0208:メギドの丘
チヒロの葬式をやり直してから一週間後、阿部警備の私兵軍が再び小宇宙へと攻めてきた。前回のように一直線に向かって来ずに、ラワケラムウを包囲してから慎重に距離を縮めてくる。フィオを警戒しているはずだとルクアが予想していた通りになった。防壁の周りでは、ヌトが騎士団と防衛隊を率いて迎え撃つ準備をしていた。
謁見の間では、残りの主力が指揮を執らずに集合していた。今回は戦況を引っくり返せるフィオの火力がないので、戦争が長引けば近代兵器を投入されてオナキマニム側が不利になる。そこで、敵が用心していて動きの鈍いうちに、総力戦を仕掛けることになった。
私は三次元間干渉の魔法陣が描かれたカードを取り出し、顔の前にかざした。目指すのは、正面にそびえる山の頂き。この戦争の首謀者であり、私が大敗を喫した男が待っている気がする場所だ。彼は自身の強さに絶対の自信を持っており、複数人で襲いかかったところで、戦況は変わらないということを知らしめたいであろう性格をしている。居場所がばれたからといって変えようとはしないはずだ。生み出した鏡面をくぐった。
私達は、山頂から少し下ったところにある岩場に降り立った。
「来ましたね」
男がこちらを振り向きながら声をかけてきた。引き締まった長身の体を黒装束で包んだ阿部警備社長、阿部晴雲。副司令の姿があるということは、泰雲が山頂にいる可能性も高そうだ。
彼の背後にある林で、黒い影がうごめいている。いずれも手足が長かったり、頭が卵型ではなかったり、翼や棘を生やしたりしていて、人離れした姿をしている。
「父さんのところへ行くつもりなんでしょう? でも、僕もこれ以上評価を落とすわけにはいかないんですよ」
晴雲が指を鳴らすと、影がもそもそと木々の間から進み出た。様々な姿形をした獣が姿を現す。ある者は軽やかに四肢を跳ねさせて素早く、ある者はずるずると体を引きずってゆっくり移動して、私達の周りを隙間なく囲う。
「――ここにいれば、獣図鑑のページを全て埋めることも夢じゃなさそうですね」
昆虫採集が大好きな子供みたいなことを言いながら、アスウィシは死んだ目をしてため息をついていた。
小宇宙で苦しめられた、マンティコアやハルピュイア、ケルベロス。大宇宙で苦しめられた、ワイバーン、ポリュペモス、アンフィスバエナ、トロール。片や腰から下が鱗に覆われた尾になっており、片や肩から上が真っ白な牛の頭になっている人型の獣、ナーガとミノタウロス。鷲の翼と上半身、ライオンの下半身をもつグリフォン。口から炎を吐き出し、鼻から煙を吹き出した長細い体の海竜、レヴィアタン。巨大な腹を抱えた象、ベヒモス。鎖を引きずりながら歩いてくる口の大きな狼、フェンリル。
ざっと見回しただけでも、古今東西の有名な獣が顔を揃えているのが分かる。
「僕のとっておきのコレクション、七十二体の獣達です。三大妖怪より個々の戦闘能力は劣りますが、全匹揃えば大隊の戦力に相当します。僕の出世の為にも、戦争が終わるまでここで遊んでいてもらいますよ」
上半身が女で下半身が魚になっている獣、セイレーンを侍らせて晴雲が言った。
フィオが翼をはためかせて飛び出す。体をねじって、行く手を遮ろうとした天狗を尾で弾き落とした。手の中に収束させた火の玉を晴雲に向けて撃ち出す。その間にワイバーンが割り込み、体を張って受けた。炎が赤い鱗に覆われた体表を走って消えた。
フィオは舌打ちをしていた。魔力を封印されていた時と同じくらいまで威力が激減している。全ての魔力を失ってから一週間が経つが、まだ回復しきっていなかった。
「先に行け! 雑魚なんてあたし一人で十分だ」
フィオは大きな声を上げながら、飛びかかるシルフを殴り飛ばし、腕を伸ばしたゴーレムの腕を蹴り砕いた。
「あぁ、頼んだ。火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ!」
十枚の鏡の刃を放ち、正面にいた獣達を切断して進路を開く。輪切りになって崩れ落ちるニーズヘッグを避け、下半身から離れて倒れ込んだアヌビスの上半身を踏みつけて走る。
