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0206:試練

 チヒロは何者かに肩を押され、柔らかい土の上に倒れた。敵だとすれば、突き飛ばすだけで済ませるはずがない。それなら誰がやったのかと、チヒロは不思議に思いながら振り向いた。そこに立っていたのは、和真だった。

 彼女の立っていた位置に刀身が突き出されていた。その光景に自分を重ねると、串刺しにされている姿が容易に浮かんだ。和真に助けられたようだ。

 そして日本刀を握っているのは、殺したはずの黒鬼だった。脳幹と心臓を破壊したはずだが、平然と起き上がっていた。


「泰雲と戦っているはずじゃあ……。終わったの?」


 和真は泰雲の使う魔術が分かったと言って、戦争を止めるために一人で向かったはずだった。チヒロは立ち上がり、鬼との距離をとりながら尋ねた。


「ごめん、倒し損ねた」

「そう……。気落ちしないでよ? 一度交戦したくらいで倒せるような相手ではないんだから」


 チヒロは数少ない苦手なことの一つである、『同情』を試みていた。和真は目の端に涙を溜めて、「ありがとう」と言った。


「なんで泣くのよ。そんなにショックだったの?」

「いや、ほんとごめん」


 それ以上追及することはできなかった。雷光のような残像を残し、銀色の刀身が宙を横切ったからだ。刀を突き出したまましばらく放心していた黒鬼が、とうとう攻撃を再開した。


「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ」


 和真の背後に五枚の鏡が浮かんだ。伸ばした腕に従い、境界の刃が空を切る。黒鬼に当たったかに見えた鏡は、魔力の鎧によって掻き消された。


「なんで……。私と木柱が殺したはずなのに!」


 鬼の体を食い入るように見つめ、チヒロは取り乱して叫んだ。炭のように黒い胸板からは刺し傷が無くなっており、顔に空いていたはずの穴も塞がっている。

 和真は彼女の震える肩に手を置いて引き寄せた。不自然に落ち着いているように見える。


「チヒロの言うとおり、大嶽丸は確かに一度死んだ。でも、霊剣の力で蘇ったんだ」


 日本に伝わる御伽草子の一つである『田村の草子』の中に、伊勢の鈴鹿山で暴れる鬼神、大嶽丸の記述はある。藤原俊宗は鈴鹿御前の力を借りて大嶽丸を討伐する。しかし鈴鹿御前に三本の宝剣を奪い取るように言われていたにもかかわらず、二本しか取り上げていなかったため、大嶽丸は蘇り、陸奥の霧山ヶ岳に現れて再び悪さを行う。


「死者を蘇らせる霊剣? そんな非科学的なもの、あるはずがないわ。代謝を繰り返してエントロピーの増大に対抗する生物は、心臓が止まれば直ちに全身の細胞が死滅して、自然の理通りに腐敗して分解されていく。それに逆らって生き返るなんて、生物学や医学を冒涜するような現象は起きるはずないもの。大嶽丸のことが記載されている草子だって、面白おかしく脚色を重ねた単なる昔話でしょう?」

「ケルビム達の頭上を天翔けるもの!」


 二人は鏡をくぐり、黒鬼の背後に回って、大振りに薙がれた刀を避けた。和真はゆっくりと首を振った。


「晴雲の魔術は、遺骸の一部を下地に、民間に残っている伝承を肉付けして獣を蘇生させる。その単なる昔話が実現してしまうんだ」

「晴雲って阿部警備の社長の?」

「うん。あいつは今、副司令として戦場に立ってる。戦局が硬直したのを見て、日本三大妖怪をオナキマニムに放ったんだ」


 和真の話すことは辻褄が合っていた。しかし泰雲と戦闘していたはずの彼が、短時間でここまで敵の情報を得られるものなのだろうか。チヒロの胸の中に疑念が浮かんだ。


「随分詳しいのね?」

「ここに来るまでに、いろいろあったからな」


 チヒロが鋭い視線を向けて問いただそうとしているにもかかわらず、和真は苦笑いを浮かべてさらりと流した。全て悟ったような、妙に落ち着いた態度。先程もこんな不自然な雰囲気を漂わせていた。


