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第三十話 後日談

第三十話 後日談


都。


源頼光は屋敷の縁側に腰を下ろし、遠く西の空を眺めていた。


数日前まで、遥か彼方からでも感じられていた禍々しい鬼気。


それが――消えている。


空はどこまでも穏やかだった。


頼光は目を細める。


「……鬼気が晴れた。」


その口元に、僅かな笑みが浮かんだ。


「金時め。無事に勤めを果たしたようじゃな。」


その傍らには、頼光に仕える四天王の面々がいた。


一人が空を見上げる。


「では、ほどなく帰ってくるでしょう。」


「いや。」


別の一人が笑う。


「金時のことじゃ。しばらくは帰ってこんぞ。」


「ワシもそう思う。」


頼光も笑った。


「鬼退治が終わったとなれば、今頃は新しい土地を見て回っておるか、うまい物でも探しておる頃じゃろう。」


「違いない。」


「酒も飲んでおるでしょうな。」


「それも間違いない。」


皆が笑う。


頼光は再び空を見上げた。


青い空。


もう、鬼気はどこにもない。


「まあ――」


頼光は膝へ手を置いた。


「ワシが死ぬ前に帰ってくれば、それでよいがの。」


一瞬の沈黙。


そして――。


「はっはっはっはっ!」


屋敷に、男たちの笑い声が響いた。


頼光も腹を抱えて笑っていた。


金時が今どこで何をしているのか。


それを心配する者は、そこには一人もいなかった。


無事であることは、晴れ渡った空が何より雄弁に物語っていた。


     ◇


天界。


雲海の彼方を見下ろす、一人の僧の姿があった。


栴檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)――。


かつて三蔵法師と呼ばれ、三人の弟子と一頭の白馬を連れ、遥か天竺を目指した者。


その視線の先。


遥か地上には、桃華たちと共に笑う蜜秋の姿があった。


その後ろへ、二人の男が歩み寄る。


浄壇使者。


そして金身羅漢。


かつて猪八戒、沙悟浄と呼ばれた二人だった。


三蔵は振り返ることなく尋ねた。


「ご苦労様でした。」


そして、僅かに微笑む。


「どうでしたか? 久しぶりの地上は。」


猪八戒は腹をさすりながら答えた。


「俺はこっちの方がいいですな。」


三蔵が振り返る。


「なぜです?」


「腹も減らないし。」


一瞬の沈黙。


沙悟浄が吹き出した。


「はははっ。兄貴は相変わらずですね。」


「なんだよ。腹が減らないってのは大事だぞ。」


「天竺への旅でも、そればかり言っていたではありませんか。」


「だからだよ。あの旅で一生分、腹を空かせたんだ。」


二人の笑い声が、静かな天界に響いた。


三蔵も小さく笑う。


そして再び地上へ目を向けた。


そこには蜜秋がいる。


仏の位を捨て。


斉天大聖という名さえ隠し。


ただの「蜜秋」として、仲間たちと笑っている。


「悟空。」


小さく、その名を呼んだ。


地上の蜜秋に聞こえるはずはない。


それでも三蔵は語りかける。


「あなたは、自由に生きなさい。」


猪八戒と沙悟浄が三蔵を見る。


「仏の位など――」


三蔵は穏やかに微笑んだ。


「あなたには、足枷でしかないでしょう。」


沙悟浄が尋ねる。


「よろしいのですか?」


「何がです?」


「悟空兄貴が、戻ってこなくても。」


三蔵は少しだけ考えた。


そして首を横に振る。


「悟空は、戻ってこないのではありません。」


再び地上を見る。


「また、旅に出たのです。」


猪八戒が笑った。


「なるほど。」


三蔵の目には、かつての光景が映っていた。


果てしなく続く道。

馬に乗る自分。

前を行く悟空。

腹が減ったと騒ぐ八戒。

その横で呆れる悟浄。

そして白龍。


長く、苦しく――。


それでも楽しかった旅。


「悟空。」


三蔵はもう一度、その名を呼んだ。


「今度は、あなた自身の旅を。」


地上では。


何も知らない蜜秋が、ふと空を見上げた。


「……ん?」


「どうしたんじゃ?」


金時が尋ねる。


蜜秋はしばらく空を見つめ――。


やがて笑った。


「ううん。」


如意棒を肩へ担ぐ。


「なんでもない。」


     ◇


鬼無の里。


「姉上!」


雉牙の声が屋敷に響いた。


呼び止められた凰が、ぎくりと足を止める。


その肩には小さな旅包み。


「……なんじゃ。」


「なんじゃ、ではありません。」


雉牙は凰の前へ回り込んだ。


「どちらへ行かれるおつもりですか。」


「散歩じゃ。」


「その荷物を持って?」


「少し遠出するだけじゃ。」


「桃華様たちのところへ?」


「…………。」


凰は目を逸らした。


「知らぬ。」


雉牙は深いため息をつく。


「勝手にどこかへ行こうとしないでください!」


「妾は鳳凰じゃぞ。どこへ行こうと妾の勝手であろう!」


「だから困るのです!」


「何がじゃ!」


「凰様は、この鬼無の里の象徴。そして結界の要でもあるのですよ!」


凰が口を尖らせる。


「少しくらい留守にしたところで、どうということもなかろう。」


「鬼ヶ島へ行かれた時も、鑾駕様がどれほど心配なされたと――」


「分かった分かった!」


凰は面倒くさそうに手を振った。