「あーもう、何をやってるんですか! 絶対に逃がさないでくださいよ!」
晴雲の叱責を受け、蛇の頭をエメラルドグリーン色の羽で飾った人型の獣、ケツァルコアトルが猛スピードで地面を駆けてきた。あっという間に距離を詰め、鱗に覆われた腕を伸ばしてくる。私は振り向いて、顔を両腕で覆った。
金属音が鳴り響く。ケツァルコアトルは手の甲の中央に白銀の短剣を突き刺され、動きを封じられていた。
その柄を握っているのはルクアだった。亜音速の剣撃で射抜いたようだ。
「私達も残ります」
ルクアが薙いだ刃でケツァルコアトルの首を裂いた。上空に勢いよく血を噴き上げて、緑色の体が倒れた。
「いらない! あたし一人で……」
「そういう言葉は、獣を全部御せたら言いなさい」
子に諭す調子で口を開いたウィツタクは、兜のない西洋鎧――デュラハンを鎖鉄球のように振り回して獣を薙ぎ倒していた。
「お前は一足先に敵の大将のところへ行け。俺達も手早くこいつらを片づけてから追いかける」
クーハがそう言いながら、獣と私の間に立ち塞がった。アスウィシ、死神がその隣に立つ。
皆にお礼を言って、晴雲の罵声を背中に浴びながら駆け出した。
私がフィオの魔力を借りたせいで、チヒロを生き返らせることができなかったせいで、オナキマニム軍は窮地に陥っている。今この手で戦争を終わらせなければならないという決意を胸に走った。
六つの黒いぼんぼんがついた白い結袈裟と白い鈴懸。白い足袋と白い手甲。白装束に身を包んだ男は、岩場になった山頂――前回と全く同じ場所から戦局を見守っていた。振り向かずに口を開く。
「主力の顔ぶれの中に、観測者の姿が見えなかったな。死んだか?」
チヒロが死んだのは彼らが攻めてきたせいだというのに、何をぬけぬけと言っているのだろう。あまりの無神経さが頭にきた。
魔法を使って光の魔法陣を作り出し、ジャストインタイムもどきで鏡の刃を放った。地面と平行に浮かんだ輝く正方形が、泰雲の右半身を通過していった。
回転する右腕が、スプリンクラーのように血を撒き散らしながら空を舞う。何度も岩肌の上で跳ねて、谷底へと落ちていった。
「挑発するつもりはなかったのだが。まったく、近頃の若者は短気で困る」
泰雲が振り向いた。腕を切断されたというのに、驚いたり痛がっている様子はない。
「オン・マリシエイ・ソワカ――」
詠唱が終わった瞬間、腕が元に戻っていた。次元干渉と拳銃の複合攻撃を無効化された、あの魔術のようだ。腕がくっつくとか、傷が塞がっていくとか、それまでの過程が全くない。忽然と治っているのだ。
しかし今回は私も冷静だった。
「観測者の彼女が――、チヒロが教えてくれた。それは傷を癒すのではなく、攻撃自体を無かったことにする魔術なんだろ」
驚いたのか、泰雲は一瞬眉を上げたが、すぐに見下した表情に戻った。
「ほう。その女、状況を聞いただけで思い至ったのか。優秀だったろうに、死んだのは残念だった。……特別に女に免じて教えてやろう。私は『結果を否定し、原因と過程も抜き去る』魔術だと考えている」
痛くも痒くもないようで、またあっさりと敵から教えてくれた。
しかし納得できない。『原因と過程を抜き去り、直接結果をもたらす』魔術に、『結果を否定し、原因と過程も抜き去る』魔術。泰雲の説明のせいで似ているように感じるが、原理は全然違うように思える。
「……お前は、二種類の魔術を使えるのか?」
人間の脳みそはもちろん一つしかないので、使える魔術は一種類だけのはずである。
「魔術のタイプは各人の深層意識によって決まる為、一人が使える魔術は一種類と決まっている。だが、その深層意識を自在に変えることが出来たらどうだ? 修験道とはすなわち、修行により迷妄を払い験徳を得る道。私のように修法を会得すれば、表層だけでなく深層まで精神を御することができ、こんなことも可能になる」
禅をしている最中の人間の脳にはシータ波が発生していると、昔テレビで見た。厳しい修行を繰り返せばいつか、普通は干渉することができない脳の一部を意識下に置くこともできるようになるのかもしれない。あり得ない話とは思えず、納得した。