「とにかく、三つの霊剣を奪ってから止めを刺すぞ」


 黒鬼が暴れ回っているせいで落ち着いて話もできない。チヒロは眉をひそめて不満そうな表情をしつつも頷いた。

 鬼はそれぞれの手に一本ずつ霊剣を持って構えている。三本目は、胸に突き刺した場所の地面に立っていた。


「持っている二本を手放させればいいのね。何か策はあるの?」

「魔力の鎧のせいで、生半可な攻撃は通じない。全力を尽くして流れに任せる!」


 和真がカードを顔の前に掲げると、地面に突き立っていた刀が土ごと沈んでいった。直後、黒鬼の上空に、刃先を真下に向けた霊剣と土の雨が現れた。


「諸氏に勝利を確約する。秘められた静かな闘志をもって、北方の若き勇士よ戦いに赴け」


 鬼の周囲に五本の氷の柱が突き立ち、上空に巨大な氷の槌が凝結した。自由落下して霊剣の柄を叩く。刃が二の腕に刺さり、重さでねじ切る。霊剣を掴んだままの右腕が地面の上を転がった。


「流れに任せるって、こんな感じかしら?」

「百点満点」


 倒れかかってきた氷の槌を黒鬼は避けた。左腕を掲げ、宙に無数の矛を生み出す。標的を絞らず、一斉に放射状に放つ。


「ケルビム達の頭上を天翔けるもの!」


 和真がチヒロを後ろに庇い、生み出した鏡で矛を受ける。鏡面に吸い込まれた矛は鬼の背後から現れ、ハリネズミのように背中全体に突き刺さった。


「うねれ、水の精ウンディーネ」


 チヒロが詠唱し、水蒸気を凝結させて手の中に槍を生み出した。腕を引き、重心を後ろの足にかけて投擲に備える。


「我が月は塔の上の見張りに立ち、我が太陽は全てが生まれ変わる泉。我が息は墓場の塵を芽吹かせ、我が王冠は贖罪所を包み込む。ケルビム達の頭上を天翔けるもの」


 和真の魔術により、鬼の体は鏡の立方体で囲まれてチヒロの上空へと転移させられた。


「ウンディーネは音を立てて流れ寄れ!」


 真上に突き出された氷の槍が、後方に幾重にも蒸気のリングを纏って急加速する。切っ先が手首に突き刺さり、穂先の氷が砕けた。腱の切れた手が勝手に開き、滑り落ちた霊剣が地面に突き刺さった。

 両腕を失っても戦意は無くしていなかった。着地した黒鬼が軸足で地面を踏みしめる。


「瞬間に向かって私は呼びかける。時間よ止まれ、お前は美しい」


 腰にためられたバネが解放され、強烈な回し蹴りが放たれ風を斬る。しかしチヒロは秘術で悠々と避け、背後に立っていた。


 黒鬼が牙をむき出しにした口を大きく開き、第三の目玉を見開いて、矛を生み出した。


「会得すべし、一を十とせよ」


 チヒロが水色の魔法陣を浮かべて詠唱を始めた。それはアンフィスバエナの一件の時に使用した、協奏詠唱マルチスレッドのための詞だった。和真は自分に期待されていることを理解した。


「二は去らしむべし。ただちに三を作れ。しからば汝、富むべし。四は手放せ。五と六により、七と八とを作れ。これ魔女の勤めなり。それにて成就疑いなし」


 黒鬼の周囲に浮かんだ矛は現れては消えており、数が揃うのが遅くなっていた。和真は魔法陣の描かれたカードをかざした。


「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ」

「九は一にして、十は無、これぞ魔女の九々」


 チヒロの詠唱が終わった。鬼の準備も終わったようで、無数の矛が一斉に宙を走る。密な光の筋になって押し寄せる。


「これあらゆるものの中で最強の力なり!」


 眩い光が辺りを白く染めた。各々が四辺を構成し、光の縁をもった鏡を生み出す。無数の鏡が森と空を覆い尽くす。

 地面の平行に向きを変えて空を滑り出した鏡が、光の柱となって光の筋を撃ち落とす。無数とは数えきれないほど多いということ。しかし鏡の数が矛を大幅に上回っていることは明白だった。

 黒鬼に向かって次元の刃が押し寄せる。魔力の鎧が掻き消すが、際限のない攻撃によって徐々に魔力が削られていく。一枚の鏡が胸を貫いた。それを皮切りにして、なだれ込んだ刃に体を切り刻まれていった。


