0006:とあるエピローグ
菅原に付き添われてビルの階段を降りていく。ペースを落とすと、すぐさま武骨な金属の筒で背中を小突かれる。方向は逆なのに、まるで処刑台にでも向かっているような心境だ。
突き当たりの壁に書かれた数字は5から減っていき、とうとう1になった。下階は無く、タイムオーバー。山下さん達の手を借りないで、なんとかして自身で解決できないだろうかと考えていたが、何も方法は思いつかなかった。特別な力があれば世界を変えられると思っていたが、魔術を手にしても結局自分の問題ですら対処できないでいる。
軋み、へし曲がっていく不安を煽る音が轟いた。廊下の壁一面に並んだ窓枠全てが震えている。階段を降りてくる途中に爆音や破壊音を聞いていなければ、地震が起きているのではないかと勘違いしていたと思う。それにしても今の音は特別大きかった。
「代表が暴れているみたいだし、これは決着がついたかもな。――ほれ、発信機とやらを出せ」
菅原が私の背中を小突いてきた。足を止めて振り返ると、銃口が胸に向けられていた。とりあえず何も入っていない胸ポケットに手を入れ、考える時間を稼いだ。
彼は発信機がどこついているのか知らない。ここはとぼけて携帯か何かを差し出した方がいいのだろうか。ポケットに手を入れると、指先に財布の人工皮の触感があった。
赤いライオンや人間鳥と遭遇したときの、やり切れない思いが蘇る。魔術を手にした私は、奴らに一方的になぶられていたあの頃とは違う。それなのに、まだ助けてもらうことを前提に行動しているなんて悔し過ぎる。「かなり強力な魔術」と言われた山下さんの評価を思い出し、少しだけ自信がわいた。ポケットから抜いた財布を開いて、カードを取り出した。
「それか? よし、こっちに――」
菅原がこちらに手を伸ばしてきた。もう一方の手に握られた銃には、しっかり引き金に指がかかっている。
手渡す瞬間、カードをひっくり返して表に向けた。小さな魔法陣が目に焼きつく。
消滅だか回帰だか知らないが、光の縁をもった小さな鏡が銃のスライドと垂直に交わって現れた。鏡は一瞬で霧散し、切り離された銃身が落ちた。
菅原が憎しみのこもった声で汚い言葉を漏らす。もう引き返すことはできない。私はもう一度鏡を生み出そうと、魔法陣に視線を戻した。
視界の上端を黒い影が走った。天井すれすれまで飛び上がったのは、スライドの短くなった銃だった。今まで自分のことを脅かしていた凶器に目を奪われる。
次の瞬間、今度は横から影が襲い掛かってきた。力の抜けていた脇腹に、革靴のつま先が食い込む。銃を囮にして菅原が放ったのは、腰のねじりを開放して打ち出した回し蹴り。
「かはっ?!」
蹴られた場所を手で押さえて屈みこんだ。絶えず込み上げてくる酸っぱい液体を口から垂れ流す。あまりの痛みに呼吸を忘れ、何度もむせた。
「君は僕が手を出さないとでも思っているようだけれど、それは違う。プレーローマ? 完全な存在? そんなのどうでもいいんだよ。奴らには過程が一致しているから、付き合ってやっているだけさ」
顔を上げた私の目に、魔導書を開いて不敵に笑っている菅原の姿が映った。
「人が滅び行くのは、知恵や知識のせいではない。押し付けがましく積み重ねられてきた理念や道徳のせいだ。だから僕がこの魔術を使って、人間共を自然のルールに落とし込んでやる! ――汝強大な力をもつ皇子、土星の星の名を冠する者よ」
詠唱が始まった。あの自己陶酔した大声は中華料理店の一件を思い出させる。魔術の詠唱が完了したら、店にいた人達のように私も狂ってしまうのだろうか。
このまま黙って、宣告を聞き続けるつもりはない。長たらしく喋ってくれていたお陰で、だいぶ脇腹の痛みは引いていた。腹に何も入れていなくて助かった。足に力を込め腰を浮かす。
「――心が満ちる日が来たらんことを」
