0209:閉ざす境界
私は湖畔に建つ、レンガ造りの小さな三角屋根の家を訪れていた。蹴破られていた扉は、板を打ち付けて簡単に応急処置されている。しかしこの門をくぐって帰ってくる家主はもういない。
格子窓のはめられた日当たりのいい南側の壁の下には、二十センチほど半球状に土が盛られている。これがチヒロの墓だ。永田家の墓石の下に入った方が良かったのか、今となっては分からない。私には、彼女がここに埋葬されることを望んでいるように思えたのだ。
大宇宙の方式でお参りをしようと思ったが、よくよく考えてみると、こちらの原始宗教でのやり方が分からなかった。結局、屈みこんで手を合わせた。
過去に戻って希望を持つことができたからだろうか、涙は出なかった。
戦争が終わってから一週間が経つ。つい昨日まで、ラワケラムウではルクアが先頭に立って、城壁の修理と亡くなった兵士の埋葬を行っていた。彼から休んでいるように言われたが、何も考えたくなかったので私も汗水を流した。そして一段落して、今日お参りに来たというわけだ。
大宇宙には平穏が訪れた。しかしこの家の地下にある扉は形を残している。磁場を発生させなくても二つの世界は繋がったままになっているので、また資源を求めて攻め込んでくる集団が現れてもおかしくない。いや、今度は技術を求めて小宇宙へ攻め込む集団かもしれない。
また、経営者二人と社員の大半を失った阿部警備は、近いうちに倒産する可能性が高い。そうなったら、大宇宙から迷い込んだ獣の対処ができなくなってしまい、小宇宙が大混乱に陥る可能性もある。
やはり小宇宙と大宇宙を切り離す必要がありそうだ。
(鏡や鏡を組み合わせた立方体のような二次元範囲じゃなくて、三次元範囲に魔術をかけた空間に飛び込めば、五次元間を見ることができないかしら)
戦争が始まる前にチヒロが話していた言葉を思い出す。そもそも世界は干渉していない状態が普通だという。小宇宙と大宇宙が接近を始めた原因を排除すれば、元に戻る可能性が高い。
五次元間に向かう前に、ちらりとそんな話を零したところ、オナキマニム王国の上層部とシタヌ王国の上層部が謁見の間に再集結してしまった。私はまだ記憶に浅い、泰雲を倒しに向かったときのことを思い出していた。
魔法陣が描画されたカードを顔の前にかざす。チヒロの講義を思い出して、魔術の範囲を描き換えておいた。
「星煌く天は我が顔、海は我が胴、大地は我が足、風が充たすは我が耳、輝く光を遠矢に射る太陽は我が目なり」
五次元間干渉の詠唱を行う。正面に光の点が浮かび、四方に広がって鏡を生み出した。姿見程度の大きさしかないが、くぐるのに苦労するのはクーハくらいだろう。そのまま続ける。
「我は汝に啓示を与えるもの」
鏡面が歪んで手前に浮き出る。光の縁が内側に巻き込まれていき、白銀の球体になった。のっぽな私達の姿が映った、水銀みたいな揺らめく表面から中の様子を窺うことはできない。
波紋を描いている鏡面に手を差し込んだ。感触も感覚もなく、指先は静かに吸い込まれていった。一度抜いて様子を見るが、手に変わったところはない。
私は意を決して、銀色の球体の中へと飛び込んだ。
――私は、暗がりの中で浮かんでいた。周囲を見渡す。足元を見て、頭上を見上げる。全ての方位で、無数の光の線が並行に走っていた。どれも同じ方向を目指して延々と伸びており、どこまで続いているのか分からない。シャッターを開けっ放しにして撮影した夜空のようだ。
「なんだ、なんだ?」
フィオの声が背後から聞こえたので振り向く。光の線の一部から手足が突き出し、続いて体が現れた。自分が通ったときは分からなかったが、あの球の反対側は線になっているようだ。針の穴を通り抜けるようなもので、正直見ていて不気味である。
皆が揃うのを待っている間、光の行く先を目指して歩き出そうとした。下ろした足が空を切る。バランスを崩した気がしたが、体は倒れなかった。
よくよく考えてみれば、地面がないのだから当然だ。重力がないのかと思ったが、それならこうして直立することはできないはずである。
光の線から離れた場所にいるということは、どうにかして歩いてきたのだろう。まさかと思いながら、自分が前に進む光景を想像してみた。振り向くと、皆から離れていた。
「凄いぞ、ここで歩くには――」
「変な空間。常識が通用するとは思わない方がいいですね」