 光の点に収束し、鏡の群れが一斉に消滅した。国宝級の文化財、大嶽丸の干物は修復が不可能なほどに粉々になっていた。

 チヒロは辺りを見回し、三本の霊剣の位置を確認してから口を開いた。


「霊剣は全部手元から離れてる。これで終わったのよね?」

「そのはずだ」


 和真は腕をめくって腕時計を見つめていた。チヒロが誕生日にプレゼントしたものである。大宇宙の生活ではあまり時間を気にする必要がないので、彼女は選択を間違ったと後悔していた。


「ラワケラムウに戻ろうか。他の妖怪は倒せたはずだけど、軍隊に動きがありそうだ」


 和真の言葉に対してチヒロが頷き、二人は走り出した。大嶽丸を探して歩いてきた獣道を戻る。


「やっぱり今日の和真君、何かおかしいわ」


 チヒロが和真の顔を覗き込んで言った。


「そうか? いつもこんな感じだぞ」

「言ってるそばから、また泣いてるし。何があったのか説明してくれる?」


 和真は口を開きかけたが、ぱくぱくと音にならない言葉を発して一文字に結んだ。


「無事に戦争を終わらせることができたら、何でも話すよ。俺が」

「本当ね? だったら、さっさと終わらせるわよ」


 何者かの気配を感じ、二人は顔の向きを戻した。

 正面の木立の間には洋平が立っていた。すらっとしていた体はずんぐりしたシルエットに変わり、高い社交性を思わせた跳ねた茶髪は、所々が円形に抜け落ちていた。人間不信に陥ったかのような、無機物みたいな動きのない冷たい目を彼らに向けている。爽やかそうだった青年は見る影もないほどに豹変していた。


「永田和真ァ!」


 洋平は和真の姿を確認すると、生気を取り戻し、目を血走らせて叫んだ。突き出された両手には拳銃が握られていた。


 和真の体がぐらりと揺れた。銃弾はまだ放たれていない。大嶽丸の前で彼がそうしたように、チヒロが肩を押したのだ。

 一発の銃声が木々の間に響き渡る。森に戻ってきていた鳥が再び飛び去っていった。

 ほんの束の間、和真とチヒロは顔を見合わせた。チヒロの視線が逸れ、崩れるように倒れ込んだ。


「チ……ヒロ……?」


 チヒロは体を横に向けて地面に横たわっていた。胸の真ん中に小さな円い穴が空いている。白い服は鮮やかな赤で染まり、彼女の体を食むようにじわりと広がっていく。服で吸いきれなくなった血が土の上に溜まっていく。


「畜生、邪魔しやがって――」


 放心していた洋平が気を取り戻し、再び拳銃を構えた。放たれた三発の銃弾は、突如現れた鏡面に吸い込まれ、小宇宙の住宅街へと消えた。


「我は汝に啓示を与えるもの」「我は汝に啓示を与えるもの」


 洋平の耳には和真の詠唱の声が重なっているように届いていた。しかし彼はいつもの薬物による幻覚のせいだと思い、気にしなかった。

 二メートル四方の鏡が緩やかにロールしながら宙を滑る。洋平はタイミングを合わせて地面を蹴った。踏切脚を畳み、ハードルの要領で次元の刃を飛び越える。


「え?」


 綺麗なフォームで跳ね上がっていた洋平の胴体を、鏡が通過した。着地した途端、洋平の体がぐらりと傾いた。上半身が下半身から滑り落ち、呆けた顔をした胸像が血の水溜まりの中に沈んだ。

 次元の刃は二枚存在していた。鏡は和真と反対方向から放たれたものだった。


「チヒロ――ッ!!」


 木々の間から和真が現れた。伏せった彼女の名前を叫び、その傍へと駆け寄る。

 チヒロは弱々しく顔を上げ、二人の和真の顔を見比べた。泣き出しそうな顔をした和真は膝をついて彼女の顔を覗き込み、唇を噛みしめ何かを必死に堪えている和真は立ち尽くしている。