私が行動を起こそうとする前に、菅原が詠唱が完了する前に、廊下の先から男の声が聞こえてきた。それと同時に菅原の声が止まる。彼は手の甲で執拗に目を擦っていた。
「ちっ、クレヨンで塗りつぶしたみたいに見えやがる。……視覚情報の改変、それがお前の魔術か、阿部警備のサポーター!」
菅原が勢いよく振り返った先にいたのは、青木さんだった。
「はい。傍受と改変です」
いつものおっとりした様子で答え、こちらに向かってきた。阿部警備の灰色の作業着を身に纏っている。手の甲に魔法陣の描かれた白い手袋をはめているが、武器は何も持っていなかった。
「見てましたよ。できれば僕らのことを信じて待っていてほしかったですが、僕個人の意見だとナイスガッツだったと思います」
横を通り過ぎる際に青木さんが声をかけてくれた。少し気持ちが楽になった気がした。
菅原が両拳を胸の前に上げ右足を引き、半身に構える。青木さんも歩きながら拳を構え、間合いに入るや否や攻撃に移った。
私は今この時まで、サポーター同士が対峙したら地味な戦いになるだろうと思っていた。ちまちまと相手の精神を削り合う戦いになると。しかし、よくよく考えてみればすぐに分かることだ。魔術での決まり手に欠ける以上、彼らの戦いが一番汗臭く、血生臭い。
青木さんの放った上段突きを、菅原は重心をそのままに上体をずらして避ける。続く連打も体を反らして避け、その反動を利用して、前蹴りから順突きに繋げた素早い連撃で反撃を行った。
上腕で蹴りを受けるが、拳を防ぎきれず顎に受ける青木さん。足元がよろついたものの、すぐに構えなおした。
視覚が狭まっているらしいのに、菅原は全く後れを取っていない。それどころか青木さんの方が不利に見えた。
「いや、驚きました。視界の八割は見えなくなっているはずなんですが……」
「これだけ欠如していたら、近接戦においては見えないと同義だ」
菅原は喋りながら、拳を返し手を開いて、来いというジェスチャーをしていた。青木さんが応じて、再び間合いを詰めて上段に拳打を放つ。
「しかし、この身に染み付いた拳法の技術と経験があれば、音と風圧の情報だけでも十分に反応できる」
菅原が言葉を続ける。青木さんの拳を順手で払い、腕のしなりを利用してそのまま突きを繰り出した。拳が頬を擦る。
青木さんが苦々しい顔をして、上段の守りを固めた。
「――小賢しい魔術師め、くたばれ」
とどめの台詞を吐きながら、菅原が腰の捻りを開放する。ガードを潜り抜けた、鳩尾を狙った正拳突き。
青木さんの敗北を覚悟し、思わず強く目を閉じてしまった。しかし覚悟していた打撃音は聞こえてこない。恐る恐る目を開くと、菅原の拳は的外れな方向に突き出されていた。
さすがに経験にないことを直感で行動することはできず、菅原が動きを止める。すかさず放たれた青木さんの蹴りが、菅原の腹部に食い込んだ。
「ぐっ?! お前――!」
「お言葉に甘えて小賢しく、視覚と聴覚を左右反対にしてみました。言い直しましょうか、僕の魔術は知覚情報の傍受と改変です」
腹を押さえて奥歯を噛み締めている菅原に対して、青木さんが平然と答えた。
話の流れから、てっきり改変できるのは視覚だけだと思っていた。菅原も同様だったようで、目を血走らせて憎しみを露わにしている。
すべての感覚を奪われても戦うことのできる格闘家は、――いや、生物なんているはずがない。青木さんの魔術は、近接戦での劣勢を補ってお釣りの出るほど菅原を上回っている。
「応用すれば、こんな風に幻覚を生み出すこともできますよ。――全ての知恵と知識の習得者であり指導者よ、我は崇め、祈り、汝の名を賛美する」
間髪いれずに青木さんが詠唱を始めた。青木さんの詠唱の方が菅原よりも早いことは、中華料理店の件で実証済みである。これなら戦況を覆せる。ほっとして息を吐いた。
「最も恐ろしく最も慈悲深い汝の恩寵で心が満ちる日が来たらんことを」「――ここに力を」
青木さんが詠唱を終えた。しかし同時に菅原も余裕の表情を浮かべて短い詠唱を行っていた。
