第1話 「完璧な誤作動」
本作は、ウクライナから日本へ移住したハーフの少女が、トラウマと向き合いながら成長する物語です。PTSD描写を含みますが、センシティブな内容には配慮しております。ご自身の判断でお読みください。
それでは、第1話をお楽しみください。
教室の窓から差し込む秋の日差しは、薄い金色だった。青山優希は三列目の窓際席に座り、ノートにびっしりと書かれた数式を眺めていた。どれも完璧だ。数字は揃い、文字の大きさも統一されている。彼女はそのノートをそっと閉じ、顔を上げた。
「――青山さん、また満点ですか?」
隣の席の男子が羨望とやや皮肉を込めて尋ねる。優希は銀縁の眼鏡を指先で押し上げ、にっこりと微笑んだ。
「ええ。だって、間違えたら終わりですから。」
その口調は軽い。しかし彼女の目は少しだけ据わっていた。彼女はいつもそうだ。笑顔とジョークで周囲を煙に巻く。自分の弱さを見せないために。
授業が終わり、昼休みになった。優希はいつも通り一人で隅っこの席に座り、母が作った弁当箱を開けながら、無意識に指で机の上をトントンと叩く。落ち着かない。何かが足りない。彼女はカバンから小さなルービックキューブを取り出し、片手で回し始めた。カチカチと小さな音が鳴る。
「それ、うるさいよ。」
同じクラスの男子が通りがかりに言った。優希は笑顔を絶やさず、口を開く。
「ごめんなさい。じゃあ代わりに、君の好きな古文の一節を暗唱しようか? 『春はあけぼの……』――あ、そのあと間違えたよね、昨日の授業で。」
男子は顔を真っ赤にして去っていった。優希はため息をつき、再びルービックキューブを回す。その時、遠くから救急車のサイレンが聞こえてきた。
――世界が止まった。
優希の手が震え、ルービックキューブが床に落ちた。視界の端が暗くなり、周囲の人間がまるで人影のようにぼやける。頭の中で轟音が響く。あの日の駅――母の手を離さないように必死に走ったこと、地面に落ちていた泥まみれの人形。耳鳴りがする。息が詰まる。
「――優希?」
誰かの声。優希はハッとして顔を上げた。目の前に、クラス委員長の田中蓮が立っていた。彼は優希の手元に落ちたキューブを拾い上げ、無言で彼女の前に差し出す。その瞳は穏やかで、どこか心配そうだった。
「大丈夫か?」
優希はすぐに笑顔を作った。
「もちろん。サイレンって、なんか緊張するよね。だから私はエネルギー飲料で乗り切ってるの。」
彼女はバッグから缶を取り出し、プルトップを開ける。蓮はそれを一瞥し、自分の持っている水筒を差し出した。
「それより、これを飲め。緑茶だ。蜂蜜入り。」
「……いらない。」
「飲め。お前、今日すでに三本目だろ、それ。」
優希は言葉を失った。彼はそんな細かいところまで見ているのか。仕方なく彼女は緑茶を受け取り、一口含む。温かくて甘い。少しだけ、心臓の音が落ち着いた。
「……ありがと。」
彼女は小さく呟いた。蓮は何も答えず、ただ隣に座った。
――それが、彼女の日常の始まりだった。
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その日の午後、優希の異変は表面化した。原因は、何でもない教室のざわめきと、誰かが落とした教科書の音。パンッという乾いた音が、彼女の中で何かのスイッチを押した。
優希はゆっくりと立ち上がり、教壇の前まで歩いていった。教師が何か言おうとしたが、彼女は無視してその場に座り込んだ。体育座りをして、両腕で膝を抱える。そして、まるで機械のように話し始めた。
「F=ma……力は質量と加速度の積……物体は等速度運動をする……そのときの位置エネルギーは……」
日本語とウクライナ語が混ざり合い、意味不明な単語が次々と溢れ出る。彼女の目は虚ろで、微笑みだけが貼り付けられていた。周囲の生徒たちは凍りつく。誰かが笑い、誰かが叫んだ。
「やめろ、おかしいぞ!」
蓮が立ち上がり、優希の腕を掴んだ。しかし彼女は抵抗せず、むしろ彼の手を振りほどこうともしなかった。彼女はただ、震えながら言葉を続ける。
「……я маю вижити……」
蓮は彼女を抱きかかえ、そのまま保健室へと連れて行った。彼女の体は異常なほど熱く、かすかに震えていた。
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保健室のベッドの上で、優希はようやく落ち着いた。彼女の隣には蓮が座り、手を握っていた。彼女が目を開けると、すぐに自分の置かれた状況を理解した。
「……最悪だ。またやっちゃった。」
彼女は自嘲気味に笑った。蓮はその手をぎゅっと握りしめた。
「いいや、最悪じゃない。お前はただ、疲れてただけだ。」
「優等生が授業中に発狂するなんて、笑い話になるよ。」
「誰が笑う? 笑った奴は俺が黙らせる。」
蓮の声は静かだが、力強かった。優希は彼の目を見つめた。そこには憐れみはなく、ただ確かな決意があった。
「……なんで、そこまでするの? 私は壊れてるんだよ。まともじゃない。」
「壊れてなんかない。完璧を求めすぎて、自分を追い詰めただけだ。優希、お前は生きてる。それで十分だ。」
優希は初めて、その言葉が本当に心に響いた気がした。彼女は目をそらし、窓の外を見た。校庭の桜の木はもう葉を落としていた。でも、来年の春にはまた花が咲く。
「……来年、一緒に花見に行こう。」
彼女は小さく言った。
「ああ、約束だ。」
蓮はそう答えて、手を離さなかった。
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数日後、優希は教室に戻った。周囲は少し距離を置いていたが、彼女は気にしなかった。彼女は自分の席に座り、教科書を開いた。すると、机の上に折り紙の鶴が置いてあった。彼女が破ったページで作られたものだ。蓮が差し出したのだろう。
彼女はその鶴を手に取り、そっと窓の外に放った。風に乗って飛んでいく。完全な飛翔ではなかった。少し傾いて、ふらつきながらも、それでも前に進んだ。
「……間違ってもいい。それが、私の二度目の春だ。」
彼女はそう呟き、ペンを握った。今日もまた、試験勉強を始める。でも、もう少しだけ、力を抜いて。
【キャラクター紹介】
主人公・青山優希は、ウクライナ出身の母と日本人の父を持つ15歳の少女です。
「完璧な優等生」の仮面を被っていますが、その裏には深い傷を隠しています。
彼女のトレードマークは銀縁の眼鏡、ルービックキューブ、そして無意識に出る黒いユーモア。
彼女がなぜ「完璧でいなければならない」のか、物語の中で徐々に明かされます。




