0207:繋がれ続けるバトン
棺に納められたチヒロの顔は、安らかな表情をしていた。昨日の出来事は悪い夢で、目をぱっちりと開いて嫌味の一つでも口にするんじゃないかと思う。しかし触れた頬は冷たく、ゴムのように無機質な感触をしていた。棺の周りに木材を積み上げ、火葬場の準備を進めるにつれ、彼女が死んだのだと実感した。
時折ぱちぱちと音を立てて、オレンジ色の炎が揺らめく。雲一つない青空に煙が溶け込んでいく。組木の中に置かれた棺が燃えていた。
私は膝を抱え込んで座り、チヒロの体が消えていくのを眺めていた。彼女から漂う、するめを焼いたような甘い匂いを肺一杯に吸い込み、吐き気を催してむせた。塵の一つ余すことなく自分のものにしたいのに、それすら叶わない。悔しく思い、滑稽に思い、乾いた笑いを浮かべた。
フィオに殺されかけていた私を助けてくれたチヒロ。小宇宙と大宇宙の関係を教えてくれたチヒロ。私の奇天烈な案を採用してくれたチヒロ。こちらの世界で暮らすことを許し、すべきことを教えてくれたチヒロ。クーデターの最中に仲間割れを要求してきたチヒロ。私の思いを受け入れてくれたチヒロ。チヒロとの思い出を辿る。
(俺の魔術って、次元の歪曲だって言ってたよな。四次元を歪曲させて、未来や過去に行くことはできないのか?)
(理論的には可能でしょうね)
ふと、昔交わした会話の内容を思い出した。魔術で昨日に戻り、洋平の弾丸を防いでチヒロの死を無かったことにすれば、彼女が戻ってくるのではないだろうか。
葬儀が終わるまで待てず、すっと立ち上がった。悲しそうな表情や疲れた表情を浮かべて火を眺めている仲間のもとへ向かう。
「過去に遡って、チヒロを助けようと思う」
立ち直ったように見えたのか、私が近寄ると皆は驚いた顔を見せた。アスウィシだけが私の言葉に反応した。
「時間を? 確かにそれなら……。でも、どれだけのエネルギーや魔力が必要になるんでしょう」
「チヒロは、太陽から届くエネルギーの大半を使うか、全盛期のフィオの魔力が必要だって言ってた」
「……全盛期以上だぞ」
一斉に皆の視線を受けたフィオが、誇らしげに翼と胸を張って言った。
「頼む。俺に、お前の魔力を全部くれ!」
以前提案を受けたときは怖くて断ったが、今度は構っていられなかった。フィオに向かって頭を下げた。
「熱くなっているところ申し訳ありませんが、少し待ってください。そんな莫大な魔力を一度に注ぎ込まれたら、普通の人間の体なんて、耐えきれずに壊れてしまいます」
アスウィシの説明によれば、少量の魔力であればコップの水を飲むようにスムーズに体内に取り込むことができるが、フィオの魔力はあまりに多いため、大洋の水を全身の穴という穴から一度に注入されるような人知を超えたやり方で取り込まなければならないらしい。それを聞いて尻の穴がきゅっと締まった。
「それでも、体一つで済むなら安いもんだろ。やるよ」
チヒロを生き返らせるチャンスが得られるのなら、自分の体が壊れても構わない。躊躇いなく言い切った。
「――なんて、脅しても無駄でしたね。より確実に行う方法があります。彼女の魔力を複数の魔法使いの体内で制御しながらバイパスし、持続的に並行して魔力を渡せば体の崩壊は防げるでしょう。しかし――、それでも牛の丸焼きを食道に通すようなもの。フィオの魔力も当分戻らないでしょうし、一回が限度でしょうね」
「心配してくれて、ありがとう。その方法で頼む」
お願いする前から、アスウィシは枝を持って地面に数式を書き始めていた。魔力をバイパスするなんて、私一人では考え付かなかったはずだ。アスウィシがいてくれて本当に助かった。
「あんたも、それでいいの? 氷柱がいなければ、こいつの一番近くにいるのはあんたなのよ」
「ウィツタク、それは……」
話し始めたウィツタクの言葉を、クーハが慌てて遮った。
「私も、こんなこと言うのはどうかと思うけど、直前でひよられても迷惑だから言っておくの。死を覆すなんて普通じゃない。力を貸すことを拒否する選択肢も、おかしくはないわ」
