0005:交えぬ正義
意識が覚醒していく。時計のアラームに強制されない、気持ちのいい目覚めだ。いつもよりも硬めのベッドだったのが良かったのだろうか。
意識が覚醒していく。なんで私は硬いベッドに横になっているのだろう。若干の不安を覚えつつも目を開けた。
てかてか光沢を放つ灰色のPタイルが敷き詰められた床。重い質感を持つ、ペンキ塗りの白い壁。同じく白い天井には縦型の蛍光灯。目の前に広がる光景は、明らかに自分の部屋と異なっていた。
慌てて上体を起こし、勢いよく頭をぶつけた。理解に苦しみながら声を殺して呻く。額をぶつけたのは二段ベッドの底板だった。
たんこぶになっていないか手で擦って確かめながら、部屋の中にある小物に目を移した。流し台とガスコンロが並んだ簡素なキッチン付近には、ポットとコーヒーメーカー。中央に置かれたテーブルには複数の雑誌が無造作に置かれており、両脇にソファーが設置されている。人が住み込むには足りないものが多い。どこかの施設の休憩室だろうか。
続いて自分の体に目を向けた。黒いカジュアルシャツとジーンズ。昨晩はオフィオモルフォスの騒動で疲れており、上着だけ脱いでそのまま寝てしまった。その時のままの格好である。ポケットの中を探すと、幸い携帯電話と財布が入っていた。
「おはよう、遅いお目覚めだな」
ベッドの上から男の声が聞こえた。スーツ姿の男がベッドにかけられていた梯子を降りてくる。黒い長髪と憎たらしい笑い方に見覚えがあった。
中華料理店での一件を思い出し、慌てて飛び起きた。再び頭をぶつけて呻いた。
「す、菅原樹! なんでお前がここにいるんだ?!」
「なかなか面白い質問だな。『お前が』を『俺は』に置き換えて聞き直してみるといいんじゃないか」
「……ここはどこだ?」
確かに彼の言う通りである。従うのが癪だったので、ニュアンスはそのままに言葉を変えてみた。
「それは僕達の代表が教えてくれる。呼んでくるから、しばらくここで待ってろ」
菅原はその心境を汲み取ったのか、ニヤニヤ笑いながら部屋を出て行った。余計に気に障った。
部屋は静まり返っている。あの男がいたということは、ここはエアケントニスに関係した建物なのだろうか。
今のうちに少しでも情報を集めておいた方が良さそうだ。改めて室内を見回してみる。ベッドから降りて歩いていき、換気用の窓を覗いてみた。この建物はビルのようで、家の屋根が並んでいるのを見下ろしている。仮に窓枠をくぐれたところで逃げ出せそうにない。
携帯電話を開く。ディスプレイに表示された時刻は十時を過ぎたところだった。アンテナ二本だが、電波が届いている。警察にかけるか迷い、結局アドレス帳から阿部警備の事務所を探して電話をかけた。無常にコール音が続く。いつもならこの時間は勤務時間のはずだが、愛さんのお見舞いに行っているのかもしれない。六回目のコール音。
ドアのノックされる音が聞こえた。素早く携帯電話を閉じ、ポケットに仕舞った。
「おはよう。一応、洋風の朝食を用意してきたが、和食の方が良かったかな?」
スーツに身を包んだ男が尋ねながら部屋に入ってきた。肩幅が広く、がっちりした体格をしている。身長は二メートル近くありそうで、扉をくぐる際に腰を折っていた。てかてか光る整髪料で黒髪をオールバックに固めている。口調は優しいが、目尻が切り上がっており顔からはきつそうな性格に見えた。
菅原ともう一人の男がすぐ後ろに立って控えていることから、彼の言っていた代表がこの男だということが分かった。
「どっちもいらない。あんたが代表か? ここはどこだ?」
握手しただけでも指が折られそうだなぁ、なんて内心びくびくしながらも、強気に会話を始めた。
「確かに、私がエアケントニス代表の赤元だ。……先に謝っておく。手荒な真似をして、すまなかった。こうでもしないと阿部警備の隙をつくことができなかった」
赤元は自己紹介を終えると、ただちに頭を下げてきた。それでも頭の位置が私よりも上にあるあたり、二メートルを超えているかもしれない。