五次元間に来たばかりのアスウィシが滑るように進んでいる。フィオも無駄に足をばたつかせながら向かってくる。私は自分の適応能力の低さにがっかりした。
「さて、どうやって原因を探そうか……」
何気なく、近くにあった光の線に触れた。すると突然、伸ばした手が細くなった。驚きの言葉を発する暇もなく、体が収束して光の筋になり、私は線の中へと吸い込まれていった。
着地した先は、コンクリートの壁に囲まれた廊下だった。窓の外の景色や、建物の内装はどこかで見たことのあるものだった。
壁に手をついてみて思い出した。以前侵入したことがある、ラワケラムウ城の位置にあったビルだ。私がいるのは、小宇宙だった。
再び詠唱を行って、真っ暗な空間に戻ってきた。立ち竦んでいた仲間達が驚きの声を漏らした。
「大丈夫か? 急にいなくなるからびっくりしたぞ」
「すまん。まぁ、自分が一番驚いたけどな」
慣れたようで、落ち着いた足取りになったフィオが向かってきた。私は手を開いたり閉じたりして、健在をアピールしてみせた。
「光の線に触れたんですよね。どうでした?」
アスウィシが微かに上気した様子で訪ねてきた。
「小宇宙に転移させられた。多分、この光が世界なんだ」
「なるほど。ここには、五次元座標が星の数ほどに点在しているんですね。そしてこの二つの光の線が、小宇宙と大宇宙に繋がっていると」
終端の見えない、線の続く先を見る。顔を百八十度回転させ、逆側の続く先を見る。
「では、長さは時間を示しているのでしょうか。三軸成分から座標の決まるユークリッド空間のように、五次元と四次元が定義された空間なのかも」
大宇宙の人間の口からユークリッドさんの名前が出てきたのにはびっくりしたが、そういえば彼女はチヒロの授業を受けていたのだった。こうして彼の知名度は、全世界から次元を超えて広がっていく。
小宇宙と大宇宙の光の線は分かったので、二つの線が交わることになった原因を探るため、終端へ向かって進むことになった。
しばらく進むと、周囲の線の間隔が短くなっていることに気づいた。多くの線は常に平行になっているのに、この線の束は徐々に接近している。交わる光の線は、小宇宙と大宇宙の二本だけだと思っていたのだが、どうしてこんなに数があるのだろうか。しかし線同士が近づいているということは、アスウィシの読み通り未来に進んでいるようだ。
やがて干渉の原因らしき場所に出た。線の束が一点に集まっている。その先はブラックホールに吸い込まれているみたいに、光が薄くなって途中で途切れていた。
「おい、見ろ」
クーハの声に誘われ、視線の先を追って見上げた。中央が膨らむように緩やかな曲線を描いたエンタシス式の柱が、光の線を覆ってそびえ立っている。鈍く光を反射した金属で表面は覆われていた。
「何だコレ。いや、何だコイツは――」
大きさのせいでピンと来なかったが、シルエットには心当たりがあった。無機物に向ける視線や思考を、有機物に向けるものへと切り替える。
未来を途切れさせているのは、ブラックホールなんかではない。肥え気味の指をした拳が、光の束を握り込んでいるのだ。
ごきりと音を立てるまで、さらに首を傾ける。柱だと思ったのは、ぷっくらした腕と脚だった。頂上には、下膨れになった、おたふく型の顔が鎮座している。感情を読み取れない不気味な目玉が、時折別々の方向に視線を移し、おちょぼ口はもぐもぐと動き続けている。また、頭頂と眼上の隆起には針金のような産毛が渦巻いている。背後に浮かぶ三角形型の影は、申し訳程度に背中にくっついている、羽の生え揃った翼だった。
目の前にいるのは、気味の悪い巨大な金属製の赤ん坊だった。天使――。似つかわしくない言葉が浮かぶ。大きさはもちろん、五次元間で生息しているのもそうだし、世界の線を掴めんでいるというのも常軌を逸している。未知の存在ということで、その呼称は悪くないかもしれない。
「へぇ、かわい……いとは言えないわね」
ウィツタクの言葉は尻すぼみになっていった。怖いもの知らずなフィオは、天使の周囲を飛び回っている。
「でかすぎるだろ。獣なのか?」
「どうだろ。けど、干渉の原因はこいつで間違いないみたいだな。なんで小宇宙と大宇宙を近づけようとしているんだろう」
「外見通りに何も考えていないのか、これらの世界の未来を食べるつもりなのか。……私達が分かるのは人という、同じ存在の考えだけです。上位の生物である神の思いも、下位の生物であるゾウリムシの思いも分かりません。私達では知り得ない、それでいいじゃありませんか」