フィオは寂しそうな目で彼女を流し見て、私に視線を移した。
「あたしはチヒロの代わりになれないのか? あたしじゃ駄目なのか?」
「ごめん……。ぽっかり空いたここに収まるのは、チヒロしか考えられない」
胸の真ん中に手を置き、目を逸らして答えた。
「……その顔」
フィオがぼそりと呟いた。私は思わず彼女の顔に視線を戻し、「え」と聞き返した。
「人の生活を教えてくれたお礼に、あたしがその顔を笑わせてあげたかった。でも、チヒロしかできないなんて言われたら、どうしようもないじゃないか。――やるよ。あたしが魔力をくれてやる」
フィオの目の端に浮かんでいた涙の粒が、顔を伏せた弾みに流れ落ちた。私は赤毛の頭を撫で、感謝と謝罪の言葉を述べた。
アスウィシはしばらく見ない間に、黒板六個分くらいの地面を数式で埋めていた。ルクアが彼女のもとへ歩き寄る。
「複数の魔法使いというのは、具体的には何人必要なんですか?」
「そうですね。魔力の扱いに長けた魔法使いなら、二人もいれば十分でしょうか」
アスウィシの返答を受け、ルクアとクーハが顔を見合わせて進み出た。
「それなら私にやらせて下さい」
「俺もやろう。元騎士団長と四柱ならば不足はないだろう?」
名乗り出てくれたことに驚き、私は二人の名前を呟いた。ルクアがこちらを振り向いた。
「色恋抜きにしても、私達が彼女を必要としていることをお忘れなく。頼りになる仲間を、チヒロさんのことをよろしくお願いします」
葬儀を途中で終わらせ、私達はオナキマニム城の中で魔術の準備をしていた。いつ阿部警備が攻撃を再開するのか分からないので、ヌトは兵士達を率いて町の周りを固めている。
フィオの手がそれぞれルクアとクーハの額に置かれ、その二人の右手は私の額に置かれている。フィオが魔力を二人に注ぎ込み、彼らがそれを平滑化して少量ずつ私に受け渡すことになっている。
「私は治癒に専念します。鉄柱は、彼が暴れるようでしたら秘術で動きを封じて下さい」
アスウィシがさらりと物騒なことを言った。ウィツタクも「面白そうな仕事ね」なんて言って意地悪そうな笑みを浮かべている。
「時間に気を付けてくださいね」
「三十分だったな」
膨大な魔力は、私の質量を過去に存在させるために必要であり、時間に比例して減少していく。三十分を過ぎると魔力が尽きてしまい、私の体はエネルギーと化して消えてしまうらしいので、それまでに戻らないといけない。誕生日にチヒロからもらった腕時計を腕に巻いた。おあつらえ向きにも、彼女のお手製なので時間の誤差はほとんどない。
「我はアルパなり、オメガなり――」
自分で描いた魔法陣を見つめ、詠唱を開始した。ルクアとクーハの手を通して魔力が流れ込んでくる。
体の内側で火が燃えているように熱い。胸を起点として腕や脚、末端へと分岐しながら血が流れているのを感じる。
「最先なり、最後なり」
ごぼりと胃から何かが込み上げ、口の中に鉄の味が広がった。大理石の地面に血の飛沫を吐き出した。
なるほど、牛の丸焼きを食道に通すようなものとは、アスウィシの例えは的を得ている。熱さは痛みに変わり、全身を内側から痛みつけていた。激痛のせいで頭がぼうっとしている。
私の周囲の地面から五本の木の柱が突き出した。アスウィシが治癒を開始してくれたので、だいぶ痛みが和らいだ。
「始なり、終なり」
安心したのも束の間、痛みは急激に増し始めた。何かが内側から頭蓋骨を突き破ろうとしているのかと思うほど、頭がずきずきと痛い。涙が出てきたので手で拭うと、指先が赤く染まっていた。
苦痛に神経を占有され、感覚を失った五体が自分のものではないように感じる。わなわなと震える手が爪を立てて喉を掻きむしっているのを見て、慌てて脳から指令を出したが止まらなかった。
木の柱の間を縫って鉄の柱が突き立った。ウィツタクが血液中に含まれる鉄分を制御下におき、私の行動を封じている。爪の間に皮膚を溜めた手が動きを止めた。