「ここは我々の所有する建物で、ベースと呼んでいる。高妻市外だが、さほど離れていない。何故君がここにいるかというと、昨晩拉致させてもらったからだ」
簡単に現在地が明かされたこともそうだが、何より、屈強そうな男に下手に出られたことに驚いた。とりあえず取って食われることは無さそうなので、警戒心が少し薄れた。
「阿部警備で我々の話は聞いたかな?」
赤元の質問に応じて記憶を辿ってみる。エアケントニスの名前が出てくること自体が稀だった気がするが、「怪物の存在を知りながらそれを擁護する狂った連中」と菅原に会った後で山下さんが言っていたのを思い出す。
「いや、狂った奴らってことくらい」
そっけなく答えた。敵意をむき出しにした反応があると思っていたが意外にも、菅原は吹き出していたし、あとの二人は悲しそうな顔をしていた。
「彼らとは目指すものが違うからな、そのような評価を受けても仕方がない。寂しいことではあるが……。エアケントニスは魔術師シモンを始祖、ウァレンティノスを教師とする、グノーシス主義の分派だ」
グノーシスといえば、古代キリスト教の異端思想である。他の有象無象の宗教と一緒に、とっくの昔に消滅したはずだ。
「誤解されたままというのも、お互いに宜しくないだろう。教義をお教えしようと思うのだが、よろしいかな?」
「あぁ、はい、どうぞ」
伝わってくる熱意に負け、頷かざるを得なかった。同じ組織でも、赤元は人の話を聞かない菅原とは大違いである。自身の思想に敬意を抱いているようだし、菅原を通して想像していた宗教団体の雰囲気とはだいぶかけ離れていた。
「全ての原初にはアイオーンと呼ばれる、見ることも知ることも適わない者しか存在していなかった。男性格であるプロパトールと女性格であるエンノイアを先頭に、三十のアイオーン達がプレーローマと呼ばれる空間に暮らしていた」
見ることも知ることも適わないのに、なんで存在を知っているのかなんて質問をするだけ野暮だろう。大人しく相槌を打って話を聞く。
「プロパトールは長男であるヌースにしか認識できないので、父の言葉はヌースの口を通すことで子供達に伝えられていた。しかしある日、一番末っ子の神格であるソフィアが父の愛を欲してしまった。姿を見たいという探求に焦がれ苦悩し、プレーローマ中を脅かしかねなかった。結局彼女は諭され、その時抱いていた『思い』を外界に放出することになる」
決して開けてはいけないと言われていながらも開けてしまい、世界に厄災を振り撒いたパンドラの箱の話に似ていると思う。もっとも、ソフィアの場合は未遂であるが。
「放出された『思い』はアカモートと呼ばれる存在、そして物質と心魂と霊を生んだ。彼は物質と心魂から世界を。いつか完全な存在になってほしいと望み、種として霊を加えて人間を作った。種が熟した時、人々は心魂を脱ぎ捨て叡智的な霊となり、プレーローマに帰還して真の安定をもたらす。……と、ここまでがエアケントニスに伝わる世界創生の史話だ。君達が神の使いと呼んでいるあの荘厳な姿の者達は、プレーローマからの使者である天使であると我々は考えている。地上に存在している本来の目的を忘れ、欲望に耽っている人間達に戒告を与えるために彼らは降臨したのだ。我々は天使達の活動を支え、人々に目的を思い出させてプレーローマに導くことを目指して活動を行っている」
話は終わったようだ。赤元は口を閉じて私の反応を待っていた。
怪物の認識自体は、山下さんの言っていた『神の使い』の説に近いと思う。ただし阿部警備がそれらを排除して対抗しようとしているのに対して、エアケントニスの人々は同調して助けることを目的にしている。下地にあるものが違うだけで、ここまで目的に差ができてしまうのか。
「どういう集団なのかは分かった。人の思想にどうこう言うつもりはないから、素直に聞いておく。でも俺が連れてこられた理由が分からないんだけど……」