アスウィシの言う通りだと思い、軽く頷いた。
とりあえず止めるように説得を試みたが、焦点の合っていない瞳は、ぴくりとも反応しなかった。そもそも生き物なのかどうかも分からない。
「仕方がない、追い払うか」
「んー!」
私の声に反応して、待ちかねていたらしい死神が金属の体を駆け上がった。空中で身を翻し、眉間に強烈な蹴りを叩き込む。体内で反響し、寺の鐘みたいな音が鳴り渡った。
天使の中は空洞になっているらしい。いよいよ生物かどうか怪しい。攻撃に対しても反応はなかった。
「皆下がってろ。あたしが吹き飛ばしてやる」
フィオが火球を手の中に作り出す。辺りの酸素を呑み込んで、みるみるうちに五メートル程の大きさになった。
慌てて私達はその場から逃げ出した。
コロナのように表面で炎を揺らがせた太陽が、手から離れる。天使の顔に向かってゆっくりと直進し、やがて四方に炎を散らして爆ぜた。真っ白な光が巨大な金属の体を呑み込む。球状に伝搬した風と熱が、威力の凄まじさを物語る。
押し出されていた空気が戻り、キノコ型の煙を上げた。
「危ないでしょうが!」
ウィツタクが黄色い声を上げる。フィオは無視して一点を見つめていた。
天使は光の線から手を離していない。魔法も効果はないようだった。
煙の間から、真ん丸な瞳が覗いた。焦点の合っていなかった視線は、フィオに向けられていた。
天使が初めて顔のパーツ以外を動かした。線を握っていない方の手を上げ、前腕をぐるんと回す。指が触れ、側にあった光の線が千切れた。切れ端がゴムのように激しく振れながらフィオに迫る。
「――避けて下さい!」
思い出したようにアスウィシが叫んだ。フィオが反応して、光の線から距離をとる。エネルギーを失った線が、揺らめきながら足元の方向へと落ちていった。
「元来た場所以外の光の線には、絶対に触れないで下さい。無理やり未来に送られると、エネルギーと化して消滅してしまう恐れがあります」
私が過去に行ったときは魔力で分解されるのを防いでいたが、準備が無ければ時間の移動はとても危険だ。こちらに来てすぐに光の線に触れたのは結構危なかったのだと分かり、背中を冷や汗が流れた。
「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ!」
線を握っている腕を狙って、浮かべた鏡の刃を一斉に放つ。それと同期して、きらめく光が辺り一面から押し寄せていた。生み出した以上の大量の鏡が着弾したのが見え、しばらく放心した。
「また腕を上げたようですね」
「いや、違いますよ。あれは――」
声の聞こえた方を振り向くと、ルクアと和真が話していた。後ろには他の仲間の姿も見える。
「あそこにいるのって、カズマじゃないか?」
「お前もいるな」
声の聞こえた方を振り向くと、フィオと和真が話していた。後ろにはほかの仲間の姿も見える。
天使の周囲には、たくさんの私がいた。それぞれの和真が、私と同じように仲間をつれているので、フィオやルクアもたくさんいる。
「カズマさんが氷柱を助けに向かった時と同じように、他の四次元からやって来たのでしょうか?」
「いえ、お互いにかち合った理由を知らないということは、それは考えにくいのではないでしょうか」
「カズマさんが変えたという、枝分かれした未来の人間では?」
「確かに。この空間は排他原理が曖昧のようです。異なる未来の人間が同時に存在できるのだと考えれば――」
十人のアスウィシが集まって論戦を始め、入りにくい空気を作り出していた。私も思い切って自分に話しかけようとした。
「足を引っ張るなよ」
「お前こそ」
フィオの声と共に、九尾級の火球が四方から飛び交ったので、驚いて話すのを止めた。天使の体が絶えず炎と煙で包まれ、傾いた。
皆、ドッペルゲンガー達と上手くやっているようだ。私は自分の適応能力の低さを再確認してがっかりした。
「――諸氏に勝利を確約する」
四方八方から聞こえている音の中から、耳になじみのある声が届いた。天使を囲って五本の氷の柱が浮かんでいるのが見えた。
「秘められた静かな闘志をもって、北方の若き勇士よ戦いに赴け」
光が次々に集い、天上に浮かんだ氷を肉づけしていく。相手の大きさに引けを取らない、巨大な氷の鎚が凝結する。