「かつて死にたりしが、世々限りなく生く、死と冥府との鍵を有つ者なり」
クーハが苦痛の声を上げる。手の甲がぱっくりと裂け、血が流れ出ていた。あまりに魔力の量が莫大だったせいで、四柱最大の魔力を持つ彼でも体が耐えきれなくなっていた。
「ん。私がやる」
それまで見守っていた女が、クーハの手を掴んでずらし、自身の手を乗せた。口を半開きにして真剣さに欠ける表情をしているが、仕事は要求された以上のことをこなしている。死神だった。
「すまん……」
クーハは大人しく死神と交代し、十本の柱に囲まれた空間から抜け出した。
「――されば汝がかつて見しことと、後にならんとする事とを録せ!!」
魔力の供給と詠唱が終わり、その場で後ろを向く。眼前に一つの小さな光の点が浮かんだ。輝く四辺を展開し、鏡を張る。ビルの廊下を映していた鏡面の映像が、絵の具をかき混ぜたように変わり、彫刻が施された壁と大理石の地面を映した。鏡の内と外の景色は繋がっており、光の枠を覗いているかのようだった。
私は振り向いて、力を貸してくれた仲間の姿を見た。皆が中指と人差し指を交差させ、幸運を祈るという小宇宙のジェスチャーをしている。
彼らが一人でも欠けていたら、こうして魔術を完成させることはできなかった。皆がいてくれて本当に良かった。深く頭を下げた。
過去へと繋がる鏡に向き直った。皆の応援を背に受け、私は鏡面に飛び込んだ。
鏡が収束して光の点になり、消滅した。施された彫刻に無数の傷が刻まれている壁。大量の光が差し込む、アーチ型の大きな窓。謁見の間の様子は変わっていないように見える。しかし背後にいたはずの仲間達の姿がなかった。
口から垂れていた血を拭う。全身の痛みは治まっていた。
外から喧騒が聞こえているのに気づき、窓を覗いた。町に押し寄せる軍隊を、ヌトとウィツタク率いる防衛隊が迎撃している。戦争の最中のようだった。
二度目の襲撃でなければ、私は過去に戻れたことになる。時計の文字盤を見ると、一分が経過していた。確かめている時間がもったいない。三次元間干渉のカードをかざして鏡を生み出した。チヒロは町の裏側の森にいたはずだ。
木々の間を抜け、開けた場所に辿り着いた。身の丈三メートルもある、筋肉隆々とした炭のように黒い体が、暴れ回って地面を揺らしている。その隣では、白いマントを纏った女が軽やかに身を翻していた。
チヒロは一人で大嶽丸と戦っていた。手を貸そうと思い木立から跳び出したところ、転がっていた巨大な三本の日本刀を踏みつけた。
チヒロに助けは必要はなかった。彼女の放った無数の氷の槍が無数の矛を弾き、大嶽丸の頭や胸を貫通した。
「和真君? 泰雲と戦っているはずじゃ」
チヒロが私に気づき、声をかけてきた。その背後で大嶽丸が土煙を立てて倒れた。
「ごめん、倒し損ねた」
「そう……。気落ちしないでよ? 一度交戦したくらいで倒せるような相手ではないんだから」
いつも後ろで纏められていた黒髪は下ろされ、クセ毛が跳ねていた。ぱっちりとした眼は私を気遣って伏せ目になっている。
棺に納められていた彼女の顔と被り、目に涙が浮かんだ。やはりチヒロとずっと一緒にいたい。未来を変える決意を新たにした。
「なんで泣くのよ。そんなにショックだったの?」
「いや、ほんとごめん」
泰雲に負けたせいで泣いているのだと思っているようだった。説明している時間の余裕はないので、そのまま誤解してもらうことにした。
「城に戻ろうか。ケルビム達の頭上を天翔けるもの」
正門へ戻る途中には洋平がいる。チヒロには城の中に転移してもらい、彼から離れていてもらおうと思った。カードを顔の前にかざし、オナキマニム城へ向かう鏡を生み出した。
「どうして城に行くの? 戦争が終わるまで戻るつもりは無いわよ」
チヒロは鏡をくぐろうとしなかった。もどかしい。問答をしていても仕方がないので、これから起きる彼女の死のことを説明しようと思った。
「永田和真ァ!」
突然、男の叫び声が木立に響いた。私達は驚いて横を振り向いた。