「胎蔵界。オン・サン・ザン・ザンサク・ソワカ」
泰雲が短い詠唱を行った。この口上は、トラウマになっている魔術のものだ。腹を見ると案の定、四角を基調にした魔法陣が描かれていた。避けようが転移しようが攻撃を誘導させる魔術形式。
「今回も私を倒すことはできなかったようだな。一時の平穏のために、また私を小宇宙へ送るがいい」
勝ち誇った顔をして泰雲が言った。
「しない」
したり顔をして返事をしてやった。彼を小宇宙へ帰しても戦争は終わらない。むしろ長引くだけで、相手の思うツボである。皺だらけのこめかみに浮かんだ血管が、ぴくりと動いたのを見た。
泰雲が錫杖を岩に叩きつけて、しゃらんと音を鳴らした。私は腹に重い打撃を受けて、前屈みになった。涎が口端から垂れていた。
避けられないなら避けても仕方がない。全身の筋肉を硬直させて防御体勢をとっていたが、それでも鍛え方の足りない体には被害は甚大だった。
しゃらん、しゃらんと、連続して錫杖が鳴らされる。両太ももが一文字に裂けた。体重を支えきれなくなり、しゃがみ込んで膝をついた。
「くだらん。変わったのは態度だけで、結局このザマか」
「……対処方法は思いついた。ただ、腹が決まらなかっただけだ」
腹部に描かれた魔法陣の上に手を置き、魔力を集めた。フィオの紅蓮桜花のように上書きを試みる。
手の平から火が噴きだし、空気が弾け、傷ついた腹から血が飛び散った。魔力を熱や光に変えられればいいのだが、扱いが下手なので暴発してしまった。
魔力の使い過ぎで頭はくらくらするし、火傷と裂傷で満身創痍だが、なんとか成功したようだ。泰雲の魔法陣が消えていた。
「ほう、少し見直してやろう。しかしその方法は何度も使えまい」
泰雲の言う通り、後手の対処方法では解決にはならない。傷ついた脚に鞭打ち、ふらふらと立ち上がった。
(五秒後、その場で誘導型魔法陣)
どこからともなく男の声が聞こえてきた。斜め前方には小さな鏡が浮かんでいる。
始まったようだ。手にしていたカードを入れ替えた。
「オン・サン・ザン・ザンサク・ソワカ」
泰雲が詠唱を行う。私は真っ直ぐ歩いて、魔法陣を避けた。
「ほう? 運がいいな」
泰雲が錫杖を鳴らして、斬撃を現出させる。私は横に踏み出して避けた。
「オン・サン・ザン・ザンサク・ソワカ!」
泰雲が錫杖を何度も地面に叩きつけながら、詠唱を行う。私は左右にステップを踏んで避けた。
円錐形の黒い頭巾を額に乗せた、皺だらけの顔がみるみるうちに赤くなった。
「何をした。いくら魔術の中身が分かったとはいえ、不可視の攻撃をそう的確に避けられるはずがない!」
泰雲が錫杖を鳴らす。左前方に跳んだが、範囲の広い攻撃だったようで避けきれなかった。冷たい感覚が体を貫いた。噴き上げた血が地面をびちゃびちゃと濡らす。過程の省略された斬撃が首を裂いていた。
「汝がかつて見しことと、後にならんとする事とを録せ――。その場から十一時の方向にかけて頸部に斬撃」
空気が漏れてひゅうひゅう音の鳴っている喉で、小さな鏡に声を吹き込んだ。
(その場から十一時の方向にかけて頸部に斬撃)
正面に浮かんでいる小さな鏡から声が聞こえた。私は錫杖が鳴らされる直前に、右に跳んで避けた。
後手の対処法だけでなく、先手の対処法も用意してある。それがこの、四次元間干渉を利用した未来を読む魔術である。物を送るには莫大な魔力が必要だが、音エネルギーだけを伝えるならそれほど消耗しない。
(その場で腹部に斬撃)
(二十センチ先、三時の方向で後頭部に打撃)
(六十センチ先、九時の方向で左脚部に斬撃)
(一メートル先、その場で頸部に斬撃)
次々と声が届く。今度は随分やけっぱちのようだ。
「ええぃ!」
泰雲が錫杖を何度も地面に叩きつけている。私は真っ直ぐ歩き、左に首を曲げ、膝を抱えて跳び、腰を落として避けた。かわしながら、じわじわと距離を詰めていく。
(お疲れ。これで未来の話は終わりだ)