「……これは?」
先にたじろいだのは青木さんだった。額に冷や汗を浮かべ、手袋に描かれた魔法陣を凝視している。
知覚情報を乱されているはずの菅原が、的確に青木さんの方を振り向いた。
「脳の前頭前皮質の活動を低下させ、人間をしがらみから解き放つ『道徳からの開放』は、僕の魔術の一面でしかない。本来の役目はインターセプター。深層意識とのアクセスを妨げる『魔術の封印』だ」
菅原の発言によれば、彼に魔術を使われると魔法陣を見たり詠唱を行っても、心の奥底に沈む思念や願望を引きずり出すことができなくなってしまうらしい。したがって奇跡の粒子との共振は起こらず、魔術を使うことはできない。絶対的と思われていた優位が覆され、振り出しに戻されてしまった。
今度は菅原から間合いを詰めて攻撃を始めた。連打からの下段蹴り、上段と中段を混ぜた突き。バランスよく攻撃を振り、手堅く攻めている。
これがあの男の戦い方なのだろう。魔術が使えないなら、結局接近戦が結果に直結する。頼りになるのは彼の言っていた純粋な技術と経験。つまり青木さんはこの戦闘で菅原に勝つことはできない。
私は指先を擦ってカードが手の中にあることを確かめ、ゆっくりと立ち上がった。ただしそれは、一対一の戦闘での話。私の動き方によっては勝算が見えてくるはずだ。
あの間に割って入っていったところで、喧嘩も格闘技も経験したことのない私には足を引っ張るしかできないだろう。ならば用いる手段は魔術しかない。
実行までに時間をかけてしまうと、菅原の魔術によって封じられてしまう。本職よりも早く唱える自信は無いので詠唱は行えない。あちらに気付かれる前に小さい範囲で手早く使う必要がある。拳を交えている二人の周囲を見回し、範囲と位置を決めた。
思考をクリアにして、魔術を使う際に思念が浮かんでくる場所に意識を傾ける。持ち直したカードを、顔の前に掲げながら返した。魔法陣が深層から思念を引きずり起こし、奇跡の粒子と共振を生じさせる。
鋼鉄も、竜の尾ですらも断絶する、光の鏡の生成。
魔術の効果が現れる前に、菅原はとっさに反応して後方に跳んでいた。拳は青木さんに向けながら、目の端でこちらの動きを捉えている。銃のスライドのように四肢を切られるのを恐れてのことだろう。詠唱なしで使ったというのに、とんでもない反射神経だ。
しかし私は初めから、直接当てることなんて狙っていなかった。
天井に沿って生じていた小さな鏡が消滅した。飛び退いた直後の菅原目がけて蛍光灯が落下する。
「畜生め……」
菅原が悔しそうに呟く。既に青木さんは菅原の鳩尾を狙って、引いた拳を突き出していた。
近づいてくる車のエンジン音に誘われ、窓の外に視線を移した。ブロック塀に囲まれたビルの敷地内に、数台の白いワンボックスが乗り込んでくる。ドアには真面目そうな字体の黒い文字で『阿部警備保障』と書かれていた。
車は玄関すれすれまで頭から突っ込み、ブレーキ音を鳴らして迅速に停まった。すぐさまドアが開き、同時に車一台につき五人の作業着姿の男達が降りてきた。皆一様に黒のアタッシュケースを手にし、ごつい顔に厳しい表情を浮かべていた。
「あれって、他の事務所の人達ですか?」
青木さんの方を振り向いて尋ねた。彼は片膝をつき、気を失い倒れていた菅原の体を起こそうとしていた。
「本部ですね。山下さんが連絡してくれたみたいです」
青木さんが返事をしながら、菅原の腕を肩に担いで立ち上がる。恨めしい表情をした頭が左右に揺れた。
本部といえば、地方で怪物退治をしている事務所を統轄する阿部警備の大本である。オフィオモルフォスのときですら手伝いに来てくれなかったというのに、それだけ今回の件は重大だったということだろうか。
考えを巡らせていると、男達が小走りをして近くまでやって来た。二人が足を止め、残りは私達の前を通り過ぎていく。