「その謙虚さに応じて、単刀直入に話そう。――君の魔術が必要だ」
赤元の言葉を聞き、自然と口が半開きになった。当然だろう。自分でもよく分かっていない魔術を必要としているなんて、訳の分からないことを言っているのだから。
「オフィオモルフォスとの戦闘を拝見させてもらった。阿部警備の代表は『消滅』だと言っていたが、我々の意見は違う。君の魔術は『回帰』だ。世界に対して使えば、心魂と物質を分離させ還元する。人に対して使えば、ソフィアの抱いた『思い』まで立ち返らせ、目的を見失った者達ですらもプレーローマに送り救済することができる」
赤元は真剣な眼差しをしており、冗談で言っている様子でもない。
そんなのはあくまで想像であって、証拠が無ければ信じることはできない。口まで出かかったが、それは山下さんの説でも同様だと気付いた。返事に窮する。
「――だから言っただろう、狂った連中だと」
廊下の壁の向こうから男の声がした。聞き慣れた声だが、こんな場所で耳にするはずがないと不思議に思う。
赤元が目をぎらつかせて部屋を出ていく。私も彼に続いて扉をくぐった。
廊下では、先に部屋を出た菅原と小太りな男がこちらに背を向けていた。彼らの対峙している人物に視線を向ける。一方はセーターにチノパン姿、白髪交じりの人の良さそうなおじさん。もう一方は阿部警備のロゴが入った灰色の作業着を着た女の子。見間違えようがなく、山下さんと愛さんだった。
「阿部警備……。どうしてここが分かった?」
赤元と話している間は一言も発していなかった、小太りな男が口を開いた。
「なに、こんなこともあろうかと、彼には小型の発信機を渡しておいたんだ」
さらりと山下さんが爆弾発言を漏らした。そんな恐ろしいものを受け取った記憶はない。給与すらもらったことがないのに。……いや、ひょっとして、あの魔法陣の描かれたカードの中に仕込まれていたのだろうか。さすが山下さん。結果的には助かったが抜け目ない。
「菅原、永田君を連れて行け。発信機とやらを捨てるのを忘れないようにな」
赤元が胸ポケットから小さな手帳を取り出しながら言った。年季の入った黒い皮で装丁されており、めくれたページから魔法陣が覗いていた。阿部警備の人達は手の甲やカードに魔法陣を描いているが、こういった魔導書がエアケントニスの魔術スタイルなのだろうか。
「はいはい。ドンパチやるんでしょう、二人だけでいいんですか?」
菅原が赤元に向かって話しかけながら、やる気無さそうにこちらに向かってくる。
「相手はたかだか、ブロッカーとブロッカー崩れだ。本当のアタッカーがどういうものかを教えてやる」
菅原に腕を捕まれた。振り払おうとしたが、彼のもう一方の手の中にあるものを見て動けなくなった。黒光りする重厚な金属製のスライド。菅原の右手には自動拳銃が握られている。
「そうだ、大人しくしていた方がいい。客人だろうが、手足を撃ち抜くくらいは躊躇なくするからな」
菅原は口の端を歪めて笑い、綺麗に揃った白い歯を覗かせていた。
「永田君、すぐに後を追うから心配しないでね」
阿部警備の二人がいない方へ引っ張られていく私に対して、山下さんが優しい声をかけてくれた。
「こうして君達と戦うのも久しぶりだね。もっとも、あの頃とはお互い面子も違うけれど」
永田の姿が見えなくなると、山下は目つきを鋭くして赤元に話しかけた。
「前任のブロッカーとサポーターは、一足先にプレーローマに帰っていった。我々の目的が達せられれば、また顔を合わせることもできるさ」
赤元が真剣な顔をして言った。栗原がやれやれと首を振った。
「体は大丈夫かい。待機していても良かったんだよ?」
「絶好調よ。あの化け物に向けていた憎しみをどうしてやろうか考えていた真っ最中だから、連戦は歓迎するわ」
心配する山下の言葉に対して、栗原は相手から目を逸らさずに答えた。
「おぉ偉大なる神よ、大鍵の力ある言葉を振るい霊達を従える権限を我に」
