第8話「沈黙」
今回、人を選ぶ内容になります。
読む人の経験によっては、強い不快や動揺を伴う可能性があります。
今回の話には、
この物語のエンディング時点のみならず
その先まで
救いが用意されていない個所があります。
断片を文面のまま受け止めても良し。
断片を見比べて推理して補うもよし。
もし、あなたの推理が確かなら、
より深い何かが待ち構えています。
気づいたあなたがその人をどう扱うのか――
いつも見る悪夢。
あれはまだ、母さんが家に居た頃の話だ。
僕はまだ小さくて、働き口などない、そんな頃の話。
下の妹はもっと小さくて、小さい俺よりももっと小さくて、だから、少しだけ大きい上の妹によく引っ付いていた。
父さんは、今でもだけど、働きに出ると中々戻ってこなかった。
あの頃は元気だったから3月ずっといないなんてざらだった。
母さんは、働きに出ると夜遅くまで帰ってこなかった。
僕たち子供の昼ご飯、晩御飯は、俺が母さんからもらって取り分けてたんだ。
僕はお兄さんだからコッペパン一つ。
妹たちはまだ小さいから、二人で一つ。
ズルしてたわけじゃない。
特に下の妹は一つなんて食いきれない。
食べさせようものなら、いつもよりでっかいウンチの世話を僕がする羽目になるんだ。
上の妹は…
毎日だったわけじゃない。
それは、言い訳させてくれ。
あの日、夕方過ぎ、何であんなに腹が減ってたんだろう。
もう思い出せない。
僕は、妹に渡したパンを、取り上げて、独り占めした。
殴ってきたのはどっちの妹だったか。
大声で泣いていたのはどっちだったか。
もう思い出せない。
そして、悪夢はいつも同じ場面に切り替わる。
母さんに殴られる。
すぐ横に上の妹が寝ている。下の妹はいない。
家の中じゃない。
だって、壁は白くてきれいで。
妹が寝ているベッドも白くてきれいで。
顔に白くてきれい布が、でも、これは僕の妹だ、間違えないよ。間違えられない。
だって、僕がパンを取ったせいで、×××のだから。
「…っ!」
■はここでいつも目が覚める。
神様がいるなら、慈悲なのか。それとも、罰なのか。
でも、過ぎ去った罪は、取り返すことはできないと、■が泣いて悔やんだところで、上の妹がそこのドアを開けて入ってくることはない。
あの時、■は腹を満たせて満足したのか。
あの時、上の妹は×××のだ。
「だって、腹減ってたんだから、しょうがないじゃんか」
死にたくなっている■から、俺に切り替えてくれる魔法の言葉。
…夢で見たこと、特に悪夢は、印象だけを残して記憶から消えていくことがある。
大地は頬につたう涙を拭った。
「あれ? 俺、何で泣いてんだ?」
大地が今朝、父の一張羅を引っ張り出したのが良くなかったのか。
「お兄ちゃん、今日はどこに行くの?」
希倫が大地のネクタイの結び目を引っ掴んだ。
妹よ、知らないなら教えておくが、そこを強く絞ると人間は呼吸できない。
希倫は容赦がなかった。
大地の喉からカエルの鳴き声ような音が漏れた。
咄嗟に希倫を振り払う大地。
「希倫、裁判ですら被告に弁明の機会があるぞ」
仁王立ちの希倫を見上げる大地。
俺の方が兄のはずなんだがな。
何でこいつに勝てないんだ。
「正座」
何で?
親父の一張羅を着たら有罪なのか?
希倫はすぐ前の床を指さした。
「せ・い・ざ」
はい。
何で俺は、こんな朝っぱらから、スーツ姿で、居間で正座させられてるんだ?
「……昨夜、遅かったよね。車のドアの音、聴こえてた」
白石マネに家まで送ってもらったからね。
「女の人の声も聴こえてた」
そりゃ、送ってもらっておいて、無言で別れるとかないでしょ。
「白石マネって誰?」
……説明したことなかった?
赤銅騎士団に入団した時の話のイの一番に出てきた人だよ。
希倫の眉がきりりと吊り上がった。
希倫、お前さ、せっかく愛嬌のある顔に産んでもらえたんだから、そんな般若みたいな……蹴るなっ。
「今朝からどこへ行くのよ。その白石マネって人のとこ?」
あながち間違っちゃいない。
スポンサー探しに南へ北へ東へ西……蹴るんじゃないって。
「さすがに目に余る。今日は家にずっといて」
お前、今日学校だろ。ずる休みして見張る気?