「……あぁ、そういうことなのね。そんなことをずっと? あんたも私も、皆揃いも揃って馬鹿」


 チヒロが口を開くと、胸からごぼりと血が垂れ流れた。


「喋るな。今、木柱のところへ連れて行くから!」

「無駄よ。それより、私のことはもう諦めなさい。こんなこと言っても聞かないんだろうけど――」


 そう言ってチヒロは、後ろの和真に笑いかけた。彼は正面の自分に視線を移し、黙って首を振った。


「さすが、チヒロは何でも知ってるな。諦めるわけないだろ」


 チヒロの真横の和真は苦しそうにこめかみをひくひくさせ、無理に笑顔を浮かべた。


「私は幸せだった。だからあなたは囚われずに、幸せになって欲しかった、のに……」


 ゆっくりと落ちた瞼の隙間から、涙が頬を流れ落ちる。和真が彼女の冷たい頬を手で拭った。

 和真の声が森の中に響き渡る。最愛の人に見守られながら、チヒロは静かに息を引き取っていた。


「……そういうことか」


 黙して二人の別れを見守っていた和真は、取り乱してチヒロの肩を揺すっている和真の姿と腕時計の文字盤を見比べ、冷静な声で呟いた。


「お前は、俺、なのか?」


 屈みこんでいる男が振り向いて尋ねる。立ち尽くしている男は問いに答えなかった。


「――諦めるなよ、俺」


 和真が和真の肩に手を置き、歩き去る。男は木立の中に姿を消した。


「当たり前だ。諦めてたまるか……!」


 和真は呟き、チヒロの体に手を回して抱え上げた。

 アスウィシの秘術なら助けられるはず。それだけを頼りにして、壊れてしまいそうな心に鞭打ち、鏡を生み出した。




 オナキマニムの主力はラワケラムウの正門前に集結していた。伝承の獣による味方の被害は甚大で、このまま小宇宙から際限なく敵が流入すれば、制圧されるのは時間の問題だった。彼らは、ずたずたになった防衛線の張りなおしを検討していた。

 フィオが、外壁沿いに走ってきた和真の姿を見つけた。その腕にはチヒロが抱かれていた。


「どうしたんだ?」


 戦いの最中に抱き合っていることに対して文句の一つでも言おうと思ったが、チヒロの顔色が青白いのに気づき、険しい顔をして声をかけた。

 和真はフィオを無視して前を通り過ぎた。


「アスウィシ! 頼む、チヒロを治してくれ!」


 アスウィシは一目で事態の深刻さを悟った。生気の感じられない色をした顔には、既に血が流れていない。それは胸の穴から零れ落ち、服を赤黒く染めている。


「あの黒い鬼にやられたのですか。あのまま私が残って確実に獣を始末していれば――」

「早くしてくれ! 早くしないと、チヒロが――!」


 和真は上着を脱いで地面に敷き、その上にチヒロを横たえた。汗を拭った自身の顔に、べったりと血の跡が残った。

 ルクア達は手を貸そうとせず、悲痛の表情を浮かべていた。


「残念ですが、私には無理です……」


 アスウィシは目を伏せた。


「そんなはずない! 何とかしてくれ!」


 和真が立ち上がって掴みかかる。アスウィシは大人しく、されるがままにしていた。


「無理なんです。秘術を使っても、小さな傷口を塞ぐことしかできません。心臓の動きや、失血を戻すことはできないんです」


 和真が口をぱくぱくさせて、一歩、二歩下がる。体が崩れ落ち、地面に両膝をついた。最後の希望が潰え、心は無残に砕けて壊れていた。空に向かって悲痛の咆哮をあげ、力なく頭を垂れた。


「和真……」


 うろたえたフィオが傍に立ち、恐る恐る手を伸ばそうとする。しかし、目から光を失い絶望に暮れている男の顔を見て、慰めではどうにもならないことを悟り、直前で手を引っ込めた。


 突如、ラワケラムウの防壁が爆発した。町の中から悲鳴が上がる。


「何だぁ?!」


 クーハが素っ頓狂な声を上げた。

 次の攻撃は彼らも捉えることができた。森を越え、草原を越え、どんぐり型の弾頭が徐々に大きくなる風切音を立てて空を走る。直後、正門前に着弾し、爆発して土煙を上げた。衝撃で地面が揺れ、衝撃波が同心円状に砂を散らした。攻撃を受けた一帯の石塁が吹き飛ばされていた。