赤元が魔導書を顔の前で開きながら、詠唱を始める。
「アドネイ、エロヒム、アリエル、エホヴァ、タグラ、メーソン」
天井に並んでいる蛍光灯が点滅し始めた。さらに辺りからカタカタと小さな音が聞こえてくる。揺れているのは、彼の胸につけられたタイピン。
「――かくあれかし」
空気の裂ける音に続き、大きな炸裂音。阿部警備の二人のはるか後方の壁が爆発した。
「……何、アレ?」
断熱材の粉塵が舞い落ちている。栗原がゆっくりと後ろを振り向き、目を見開いた。何かが通り過ぎていった感覚はあったが、速すぎて、彼女にはそれが何であるか確認することが出来なかった。壁は砕け落ち、外の光が覗いている。
「コイルガンだ。あの男、赤元の魔術は磁場を生成すること。トーラス状の磁場を発射方向と垂直に何重にも生み出し、強磁性体の弾丸――先程の場合ならネクタイピンを引き込んで加速させ、射出する」
「訂正してもらおう。磁場ではなく、プレーローマによる引力だ」
赤元の反論を無視して、山下が栗原の耳元に口を寄せる。栗原はあからさまに嫌そうな顔をした。
「顔が近い。それと加齢臭」
「少し我慢してくれ。――こう狭いと、射線をもったあちらの攻撃に分がある。往なしながら広い部屋を探そう」
栗原が頷き、一番近い扉に駆け寄ろうとした。
「かくあれかし」
廊下に置きっぱなしにされていた朝食のトレイからスプーンが射出される。皿状の部分を栗原に向け、風を切って飛ぶ。
詠唱が省略されている分、先程よりもスピードは遅い。山下がエネルギーを相殺しながら、スプーンを掴んで止めた。
「さすがに、そう思惑通りにはいかせてくれないかぁ……」
山下が呟きながら、スプーンを後方に放り投げる。
「エネルギーの相殺か。その奇術で私の魔術を受けきれるかな」
赤元が後方にちらりと視線を送る。小太りの男、山崎が頷き、ポケットから取り出した瓶を空けて粉を振りまいた。粉は重力を無視して空中に漂い、魔導書を見つめている赤元の前に集まっていく。
「あれは砂鉄か――。まずい、奏鳴詠唱?!」
山下が叫ぶ。その視線の先では、円と多角形が組み合わさった模様が宙に描かれていた。
空中に弱い磁場を生み出し、砂鉄によって情報量の多い魔法陣を描く。手持ちに小さな魔法陣しかなくても強力な魔術を扱える技法。つまりは魔術の重ねがけ、奏鳴詠唱。
「我は汝とその眷属を雷鳴の杖で打つ。深淵の底に落とすまで!」
阿部警備の二人の両脇の壁にヒビが入った。建物を歪めながら廊下の中央まで迫り出し、決して触れるはずのない二つの壁が互いに押し潰しあう。
壁が動きを止めた。その一帯は天井も床も存在していなかった。もはや廊下は形が変わっていた。
赤元と山崎の位置から阿部警備の二人の姿を捉えることはできない。やがて赤元が呟いた。
「殺してしまったか。プレーローマに送ってやれず、申し訳ないことをしてしまった……」
「いえ、生体反応を二つ確認、共に生存しています。男は右腕に軽い怪我を負ったようです。……女の一次視覚野の活性を確認、魔術の使用。五メートル前方です」
合わさった壁をじっと見つめていた山崎が口を開いた。
「おぉ偉大なる神よ、大鍵の力ある言葉を振るい霊達を従える権限を我に」
赤元が詠唱を行いながら腰を屈め、廊下に置かれたトレイからフォークをつまみ出した。
天井付近にできた瓦礫の隙間から、栗原が勢いよく飛び出した。着地と同時に、何もない空中を狙ってアッパーを放つ。拳打の衝撃を魔術によって転移させる、彼女の得意技である。
「アドネイ、エロヒム、アリエル、エホヴァ、タグラ、メーソン」
しかし赤元は詠唱しながら身を翻し、転移した衝撃を難なく避けた。拳を振り切っていた栗原が悔しそうに奥歯を噛む。
「かくあれかし」
フォークが赤元の手の中から消える。次の瞬間には、同じく瓦礫の間から飛び出した山下の前で静止していた。