「赤銅騎士団とか、騙されてるのもう見てられないよ」
騙されてる、かなあ。
泰平社より明度はずっとずっと高いですよ。
赤錆だから、色としては彩度は低めだけど。
希倫は再度大地のネクタイの根元を掴んだ。
待て、まだ弁明が残ってる。
希倫、お前が騎士団の何をどう怪しんでいるかがわからん。
だから、同じずる休みするなら、一緒に事務所に来い。
「うら若き妹を怪しげな組織に売り渡す気か」
待て、待て、健ちゃん。健ちゃんに電話するから。
「健ちゃん? ……ガキ大将の? いつの話だ」
同僚だよ? 話したよね?
車通勤のはずだし、迎えに来てもらおう。
健ちゃんなら、覚えてるだろ?
家族が3人になったときに、ずいぶんお世話になっただろ?
希倫は大地から目線を外して髪をいじり始めた。
ずいぶん、延びたな。
「健ちゃんが迎えに来るなら、事務所に行く」
よし、話は決まりだ。
「言われたから学校を休むんじゃない。私が確かめるために休むんだ」
ズルにならないように、お兄ちゃんから職場見学って伝えとく……蹴るなっ
ひさしぶりだねーと開口一番で希倫の毒気を抜いてしまう竹島の爽やかさと強引さ。
さすがに俺の時みたいに熱いハグはしないのね。
竹島がさあさあと助手席を空けたので希倫はゆっくりと乗り込んだ。
大地が後部座席に乗り込むとドアを閉めるより早く車が発車した。
何で普段の整備の時みたいに慎重に運転しないのかね、健ちゃんは。
大地たちを乗せた竹島の車は、誰をひっかけることもなく無事に赤銅騎士団事務所にたどり着いた。
竹島は車を駐車場に止めてくるから先に行けと大地たちに言うと車を急発進させた。
まあ、あれが健ちゃんの根っこなんだろうな。
習い性となる、とはよく言ったものだ。
健ちゃんに整備技術を仕込んだ師匠がよほど厳しかったんだろう。
「到着したようね。そろそろ……」
車の急発進音が聞こえたのか、白石が事務所から出てきた。
クリーム色のブラウスに濃い紺色のベストと合わせて同色の事務スカート。
地味めな紺色がむしろ中身を引き立てていて、これはこれでグッドジョブです、白石さん。
兄が親指を立てたのを見て、希倫は目の前の女性が白石だと察したようだ。
「あのっ、沖大地の妹の、沖希倫と申します」
続けて読むとオニギリンみたいなおちゃらけた響きで嫌だなと、自己紹介でいつも感じる希倫。
この後にこの白石マネと思しき女性に詰めようとしているのだからなおさらだ。
「あ、兄の仕事がどんなものか知りたくて、ここに来ました」
本当は、騎士団を眉唾を思っている希倫としては、兄を変なことに巻き込むな、と言いたかった。
希倫は15歳である。
アウェイと言って差支えない見知らぬ場所で
初めて会う大分年上に見える大人相手に
精一杯の虚勢を張った。
白石から見て、希倫がどう見えていたのか。
保護者付きしかも妹。
白石は一瞬あっけに取られた。
だが、希倫はまず横において、約束まであまり時間もないので営業先の社長について再確認を始めた。
面会するのは社長。
公では現場重視、私生活は家族思いの70代男性。
そこで、目の前の希倫に意識が戻った。
沖希倫ちゃん。
大地くんの妹。
学生服。
今の仏頂面はマイナス。
でも、このたぬき顔は笑えば愛嬌は良さそう。
現地では、大地くんを真ん中に。
私と、この娘が両脇を固めて……
白石の脳裏ですべてが一瞬で組み合わさる。
私と大地くんだけより、破壊力がある。
うん、これだ。
「……使える。希倫、さん? お望み通り、うちの仕事ぶりをじかに見せてあげる」
白石は希倫に手を差し出した。
「一緒に来て」
話が通る率を少しでもかさ上げするべく、大地を飾る両脇の花として希倫も営業先に連れていくことを白石は即決した。
『黒崎運輸』
デカい門にデカい看板が掛かっていた。
白石さんはわざわざ普段と違う色でコーディネイトしていた。
濃い紺色。
黒崎。
引っかかりますねえ。
ルームミラーに映る白石さんを見る。
運転中だから視線が合わないのかな。
じきに黒崎運輸の駐車場に到着した。
いつからこちらに気づいていたのかというぐらい、早いタイミングで迎えが現れた。
「ようこそ、黒崎運輸へ。赤銅騎士団の方々」
小太りで背の高い双発の男。これで紺色の外套があれば……よく見たらこいつ黒崎健吾本人じゃん。
こういう話し方もできるんじゃん。
あの外套を着てないとまるで別人だな。
黒崎健吾はまず助手席を空けて希倫をエスコートした。