木々の間に洋平が立っていた。すらっとしていた体はずんぐりしたシルエットに変わり、高い社交性を思わせた跳ねた茶髪は、所々が円形に抜け落ちていた。人間不信に陥ったかのような、無機物みたいな動きのない冷たい目をこちらに向けている。爽やかそうだった青年は見る影もないほどに豹変していた。
時計を見る。タイムリミットは、あと二十分。洋平と遭遇するはずの場所からは距離があったはずだが、無駄に時間を使ったせいで追いつかれてしまったようだ。
洋平は剥き出しのまま手にしていた拳銃を構え、銃口をこちらに向けてきた。
「我は汝に啓示を与えるもの!」
警告無しで撃ってくることは分かっているので、一足先に詠唱した。私とチヒロの前に、小宇宙へと繋がる鏡が現れる。放たれた銃弾は真っ直ぐ宙を走り、鏡面に吸い込まれていった。
「虚妄の炎の戯れは一条の稲妻の光に!」
チヒロの放った水の刀身が拳銃を弾き、返す刃で両腕を裂いた。洋平は短い悲鳴を上げてうずくまった。
「あれって、シタヌ王国の元国王よね?」
チヒロは攻撃した後で気付いたようだった。私は拳銃を拾って洋平の前に立った。
「魔術を失ったお前が、どうしてこんな所にいるんだ?」
「どうしてだと? そんなの決まっている、お前が憎いからだ!」
その冷たい目に、微かに人間じみたぎらつく光を浮かべて睨んできた。
「お前は魔術も、仕事も、生活も、彼女も、俺の全てを奪った。それなのにお前は悠々と暮らしている。そんなふざけた話があるか?! これは復讐だ! 殺してやる!」
常に先に手を出してきたのは彼の方である。逆恨みもいいところだ。
魔術のカードを顔の前にかざした。私とて、チヒロを殺した男を許すつもりはない。それに彼を生かしておいたら、再びチヒロに危害を加えるかもしれない。
「そうか。それなら、二度と顔を合わせなくて済むようにしてやる――」
「ちょっと、和真君?! こいつはもう攻撃手段を持っていないのよ。放っておいてもいいじゃない。今日の和真君、少しおかしいわよ?」
チヒロにカードを奪われた。彼女を思ってしたことだが、彼女は知る由もない。洋平とチヒロを見比べ、肩の力を抜いた。
「ブラジルに送るくらいなら構わないだろ?」
「それなら、まぁいいか。大宇宙で王様になるような人間だもの、何とかなるわよね」
二万キロメートルなんていう超長距離の転移は初めてなので、安全に送ることができるのか分からないが、口には出さないでおいた。チヒロはそれで納得したようで、カードを返してくれた。
「星煌く天は我が顔、海は我が胴、大地は我が足、風が充たすは我が耳、輝く光を遠矢に射る太陽は我が目なり」
「ブラジルに送られようが、地獄に送られようが、帰ってきてお前をぶっ殺す。絶対に!」
洋平に睨まれ、気まずい気持ちになりつつ詠唱する。
「我は汝に啓示を与えるもの」
鏡の立方体に包まれ、洋平は小宇宙、それも地球の反対側にあるブラジルへと消えた。
魔術のカードをポケットに仕舞い込んだ。振り向いてチヒロと顔を見合わせる。
「城に戻ろ――、いや、皆のところへ行こうか」
チヒロの命を脅かしていた元凶は消えた。もう無理に城に連れて行かなくても大丈夫だろう。
チヒロは今度は大人しく頷いた。彼女の未来は守られたのだ。安心感が体中を包んだ。
「ケルビム達の頭上を天翔けるもの」
ラワケラムウの正門へと通じる鏡を生み出す。チヒロに先にくぐるように促した
「ところで、泰雲の魔術は何だったの?」
鏡面に踏み込む前に、チヒロが振り向いて尋ねてきた。
「過程を抜き去り、直接結果をもたらす魔術だってさ。あちらさんから教えてくれたよ」
「魔術が分かったなら、対処できるはずでしょう?」
「そう簡単にはいかなかったんだ。銃弾を全部撃ち込んで倒したと思ったけれど、次の瞬間には何事もなかったかのように元に戻っていたんだ」
私に魔法陣を描いて魔術を誘導させたのは、詠唱形式の一種ということで説明できる。しかし攻撃を無効化させたあれは、私では敵わないということしか理解できなかった。まるで二種類の魔術を使っているかのようだった。
