかった。ただ、違和感は残った。最初はあのテニスボールの友達を集めるために始めた事だが、友達が集まれば集まるほどわずかな虚しさを感じ、それを振り払うためにさらに没頭する日々の繰り返し。やめてしまえば、虚しさは膨れ上がる。やめたとしても、それに代わるもので心は満たされない。だから続けるしかなかった。
健一は例のテニスボールに語りかけた。テニスボールだけはいつも健一の手の届く場所にあった。
「一体おまえはいつになったら満足してくれるんだい?」
しばらくの沈黙の後だった。地響きのような音の後、家が大きく揺れ始めた。その揺れで積み上げていた友達が崩れ始め、一気に健一の上に落ちてきた。健一が気づいたときには目の前が真っ暗になり、意識が一気に遠くなっていった。薄れていく意識の中、健一は大学時代の記憶を見ていた。
大学のキャンバスを歩いていた健一のカバンにテニスボールが当たった。すかさず飛んできた方向を見た。そこにはラケットをもったまま健一の方へ走ってくる一人の女性がいた。これが健一と彼の妻、綾との最初の出会いだった。
思い出している健一自身はどういう表情だったのかはわからなかった。自覚する前に彼は全てが闇に飲み込まれていた。
3日後、市役所の職員が健一の家を訪れた。ひときわ目立つ悪臭を不審に思い、恐る恐る家にあがり足場を何度も崩しながら進み、そこで見たものは後頭部から大量の血を流して死んでいる健一の姿だった。これほどの出血にも関わらず、健一の死に顔は懐かしさを感じさせた微笑を浮かべていた。
健一には身寄りはいなかった。兄弟はおらず、両親も既に他界し、親戚とも疎遠だった。彼の家は友達ごと取り壊され、更地になった。
健一の頑なな心の象徴だった瓦礫の砦は、こうして何も無くなった。