続いて運転席に回り、ドアを開けて白石をエスコートした。
「こちらへ、どうぞ」
大地は無視された。
「ま、待って」
慌てて車外に飛び出す大地。
案内された応接室はまだ無人だった。
「社長にあなた方の到着を伝えてまいります。その間、どうぞごゆるりと」
黒崎健吾が退出すると、大地は白石ににじり寄った。
「……あいつの実家じゃないんですか、ここ……」
出来る限り声を小さくする大地。
「……瑞穂で黒崎運輸を知らないとか、思わないじゃない……」
瑞穂の経済を支えるのはレアメタルハンターが採掘・採取する希少金属などの輸出である。
大地たちの父の、かつての職業でもある。
レアメタルハンターの仕事は危険を伴い、一攫千金の夢もある。
そこに集う者は一様に気が荒い。
社会に必要ではあるが、住民からは敬遠される。
ハンター、山師、そして、山猿。
そう呼ばれることも往々にしてある。
そして、レアメタルハンター双璧をなすのが希少金属の輸送・輸出にかかわる運送業である。
これらの職にかかわる者もまた気が荒く、住民からは敬遠される傾向にあった。
そして、敬遠される同士でうまくやっているかといえば、そうでもない。
業務が地続きであり、関係が親密である一方で、最も衝突する同士でもある。
黒崎健吾が侮蔑の意味はないにせよ、悪態をつくときに出るのが「山猿」であることでも察しはつくことだろう。
「……大丈夫なの?……」
「……静かに、足音が聞こえるわ……」
豪華なソファがあるが、大地たちは来客であってお客様ではない。
白石が直立不動であるので、大地はさすがに倣っている。
普段ならば構わず座っていただろうが、今日は夢見が悪かったのか、はたまた昨日の失態を晒したのが堪えたのか。
希倫は希倫で、まだまだ社会の作法が足りていない自覚がある。
とりあえず希倫も白石の様子を見て、なぞっているところである。
仰々しい扉が開くと、作業服姿の背の低い老人とスーツ姿の黒崎健吾が並んで現れた。
「ああ、先に挨拶から始めようか。そこから、堅苦しいのは、抜きにしよう」
白石、大地、希倫の順で名乗った。
希倫の時だけ、二人の黒崎はおやという反応をした。
老人は黒崎壮健と名乗った。
続いて黒崎健吾が名乗って、ソファを手で示した。
これで座らないのはむしろ無作法になってしまう。
「さて、手早く行くとしようか。お迎えも近いんでな」
天井からプロジェクターシートがゆっくり降りてくる。
一体型の薄型プロジェクター内蔵の高級品である。
「統一規格であれば問題なく映し出されます。こちらになります」
どうやら持参したプロジェクターは不要なようだ。
白石はサーバー上のPR動画にリンクするアドレスを携帯端末に表示させた。
健吾の携帯端末がそのアドレスを読み込むと、ラグもなくスムーズにPR動画が始まった。
「今から始まりますのが、私ども赤銅騎士団のPRになります。ご覧ください」
――
「以上になります。決して安くはありませんが、きっと……」
健吾が白石を手で制した。
大地が顔を伏せた。
「こちらの結論は決めていた。PR動画を最後まで付き合ったのは、まあ社会的手順だな」
健吾が立ち上がった。
「黒崎運輸がスポンサードしている『噴砕坊』を真っ先に出すとは、いい度胸だ。……褒めているんだぞ?」
白石が少し苦笑いをしている。
本当に失念していたようだ。
大地はつい含み笑いをしてしまった。
完璧に見える白石もミスはする。
あんなに入れ込んで、確立を少しでも上げるとか息まいていてこれだ。
ここは諦めるか。
大地が腰を浮かせたその時。
「誰かのせいで連勝が4で途切れた。昇格が先になったからな。しばらく貸す」
実は裏で健吾が祖父の壮健に、先見の明があると言われたくはないかと自分が力を高く買っている大地と所属する赤銅騎士団を売り込んでいたのだ。
「少しの間だよ。健吾が昇格してくるからね。勝ち進んで、スポンサーを一杯呼ぶんだ。わかったね」
中腰で凍り付く大地。
念願がかなったにも拘らず、顔が引きつった白石。
何やら思うところがあるのか、もの言いたげな希倫。
「健吾は社会的手順といったが、PR動画に気になるところはあった。できれば、無編集版か近いもので確かめたい」
「す、少しお待ちください。騎士運から拝借したものが残っているはず……こちらです」
白石は改めて素材動画のリンクを端末に映し出した。
「ほう、ほう。実に理にかなっておる。これを咄嗟に?