「ウンディーネは音を立てて流れ寄れ!!」
後方で昇華され加速した鎚が天使の頭を後方から押し潰した。
見間違えようがなく、あれはチヒロの魔術である。気付かないうちに涙が頬を流れ落ちていた。
姿は見えない。しかし、助かった世界のチヒロがどこかにいるということが分かった。それだけで、いくらでも力が湧いてきた。
「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ。これあらゆるものの中で最強の力なり!!」
どの私も同じことを考えていたようだ。浮かんだ鏡の数が多すぎて、光の天井が天使を覆っているように見える。縁を対象に向け、次元の刃が一斉に降り注ぐ。天使の体表が光で覆われた。
あらゆるものを切断できるはずの鏡も、この相手に限っては通用しないようだった。しかし絶えず切りつける刃は確実に金属表面を傷つけていた。
天使が上下の唇を引っくり返し、すぼまった口の中の闇を見せて、音にならない叫びを上げた。光の線から手を離し、赤ん坊がイヤイヤしているみたいに四肢を暴れさせていたが、やがてこちらに未練な視線を送りながら遠ざかっていった。
「なんとか追い払えたな」
側にいた和真に近づいて話しかけた。
「あぁ。これで小宇宙と大宇宙が離れ始めればいいんだけど」
和真や仲間達がそれぞれの光の線へと、元の世界へと帰っていく。私も正面の和真にお別れを告げ、自分達の光の線へと飛び込んだ。
天使を追い払ったのが一週間前。それから徐々に、チヒロの家の地下にある扉は薄れ始めた。そして三日前には、とうとう装置を作動させなければ世界間を移動できないようになった。境界は、オナキマニムでクーデターが起きた頃の状態まで戻っている。このペースなら、じきに五次元間干渉の魔術を使っても移動できなくなってしまうだろう。
決断しなければならない。
今の私は、何もできなかった以前の私とは違う。世界に訴えかけられるだけの力を手にしている。そして、争いの無い世界の姿や、皆が幸せに暮らせる世界の姿――小宇宙で学んだ、望ましい世界の像も心の中にある。
三次元や四次元間干渉を駆使すれば、政治を裏で操ることも可能だと思う。武力に物言わせて、全人類を従わせる努力をするのも手かもしれない。
時間はあまり残っていない。大宇宙から離れ、奇跡の粒子の流入が止まれば、小宇宙では魔術を使うことができなくなってしまう。
決断しなければならない。
私はチヒロの家の地下室にいた。部屋の中には他にも、ルクア、アクーの角を握ったヌト、フィオ、ウィツタク、クーハ、アスウィシ、死神がいる。小宇宙に帰る旨を伝えたところ、わざわざ仕事を休んで見送りに来てくれた。
部屋の壁には電源の切れたモニタがいくつも並べられており、その前にドーナツを立てたような奇妙な装置が置かれている。下側から太いコードが何本も伸びており、両脇のけったいな制御機器やタンクに繋がっている。思い起こしてみれば、私は一度もこの装置で転移したことがなかった。
魔法陣の描かれたカードを取り出した。
「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ」
浮かべた鏡を振り回し、ドーナツ型の装置を壊した。壁の前を歩き回り、モニタやケーブルを切断してく。もうこれらが使われることはあってはならない。
鏡を収束させて消す。タイミングを見計らってウィツタクが話しかけてきた。
「こっちの世界に永住すればいいのに……」
「ラワケラムウのように、自分の生まれた世界も変えたいんだ。チヒロも帰れって言っていたしな」
「なら引き留めないわよ。さっさと行っちゃいなさい」
不機嫌そうに体の向きを変えてしまった。私は内心戸惑いながら、シタヌ王国の三人を見た。
「戦争で力を貸してくれたり、過去に戻るのを手伝ってくれてありがとう。これからもオナキマニムと仲良くやってくれ」
「言われるまでもない。なぁ」
「んー」
クーハが尋ねて、死神を頷かせる。その顔に、人間が優秀とか獣が劣等とか言っていた面影は見えない。国のトップがこれなら、きっとこの先も大丈夫だろう。
「帰ってしまうのですね。小宇宙の進んだ技術を学べると思っていたのに、残念です」
「そんなに勉強したいなら、あっちで暮らしてみるか?」
アスウィシは、私がいなくなることについては残念ではないらしい。心外なので、からかい半分、冗談半分で尋ねてみた。日本語も使えるし、適応能力も高そうだし、彼女なら小宇宙でもなんとかなりそうな気がする。