「行かぬ! 行かぬから、その説教をやめよ!」


     ◇


しばらくして。


凰は窓辺に頬杖をつき、ぼんやりと外を眺めていた。


青い空を、鳥たちが自由に飛んでいる。


「…………。」


ぱたぱた。


手にした扇だけが、所在なさげに動いている。


「暇じゃのう。」


後ろに控えていた雉牙が答える。


「つい先日まで鬼ヶ島で戦っておられたでしょう。」


「それとこれとは別じゃ。」


「少しはお休みください。」


「…………。」


凰はまた空を眺める。


やがて、何かを思い出したように呟いた。


「……きび団子。」


「はい?」


凰は頬を膨らませた。


「妾だけ、きび団子を食べてはおらぬ。」


「そこですか?」


「大事なことじゃ。」


凰は再び大きなため息をつく。


「金時も蜜秋も、うまかったと言っておったのに……。」


そしてまた窓の外を見た。


「暇じゃのう。」


「…………。」


「きび団子、食べたいのう。」


雉牙は何も答えなかった。


     ◇


あれから、何年経っただろうか。


桃華には、もうよく分からなかった。


春が来て。


夏が過ぎ。


山々が色付き。


雪が積もる。


そんな季節を、幾度繰り返しただろう。


幾度目かの冬を迎えた頃。


おじいさんが、静かに息を引き取った。


眠るような最期だった。


村の皆で弔いを済ませたあと、金時さんは頼光様のもとへ戻っていった。


「桃華殿。」


旅立ちの日。


金時さんは、いつものように大斧を肩へ担いでいた。


「また会おう。」


「はい。」


それだけだった。


きっと、また会える。


だから別れの言葉など必要なかった。


蜜秋さんは、そのまま村に残った。


時々ふらりと山へ入っては、熊や猪を担いで帰ってくる。


最初こそ村の人たちも驚いていたけれど、いつの間にか

すっかり人気者になっていた。


「蜜秋ちゃん、また頼むよ!」


「いいよー。でも今度きび団子作ってね!」


そんな声が聞こえてくることも珍しくなくなった。


凰さんも、時々顔を見せに来た。


けれど――。


「凰様!」


決まって、きび団子を食べる前に雉牙さんがやって来る。


「また勝手に里を抜け出して!」


「待て! 今日はまだ一つも食べておらぬ!」


「帰りますよ!」


「せめて一つ! 一つだけじゃ!」


そう言いながら連れ戻されていく凰さんを、おばあさんはいつも笑って見送っていた。


「また作っておきますからね。」


「本当か!」


「凰様!」


そんな日々が続いた。


そして――。


それから何度目かの春を迎えた頃。


おばあさんも、静かに逝った。


     ◇


春風が吹いていた。


二つ並んだ墓の前。


桃華は摘んできた桃の花を、そっと供えた。


目を閉じる。


この家へ来た日のことを思い出す。


傷つき、川へと落ちた自分を助けてくれた二人。


何者かも分からない自分を家へ迎えてくれた。


名前を失っていた自分に、新しい名前をくれた。


桃太郎。


そして――。

家族になってくれた。


桃華は静かに手を合わせた。


「おじいさん。」


少しだけ間を置く。


「おばあさん。」


風が桃の花を揺らした。


「いってまいります。」


桃華は立ち上がった。

もう振り返らなかった。


     ◇


村外れの道。


桃華は一人、歩いていた。


かつて――。

何度も自分たちの前へ現れ、進むべき道を示してくれた白髭の老人。


意富加牟豆美命と出会った、あの場所。


そこに今日は、老人の姿はなかった。


代わりに――。

三人の、見知った姿があった。


一人は、大斧を肩に担いでいる。


一人は、如意棒を肩に乗せている。


そしてもう一人は、扇をぱたぱたと仰いでいた。


桃華は足を止める。


「……皆さん。」


金時が豪快に笑った。


「遅いぞ、桃華殿!」


蜜秋も手を振る。


「待ちくたびれたよ。」


凰は不機嫌そうに鼻を鳴らした。


「まったくじゃ。」


そして、ぼそり。


「妾はまだ、きび団子を食べておらぬというのに。」


桃華は一瞬きょとんとして――。


笑った。


「では、まずはきび団子を食べてからにしましょうか。」


「それでは旅立てぬではないか!」


「凰が言い出したんじゃん。」


「うるさい!」


金時の笑い声が響く。


桃華も笑った。


何年経っても、何も変わっていない。


「それで――」


桃華は三人を見る。


「どちらへ行くのですか?」


金時が答える。


「決めておらん。」


「え?」


蜜秋が笑う。


「だからいいんじゃない。」


凰も扇を閉じる。


「行ったことのない場所へ行けばよかろう。」


桃華は三人を見つめた。


かつて自分は、何も知らなかった。


天界しか知らず。


地上へ降りて初めて、人の暮らしを知った。


旅に出て初めて、世界の広さを知った。


そして――。


たくさんの人に出会った。


桃華は微笑んだ。


「そうですね。」


四人は歩き出した。


行き先など、まだ決まっていない。


どんな出会いが待っているのかも分からない。


けれど、それでいい。


桃太郎としての物語は、もう終わった。


ここから始まるのは――。


桃華の物語なのだから。

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