「お疲れ様です。気を失っていますが、一応魔術師用のストレイトジャケットでふんじばっておいて下さい」
青木さんが肩から菅原を下ろして本部の社員に渡した。彼らは慣れた手つきでアタッシュケースから道具を取り出しながら、菅原の顔と書類に載った写真を照合していた。
「分かりました。ご苦労様です、後は我々にお任せください。――十一時四十七分、過激派魔術師の一派エアケントニスの幹部、菅原樹の確保」
男の一人が無線に向かって話しかけながら、菅原の後ろ手に手錠をかける。しかしそれで終わりではなく彼らは、映画で獄中の凶悪犯罪人につけられているような大げさな品々を次々に取り付け始めた。
少しだけショックを受け、横たわる菅原から目を逸らした。その視線の先で先程通り過ぎていった残りの社員達が踊り場に姿を消し、入れ違いに山下さんと愛さんが一階に降りてきた。
「本部が来てくれたし、もう大丈夫だよ。怪我はないかい?」
山下さんがこちらに気付き、軽く手を振りながら歩み寄ってきた。二人とも服が汚れ、擦り傷を負っている。尋ねてきた山下さんにおいては、セーターの肩の部分が赤黒く染まっていた。申し訳ない気持ちで一杯になる。
「山下さんよりは無事だと思います」
返事をすると、彼は恥ずかしそうに苦笑いをしていた。
本部の男達に拘束され、エアケントニスの三人がワンボックスの中に詰め込まれていく。それを高妻事務所の三人と共に見送っていた。
魔法陣を描けないように手錠と指枷、魔法陣が見えないように目隠し、詠唱を行えないように猿ぐつわという厳重な拘束がなされている。オーバーすぎる気がするが、魔術師はこれくらいしないと捕らえることができないのだろう。
――私の前を通り過ぎる時に菅原が口の端を歪めて笑ったように感じたが、さほど気に留めなかった。
無機質な効果音の笑い声。薄い壁の向こうからテレビの音が聞こえている。私はカーテンを引き、電気を消し、真っ暗な部屋のベッドの上でうずくまっていた。
エアケントニスの面々を阿部警備の本部に受け渡した後、肩を怪我した山下さんに代わり青木さんに車で送ってもらって自宅のマンションに戻ってきた。
彼は気付いていなかったと思う。いや、気付くはずがなかった。当人ですらも、こうして自問自答を繰り返していて、ようやくその変化に気付けたのだから。
腹の虫が鳴っているが、台所に立つ気力も部屋の外に出る気力もわかない。
胸の奥が喪失感で占められている。親か、友人か、恋人か、はたまた金か。今まで自分を支えていてくれた、何か大切なものを失った気がする。
苦しい部活。辛いアルバイト。面倒くさい勉強。煩わしい人付き合い。何故こんな苦労をしてまで、私は生きることを続けてきたのだろう。これからも続けなければならないのだろう。
「――我は汝に啓示を与えるもの」
なんとなく手の中で遊ばせていた、魔法陣の描かれたカードを表に向ける。部屋の中央に光の点が現れ、四方に広がって長方形の鏡に変わった。
ベッドから起き上がり、鏡面に映っている灰色の森に向かって足を踏み出す。歩きながら部屋の中を見渡してみた。テレビ、ゲーム、漫画、小説、パソコン――、暇つぶしの為の道具が目に付く。私はこの部屋で有意義な時間を過ごせたと言えるだろうか。明確な目的も持たず時間をつぶすくらいなら、初めからこうした方が正しかったのではないだろうか。
赤元によれば私の魔術は、目的を見失った人間でもプレーローマに送り救済することができるという。この鏡を通り抜ければ私も救済されるだろうか。エアケントニスの考え方に共感したわけではないが、自分の生涯に意味を見出せたような気がして笑みがこぼれた。
鏡の手前で止まり、正面に向けて腕を突き出す。感触はなく、そこに何も無いみたいに鏡の向こうに手が突き抜けた。鏡面の向こうに見える自分の腕は灰色に染まっていた。目を閉じて、再び足を進め始める。
光が鏡の頂点に片寄り四散した。そして部屋には誰もいなくなった。