「心惹かれないと言えば嘘になりますが、止めておきます。ここには私を必要としてくれる人達がいますので」
アスウィシが振り返って笑うと、クーハと死神が笑い返した。いつもは打算的な笑みを浮かべていて怖いが、そういう表情は可愛い。
「その方がいい。アスウィシなら自力で辿り着けるよ」
「だ、だったら、あたしが行く!」
フィオが大声を出して突進してきた。再び小宇宙までついて来ようとしているアクー並に、警戒が必要な人物だ。
「あーはいはい、馬鹿な事言わないの。あんたは、あっちの世界に行ったら獣の姿なんでしょう?」
ウィツタクが両肩を持って下がらせる。
「それでも行く! 大人しくしてるから!」
「フィオにも、ずっと世話になっていたよな。今までありがとう」
「『今まで』ってなんだ。あたしは、全員張り倒してでもついて行くぞ」
そこまで覚悟して一緒に来ようとしてくれているのは嬉しいが、彼女の将来の為にも、小宇宙の平穏の為にもこちらに残っていて欲しい。その場で屈んで、眉間に皺を寄せている顔を覗き込んだ。
「そうか。できれば、お前にはここにいて欲しいんだけどな。……俺はもう、ラワケラムウの行く末を最後まで見ることが出来なくなってしまった。だからお前が俺の代わりに見守っていてくれると安心だったんだけど」
フィオが視線を逸らして俯いた。私は悪いことをしたと思いつつ、腰を上げた。
「――そういう言い方は卑怯だ」
「フィオとラワケラムウのこと、よろしく頼みます」
フィオの頭に軽く手を置いてから、ルクアのもとへ向かった。私が頼むまでもなく、彼ならオナキマニムを素晴らしい国にしてくれるはずだ。
「確かに承りました。カズマさんがいなくなって、こちらも寂しくなります。お元気で――」
差し出された手を握る。革命の前々夜のことを思い出して、少しこみ上げてくるものがあった。
アクーを引きずりながらヌトが歩いてきた。
「あ、いいな。僕も握手してくださいよ」
「じゃあヌトさんは、アクーのことをお願いします。こっちに来ないように、しっかり見張っておいてください」
「えぇ? 大変なの引いちゃったなぁ……」
逃げられないように、しっかりと手を握ってから頼んでみた。不満そうに言葉を漏らしながらも、ヌトはしっかりと角を握っていた。
「じゃあな。お前も、もうついて来るんじゃないぞ」
金属のように冷たく硬い前胸腹板に手を触れる。アクーは顔を傾け、耳を澄ませるような素振りを見せて大人しくしていた。
「そろそろ行きます。――星煌く天は我が顔、海は我が胴、大地は我が足、風が充たすは我が耳、輝く光を遠矢に射る太陽は我が目なり」
カードを顔の前にかざし、最後の詠唱を行う。『また会いましょう』の言葉を寸前で呑み込み、ようやく二度と彼らと会えないことを実感した。
皆の顔を見渡す。口を固く結んだルクア。こちらに来ようとしているアクーを必死に抑え込むヌト。顔中に皺を作って涙を流しているフィオ。その背中をさするウィツタク。手を振る小宇宙のジェスチャーを試みているアスウィシ。それを真似するクーハ。笑顔の死神。
タガが外れたように、胸の奥から悲しみがせり上がっている。皆から見えないように顔を袖で拭った。私は必死に笑みを浮かべて手を振った。
「我は汝に啓示を与えるもの」
重い足を踏み出し、生み出した鏡をくぐった。
私は設備を壊し終わり、呆けてソファーに座っていた。
死の際に満足そうに笑っていた山下さんの表情を思い出す。彼は人の幸せの為に行動することを心に誓い、自分の命を引き替えにしてでも信念を曲げなかった。争いの無い世界を創るために争いを起こしてはならない。皆が幸せに暮らせる世界を創るために幸せを奪ってはならない。この世界には、この世界の解決の仕方がある。
焦って、自分の生きている間に理想を実現させる必要はない。各人がその時その時に最善を尽くしていれば、いつか必ず志は叶う。
だから私は、魔術で人を従わせることはせずに、ルールに則った範囲で訴えていく。それが自分で下した決断だ。
ポケットから魔法陣の描かれたカードを全て取り出し、端を持って二つに裂いた。
意を決して立ち上がり、タンスから服を見繕って着替えた。靴音を鳴らして地下室の階段を上っていく。壊れたドアをこじ開け、ビルの立ち並んだ青空の下へと踏み出した。