「トカレフの装弾数は見た?」
「あぁ。一発も減ってなかった」
装填しようとマガジンを取り出したときのことを思い出して答える。銃弾は八発入っており、全弾撃ち尽くしたはずだが数が減っていなかった。
「それはきっと――」
チヒロは顎に手を当てて考え込んでいたが、すぐに泰雲の魔術の秘密を口にした。確かにそれなら、あの不可解な出来事を説明できる。やはりチヒロは頼りになると思った。
正面を向いて、二人で鏡をくぐった。
「カズマ、チヒロ!」
ラワケラムウの正門に辿り着いた直後、フィオが気付いて走り寄ってきた。その場には、ルクアとヌト、ウィツタク、クーハ、アスウィシ、死神と、主力が勢ぞろいしていた。
「無事だったんだな。遅かったから心配したぞ」
「すまん、すまん」
フィオに背中を押されて皆のもとへ向かう。トイレに行くとか言って適当に未来に帰るつもりだったが、タイミングを逃してしまった。時間はまだ十三分残っているので、もうしばらく様子を見ることにした。
「怪我をしていますが、何かあったんですか?」
アスウィシがチヒロに話しかけ、秘術で癒し始めた。手足にできていた切り傷が塞がっていく。
「あの後、獣が生き返ってね。少し無茶をしたの。でも、もう解決したから大丈夫よ」
「そうでしたか。あまり一人で無理をしないで下さい……」
治癒が終わり、木の柱が地中に戻っていく。チヒロが消えた傷を確認して感謝の言葉を述べた。
突如、ラワケラムウの防壁が爆発した。町の中から悲鳴が上がる。
「何だぁ?!」
クーハが素っ頓狂な声を上げた。
次の攻撃は捉えることができた。森を越え、草原を越え、どんぐり型の弾頭が徐々に大きくなる風切音を立てて空を走る。直後、正門前に着弾し、爆発して土煙を上げた。衝撃で地面が揺れ、衝撃波が同心円状に砂を散らした。攻撃を受けた一帯の石塁が吹き飛ばされていた。
弾頭や飛んできた方向から判断すると、榴弾砲のようだった。大型の兵器は門を通れないはずなので、部品を大宇宙に持ち込んで組み立てたのだろう。さらに戦争が長引いたら、戦車や攻撃ヘリコプターが投入されるかもしれない。
「――チヒロさんとカズマさんは防衛隊の一部を率いて、町の中で救助と防衛を行って下さい」
ルクアが私達を交互に見て言った。救助ならアスウィシが適任だと思うが、私達にさせるということは、連戦になることを避けようとしてくれているのだろう。
「いいけど、それで戦力は足りるの?」
「厳しいところですね。ですが民を守るのが私達兵士の本来の役割ですから……」
チヒロの問いに対するルクアの答えを聞き、兵士達が拳を振り上げて自らの士気を上げていた。
私はチヒロと視線を交わし、頷き合った。町の中へ向かう鏡を生み出し、その場にいた防衛隊を連れて跳び込んだ。
人々は家から出て、皆一様に心配そうな顔をして同じ方向を見上げていた。防壁は貫通されており、円い穴から空が覗いている。運悪く潰れてしまった家には、大小の榴弾の破片が突き刺さっていた。
「あなた達は怪我人を運んで。和真君は私と一緒に、住民を城へ誘導しましょう」
「分かった!」
チヒロの指示を受け、兵士達が被害を受けた家に向かった。私は彼女と反対方向に駆け出し、裏通りを走り抜けながら、落ち着いて城へ向かうように住人に伝えた。
近くで爆音が聞こえた。地面が揺れ、男女の悲鳴が上がる。町人が指差している方を振り向くと、壁に二つ目の穴が空いているのが見えた。
大通りの方から、防衛隊の兵士が慌てて駆け寄ってきた。
「大変です、アクツオハミアヂが!!」
兵士の表情を見て、ただ事ではないことを察した。全身の血が足先から流れ落ちたように、さーっと背筋が冷たくなった。
彼の後を追って走る。道端の人々が話しかけているようだが耳に入らない。正門と城の中央に位置している噴水前に辿り着き、集まっている町民を掻き分けた。
