第9話 幼馴染がいない日。 ひなたSIDE
「じゃあね」
その一言が、ドアの向こうで消えていく音を聞いた瞬間、胸の奥がぐっと痛んだ。私の家の玄関の外に出ていったゆきの足音が、階段を下りて、遠ざかって、やがて何も聞こえなくなる。
――今日一日、ゆきには会えない。
それだけのことなのに、世界の色が暗くなる。
「はぁ……」
ため息がこぼれた。いつものように台所の時計を見上げる。針はまだ八時を少し過ぎたところ。外は晴れているのに、なんか暗く見えた。
ゆきが帰ってから、家の中が急に静かになった。昨日までのゆきの温かいぬくもり―並んで寝た布団のにおい、髪を乾かしてあげたときの体温、全部がまだ残ってる。でも、触れられない。触れたら、その温かさがなくなってしまいそうで。
テーブルの上には、ゆきと二人で使ったマグカップが置きっぱなしになっていた。ゆきが飲んだ紅茶のカップ。少しだけ唇の跡が残っている。それをそっと指でなぞってみる。
「……ゆき」
名前を呼んだだけで、胸の奥がじんわり熱くなる。昨日の夜、あんなに近くにいたのに。今は、もういない。たったそれだけで、何も手につかなくなる。
ダメダメ。私らしくないや。今日はゆきのことを考えないで過ごさないと、だめ。
洗濯機を回して、ゆきが使ったタオルを中に入れる。それだけのことなのに、涙が出そうになった。タオルには、ゆきのシャンプーの香りがまだ残ってる。洗濯機に、ゆきのタオルが洗われていくのを見ると、辛かった。
消えていくみたいで。
やっぱり、私はタオルを取り出して、洗濯機を止めた。乾かしたくなかった。この匂いが、なくなってしまうのが怖かった。なんで、私、ゆきのタオル、洗っちゃったんだろ。
お昼になっても、何も食べる気になれなかった。冷蔵庫の中を見ても、目に入るのは昨日ゆきと一緒に食べたクッキーの残り。半分のこしておいて、食べようって思ってたから、まだ残ってる。全部、あの時に食べとけばよかった。
そのクッキーをひとつ手に取って、口に入れる。甘いのに、全然味がしない。体が重くなって、息をするのも少し苦しくなる。
「……ゆき、今なにしてるのかな」
どうせ、あの優しいゆきのお母さんと笑ってるんだ。オムライスとか食べて、「おいしい〜」って言ってるんだ。そう思うと、胸がざらざらした。それを羨ましいって思う自分が、嫌だった。ゆきは、私が隣にいなきゃいけないのに。
私じゃない誰かと笑ってる。それだけで、心がざわめく。
ゆきの日常の中に、私はどのくらいいるんだろう。もしかしたら、ほんの少しだけかもしれない。ないかもしれない。でも、私の日常の中は、全部がゆきで埋まってる。
朝、目を覚ましたとき。寝る前のほんの数分。学校の帰り道、電車の音を聞くたびに思い出すのゆきのこと。
全部、ゆきに繋がってる。
♢♢♢
午後。
勉強しようと思って机に向かっても、ノートの上に文字が書けなかった。
ペンを握る手が震える。代わりに、机の引き出しから一冊のノートを取り出す。
それは、ゆきの写真や、もらったメモ、プリントの切れ端を貼りつけたノート。表紙の角は擦れて、手触りがやわらかくなっていた。
「ねぇ、ゆき。私、ちゃんとゆきの特別でいられてる? ゆきは、私のこと考えててくれてる?」
問いかけても、返事なんて返ってこない。でも、私はどこかにゆきのぬくもりを探してしまう。
もしも、ゆきが誰かと仲良くして、私のことなんて忘れてしまったら――。もしも、あの優しい声で、別の誰かを呼ぶようになったら――。
想像しただけで、喉が痛くなった。息が詰まる。そんなの、耐えられない。
外が少し暗くなってきて。ゆきの家の方向を見ながら、スマホを握った。何度も開いて、何度も閉じて。今日は、本当に、時間が経つのが早い。
「連絡、したいな……」
でも、我慢した。今日は、お母さんと過ごす日だから。邪魔したくない。そう思っても、やっぱり手が震えて、画面のゆきの名前から目が離せない。
送信ボタンの上に指を置いて、消して、また打って、また消す。
“今、なにしてるの?”
たったそれだけの言葉なのに、送るのが怖かった。
♢♢♢
夜。
窓の外を見ながら、毛布の中でスマホを抱きしめた。
目を閉じても、頭の中に浮かぶのはゆきの笑顔ばかり。ゆきの声、ゆきの手、ゆきの匂い。ゆき、どこにもいかないで……。
「ゆき、私ね……」
声に出すと、涙が出た。
「ゆきがいないと、何していいかわかんなくなるの」
スマホを胸に抱いて、息をはく。
ゆきがいないことが怖いんじゃなくて、ゆきが私以外の他の誰かといることの方が、ずっと怖い。
だって、ゆきは私のすべてだから。ゆきのいない場所に、私の居場所なんてない。
だから――また、私のこの部屋に戻ってきてくれたらいい。また隣で笑ってくれたらいい。もう、それだけでいい。
「おやすみ、ゆき」
小さくつぶやいて、目を閉じた。ゆきの名前を心の中で呼びながら。