うんうん。健吾のときのはあるかな?
ああ、それそれ。みっともないのう、まんまと転がされおって。
騎士道にかぶれるから、こんな初歩的な罠にもかかるのじゃ。
これでサードに行く気だったとは笑い話じゃ」
「あ、あの、お孫さんはサードリーグ中堅くらいの実力があるとの評判ですので……」
白石がフォローに入るが壮健は意に介さない。
「実力な。実力とは、果たして何を指すのかな?」
白石は固まってしまう。
「ま、いきなりじゃったな。いずれの宿題でええわい」
壮健の指す実力とは、個人能力、環境適合、経験蓄積を指す。
現象を観察しただけで実力があるなしの判断、つまり、普遍化した評価は意味をなさないという考え方である。
「赤銅騎士団、そこの、白石マネージャーかね。君も悪くない。仕事が、だよ。いまさら外見に興味はない」
「だが、私が欲しくなったのは大地くん、君だ」
壮健は立ち上がって大地の手を取った。
「現場即応。度胸もある。足りないものを埋める頭もある。しかも、まだまだ成長している」
壮健は健吾の方を振り返った。
「健吾、自力で探せるな? というより、その覚悟と地力はもうあるな?」
事業面での切り離しを察した健吾が苦笑いした。
祖父が、いや社長が大地を気に入りそうだという予感はあった。
孫である自分を放り出すほどに。
だが、健吾はこれでも一度は騎士道に生きると決めた男。
黙って引き下がりはしない。
「当たり前だ。ずっとスポンサードしとけば良かったって、きっと言わせる」
そのとき、誰にも聞こえないように希倫が呟いた。
「……それ、黒崎の舎弟になったってことじゃ……」
私には兄の他に2つ上の姉がいた。
年の離れた兄は背が高くて少し怖くて、姉にばかり引っ付いていた気がする。
父はいつも家にいなかった。というよりいないと思ってた。
今も父の顔はおぼろげだ。
母の顔にいたっては、なおさらだ。
家族写真すら風景と化して見なくなった。
それこそ手にするのは年末の掃除の時くらい。
とうにいなくなったひとたち。
大人になった今では、その訳を知っているけど。
家族の写真を持とうとはしない変わり種の兄を笑えない。
姉の話だ。
いつの間にか、いなくなっていた。
兄に、母に、泣きついた気がする。
姉はどこだ、隠れんぼヤダと叫んだことを妙に覚えている。
兄にパンを取られたことと同じくらい、鮮明に。
想い出し過ぎて、そのことを想い出しているときの記憶の方が鮮やかだ。
脚色があるかもしれない。
でも、姉と、2つに分けたパン。
覚えている。
いつもは兄が2つに分けてくれて、渡してくれたのだ。
ただ、いつのことだったか――
兄は姉を殴った。
パンのことだったような気がする。
それから、姉と一緒になって兄を殴ったのだと思う。
団子になった兄と姉に突っ込んで行って跳ね飛ばされたのは、その時の背中の痛みとともに、はっきりと覚えている。
私は何かの理不尽に怒ったわけではなかったと思う。
まだお腹を空かせた姉が、自分より強い兄ではなく、自分より明らかに弱い、まだパンを持った私を獲物として見る前に、仲間であると姉に見せるために、突進したのだと思う。
当然のように小さかった私たちでは兄には勝てず、姉の分までパンは食べきられた。
私はとっさに、自分のパンを2つに割いた。小さな子供の手でやったことだ。等分にはならなかったのだと思う。
とっさに少し大きい方を、大きく見える方のパンを、姉に差し出した。
大きく見える方を残せば、姉に取られると思ってしまったから。
大好きな姉に、パンを奪われる未来を、目にしたくなかったから。
姉はいつの間にかいなくなった。
私は、未来永劫、大好きな姉にパンを奪われることはなくなった。
どこかの
いつかの
だれかの
ははだったひと――
子供たちを愛していたのか、ですって?
「ええ、愛していたわ」
今でも子供たちを愛しているのかですって?
そうね、あの頃の自分があの頃のあの子たちを愛していたことを思い出せるわ。
あら、ご不満な様子ね。
本当のところはどうなのかって?
「ええ、今でも愛しているわ」
では、なぜ捨てたの?
はい、はい。それが聞きたかったのですね。
まん中の子が流行病に罹ったときに、医者にもかかれない、薬も買えない、いまわの際の食べたい果物も買ってやれない。
そんな家庭にいる自分をリセットしたかったの。
幸い、今の旦那が見つかったから、リセットしたの。
だから、あの子たちを愛していたことは覚えている、でも今、愛して―――