赤いレンガが敷き詰められた地面の上に、赤い服の女性が倒れていた。榴弾の大きな破片が腹に突き刺さり、ぱっくり開いた傷口から鮮やかな赤色をした血液が垂れ流れている。地面も服も、元々白色だったものが血で赤く染まっていたのだった。
マントの襟から覗いているのは、私が死から解き放ったはずのチヒロの顔だった。
「そんな……」
「チヒロ――ッ!!」
私の声を遮ったのは、鏡を通って現れたもう一人の和真だった。泣き出しそうな顔を浮かべて彼女のもとへ駆け寄り、膝をついて顔を覗き込んだ。
チヒロは弱々しく顔を上げ、私達の顔を見比べていた。和真が二人いることを疑問に思っているはずである。しかし私は喪失感に支配されて立ち尽くし、説明することができなかった。
「……あぁ、そういうことなのね。そんなことをずっと? あんたも私も、皆揃いも揃って馬鹿」
チヒロは血に塗れた口を開き、弱々しく言葉を発した。何かを察したようだった。
『ずっと』とはどういう意味だろう。洋平に撃たれた時も、もう一人の私と見比べてそんなことを言っていた。
思い返してみれば、私の肩に手を置いて消えたあの和真も、チヒロを救うために過去に戻り、今のような状況に陥っていたのだろうか。正面にいる和真も同じ状況に陥るのだろうか。
和真はチヒロを救うために過去に戻り続ける。それにしても、『ずっと』とは妙な言葉だ。和真にとってはたった三十分の出来事だが、チヒロにとっては『ずっと』なのだ。
ふと大変な事に気づいてしまった。私が過去に戻り続けているということは、チヒロが無事に死を免れる未来は訪れないのではないだろうか。前回は運悪く洋平の銃弾に倒れ、今回は運悪く榴弾の破片が当たった。前々回は何が命を奪ったのだろう。前々々回は。チヒロの運命は死に収束しているのかもしれない。
それでも私は懲りずに過去に戻り続ける。四次元全てを観測できる存在から見れば、彼女の言うとおり、私は馬鹿で滑稽な存在なんだろう。
「喋るな。今、木柱のところへ連れて行くから!」
「無駄よ。それより、私のことはもう諦めなさい。こんなこと言っても聞かないんだろうけど――」
そう言ってチヒロは、私に笑いかけた。私はもう一人の自分に視線を移し、黙って首を振った。
私が何を言ったところで、彼はチヒロを生き返らせようとするだろう。自分のことなのでよく分かる。
「さすが、チヒロは何でも知ってるな。諦めるわけないだろ」
和真は苦しそうにこめかみをひくひくさせ、無理に笑顔を浮かべていた。目的語を、アスウィシのもとへ連れて行くことと勘違いしているはずだが、それはそれで問題ないだろう。
「私は幸せだった。だからあなたは囚われずに、幸せになって欲しかった、のに……」
ゆっくりと落ちた瞼の隙間から、涙が頬を流れ落ちる。和真が彼女の冷たい頬を手で拭っていた。
和真の声が町中に響き渡る。二人の恋人に見守られながら、チヒロは静かに息を引き取った。
私は悲しみに暮れる和真の姿を眺めていた。腕時計の文字盤を見ると、残り時間は三分を切っていた。
運命は収束し、死を免れることはできないのかもしれない。それでも私は過去よりも十分程長くチヒロの命を繋ぎとめることができた。
「……そういうことか」
このまま全ての私が諦めなければ、いつか彼女を救うことができるのではないだろうか。この先、何万人の私達が悲しい思いをするのか分からない。しかしどの私も、一秒でも長くチヒロの命を繋ぎとめようとするはずだ。私達の努力を踏み台にして、いつかチヒロは生き延びる。
繰り返されることは苦痛でも、ましてや馬鹿で滑稽なことでもない。常に後悔のない選択を繰り返せば、いつか必ず満ち足りたものになる。
「お前は、俺、なのか?」
屈みこんでいる男が、振り向いて尋ねてきた。私は問いに答えなかった。
「――諦めるなよ、俺」
彼の肩に手を置き、歩き去る。私が何を言ったところで、彼はきっと私の考えに到る。自分のことなのでよく分かる。
私は小道に入って身を隠し、四次元間干渉の鏡を出して飛び込んだ。