泰雲は後ずさっていたが、急に何かを思い出したように笑みを浮かべた。
「だが、金剛界の魔術がある限り、私を傷つけることはできまい!」
「お前が優秀だと評したチヒロが教えてくれたのは、魔術の性質だけじゃない。対処方法もだ」
攻撃を無かったことにできるなら、前回の戦いで小宇宙に送られた時も、簡単に戻ってこれたはずだ。恐らく結果を否定するには、変化量や時間や距離などの制約がある。少なくとも五次元間を移動したら魔術は使えない。
「我が月は塔の上の見張りに立ち、我が太陽は全てが生まれ変わる泉。我が息は墓場の塵を芽吹かせ、我が王冠は贖罪所を包み込む。ケルビム達の頭上を天翔けるもの!」
三次元間干渉の詠唱を行い、泰雲の体を鏡の立方体で囲む。私も足元に鏡を生成して後を追った。
転移させた先は、ラワケラムウの上空。ごうごうと風を鳴らして二人の体が落ちていく。
「金剛界。オン・マリシエイ――」
「我は汝に啓示を与えるもの!」
転移を無効化される前に、足元に鏡を生み出した。白い鈴懸をはためかせた泰雲が不敵に笑う。
「小宇宙に送るつもりか? いい時間稼ぎになるから、私は構わないがな」
「我は汝に啓示を与えるもの!!」
小宇宙にも地面と平行に鏡を生み出した。私達は二枚の鏡をくぐって大宇宙に戻ってきた。真っ逆さまに地面に引き寄せられていく。防壁に囲まれた町が迫る。中央に建つ城が迫る。
「じゃあな、シーイーオー。ケルビム達の頭上を天翔けるもの」
正面に鏡を生み出し、腕を突っ込んでパラシュートを取り出した。直ちに体に固定して傘を開いた。
「こんなくだらん状況を作り出すだけで、私を倒せると思っているのか……。オン・マリシエイ・ソワカ!」
五次元間を通過しているので結果の否定はできない。仰向けになった泰雲が、尖塔の中央へ吸い込まれるように落ちていった。
ごっ。――思っていたより軽く、安っぽい音が耳に届いた。
鋭い円錐状になった屋根が、脊椎を砕き、内臓と腹膜を突き破って腹を貫く。泰雲の体は背中を反って空中で固定された。垂れさがった頭頂と踵から血がしたたり落ちていた。
「ごふっ、オン・マリシエイ・ソワカ!」
突き刺された結果を否定し、その直前に戻る。しかし拳銃の弾がマガジンに戻っていたように、状態も元に戻っている。運動エネルギーを取り戻した泰雲が、再び尖塔に腹を貫かれた。
「ごふっ、この……。オン・マリシエイ・ソワカ!」
もがいて体の向きを変えようとするが、叶わない。再び尖塔が腹を貫いた。結果を否定する度に怪我は癒えているが、苦痛の記憶は蓄積され、彼を苦しめていた。
私はパラシュートを操作して城の屋根に着地した。
「それが俺達の受けた苦しみだ。一生そこで繰り返していやがれ」
十字の影を形作っている男に背を向け、その場を立ち去る。既に泰雲は激痛に耐えきれずに意識を失い、城の屋根を髄液と血で染めていた。
山頂から少し下ったところにある岩場では、七十二体の獣の残骸が一帯に散らばっていた。その中央に、折り重なった二つの影が見えた。
ルクアが晴雲の胸から短剣を引き抜いた。黒ずくめの体は仰向けに倒れ、獣の干物の間に横たわった。
「全部倒したんですか。凄いですね」
ルクアに話しかけながら近寄った。仲間達は皆無事で、アスウィシが小さな傷を癒やしていた。
「カズマさん。ひょっとして、もう泰雲の方は……」
「終わりましたよ。指令と副司令の戦死が敵の間に伝われば、戦争は終わるはずです」
申し訳なさそうに話すルクアの言葉を切って、朗報を知らせる。途端に、皆の顔に笑顔が浮かんだ。
「とはいえ、撤退が始まるのはもう少し先になるだろうし、ヌトさんのお手伝いに向かった方がいいかもしれませんね」
「分かりました。私達も戻って、防衛の指揮にあたりましょう」
私達がラワケラムウに着いた時には既に、指揮官を失った私兵軍が戦意を喪失して退却を始めていた。経営陣の消えた阿部警備は、崩壊するのも時間の問題だろう。迷入する獣をどうするかという問題が残っているが、それは対策を考えてある。
とにかく、戦争は終わった。