いや、今度は止まりきっていなかった。見えない壁が薄くなっていくように、だんだんと距離が狭まっていく。やがて間隔はゼロになり、マイナスになり、山下の右肩にフォークの先が食い込んだ。エネルギー源の枯渇、スタックオーバーフロー。完全に動きの止まったフォークは、櫛状の部分が見えなくなるまで突き刺さっていた。
肩を押さえて後ずさる山下に、「大丈夫?」と栗原が心配そうに声をかける。
「あぁ、指も動くし問題ない。それにしても、こちらの動きが読まれているみたいだね。未来予知――ではないか、情報が荒すぎる。心を読んでいるのか?」
山下は後衛の男に視線を向けていた。
「相変わらずの洞察力だな。地方に留まらせておくのが惜しい。……お前も永田君と一緒にエアケントニスに来ないか?」
赤元が両腕を広げて、歓迎するというジェスチャーをしながら言った。
「無理無理。僕はクリスマスでも正月でもお祝いをしている、典型的な無宗派の日本人だから」
「それは残念だ。……我々のブロッカーである山崎は、電子の動きを捉える魔術をもっている。脳の活性している部分を脳地図に当てはめれば、お前の読みどおり、ある程度考えていることを予測することができる」
赤元の紹介を受けて、山崎が照れ臭そうに軽く頭を下げた。
「さて、もう一つ教えておこうか。ブロッカーのスタックオーバーフローがもたらすのは、ユニットの全滅だ」
話しながら赤元は、朝食の載ったトレイに手を伸ばしていた。つまみ出されたバターナイフを見て、山下が苦笑いを浮かべた。
「――なんて顔してるのよ。マジックシフト!」
突然、栗原が大声を上げて走り出した。山下も間をおいて加わり、赤元目がけて阿部警備の二人が廊下を疾走する。
「我は汝を呪い、汝の祈り、喜び、居場所、あらゆる権利を剥奪し、深淵に幽閉する。来る最後の審判まで。たぎる地獄の業火、永遠の炎よ」
山下が行っているのは、左手の魔術の詠唱。対象の脳内でエネルギーを相殺し、シナプス間での情報の伝達を止めて一切の動きを封じる大魔術。しかし山下が赤元の魔術を知っていたように、赤元もまた山下の魔術をよく理解している。
「一次視覚野の活性――、魔術の使用。あの男の前方、半径二メートル程の範囲です!」
山崎が心を読み、使おうとしている魔術の範囲を教える。赤元は伝えられた場所から冷静に歩いて離れ、山下の顔にバターナイフを向けた。
「女の一次視覚野にも活性を確認。四メートル前方!」
再び発せられた山崎の言葉を受け、赤元はさらに歩を進める。見れば、栗原が走りながら拳を構えていた。
「無駄だ、お前らの魔術は通用しない」
両名の魔術の範囲外に移動し、赤元が栗原に向けて腕を伸ばした。延長に生じる磁場の渦。
「――かくあれかし!」
磁化したバターナイフが指の間から射出される。幾重にも重ねられた磁場の円環に引きずり込まれ、栗原の顔を目がけて急激に加速していく。
しかしバターナイフは不自然に空中で静止した。
弾ける音が聞こえ、赤元が振り向く。どういう訳か、先程まで彼の立っていた床が抉れていた。
「なにっ?!」
されるはずのなかったブロック。既にスタックオーバーフローしていることからも、魔術の特性から判断しても山下ではない。赤元が瞳を揺らして初めての動揺を見せた。
バターナイフが真下に落ちて金属音を立てる。
栗原が引いていた拳を開放し、宙にボディーブローを放つ。赤元の後ろに立っていた山崎が腹を押さえて倒れこんだ。
「ブロッカー崩れで悪かったね。火力不足は自覚しているわよ」
栗原は構えを解きながら、倒れた男を見下ろしている。
「――束縛せよ」
山下の詠唱が完了した。赤元が悔しげな表情を浮かべたまま固まった。
華麗に決まったのは、マジックシフト。一時的にアタッカーがブロッカーとして行動して敵を撹乱する、彼らならではの作戦である。
「君達の使う魔術は、確かにどれも強力なものばかりだった。だが個々の欠点を補うのが布陣や作戦だ。経験がそのまま差に出たようだね」
山下は息をついてから、左手だけで不自由そうに携帯電話をかけ始めた。