 それは、払い下げの牽引式近接支援用榴弾砲だった。大型の兵器は門を通れないので、部品を大宇宙に持ち込んで組み立てていたのだ。


「これを機に終わらせるつもりのようですね」


 砲撃によって道が開かれ、惜しみなく投入された軍隊が押し寄せてくる。ルクアは町と敵を交互に見ながら思案し、ウィツタクの方を向いた。


「副団長は防衛隊の一部を率いて、町の中で救助と防衛を行って下さい」

「いいけど、それで戦力は足りるの?」

「厳しいところですね。ですが民を守るのが私達兵士の本来の役割ですから……」


 ウィツタクは頷き、周囲の防衛隊を連れて町の中へ向かった。


 着弾した榴弾が石塁を破壊し、潜んでいた防衛隊や騎士団の兵士達を吹き飛ばす。音の数倍の速度で飛翔する鉄の塊は魔法弾を弾き、一方的にラワケラムウを蹂躙していた。

 防壁から三百メートルの距離まで迫り、敵はアサルトライフルを構えて射撃を始めた。三点バーストの軽快な音が響き、弾丸が横殴りの雨のように降り注ぐ。体中に穴を空けた兵士達が踊るように後ずさり、地面に崩れ落ちていく。


 死神が肩を撃たれ、アスウィシが治療に向かう。その最中に、今度はヌトが太ももに銃弾を受けた。

 ルクアは、どさりと誰かが倒れた音を隣で聞いた。風の刃による攻撃を止めずに視線を落とす。そこでは竜の少女が仰向けに倒れていた。額に円い穴が空き、赤黒い血が湧き出していた。


「これまでか……」


 ルクアは唇を噛み、敗北を覚悟した。




 白い湯気を伴い、熱気が足元から立ち上っている。ルクアは死と隣接しているせいで幻覚か何かを見ているのかと思ったが、違うようで敵も足を止めて辺りを見回していた。

 ルクアは視界の端に映った揺らめく影を追い、横を見た。


 銃撃を受けて倒れていたはずのフィオが起き上がっている。流れ出していた血が止まり、まるで開いた花が蕾に戻るかのようにめくれた皮膚が閉じ、額の傷が塞がっていく。先端がぺしゃんこに潰れたマッシュルームのような鉛の弾が地面の上に転がった。

 ア・バオ・ア・クゥーの欠片を埋め込まれ、フィオの治癒能力は低下していた。さらに、欠片が差し込まれている額は最も魔力封印の影響を受け、治癒が困難なはずである。そこでようやくルクアは熱気の理由を悟った。


 私兵軍は湯気による被害はないと判断し、行軍を再開した。再びアサルトライフルの一斉射撃が始まり、銃弾の雨が降り注ぐ。金属音を立てて石塁や地面で跳弾する。

 石塁の陰からフィオが姿を現した。銃口が一斉に彼女の方へ向く。放たれた弾丸は見えない壁に当たったかのように、進行方向を垂直に変えて飛び去った。

 金色の瞳を浮かべた二つの三白眼が敵を睨みつけた。所々で地面が割れ、高温の蒸気が高く噴き出す。巻き込まれて顔の爛れた兵士が悲鳴を上げる。

 熱せられた空気の屈折率が局所的に変わり、軍人達の目には互いの姿が揺らいで映っていた。あちこちでプラズマと化した大気が紫色の光を発している。土は赤熱して溶け、沈降を始めている。黙示録の第四の鉢と大焦熱地獄を同時に再現したかのような、この世の終わりを思わせる光景だった。

 踵を返して逃げ出した兵士が、光に包まれ炭になった。破れかぶれでフィオを狙い続けていた兵士が、溶け落ちた銃を構えた姿で炭になった。一帯の地面が爆ぜて巻き上がり、人型の黒い像を全て砕いて散らした。


 ルクアの予想は当たっていた。額を抉った鉛の弾が、偶然ア・バオ・ア・クゥーの欠片を削り取ったのだ。魔力の阻害から解放され、フィオは完全復活を遂げていた。いや、有効に活かす術を知り、全盛期以上の魔法を行使している。


 榴弾が緩やかな放物線を描いて空を滑空する。フィオは翼をはためかせて飛び上がり、正面から掴みかかった。衝撃によって炸薬に火が入り、弾殻の破片を散らす。魔力の鎧に遮られ、鉄片が彼女を避けて飛び散っていく。

 フィオは掲げた手の中に炎の球を灯した。圧縮すると同時に振りかぶり、腕を突き出して炎の渦を放つ。光の束が森を横断し、空まで火を噴き上げる。敵の陣営ごと三門の榴弾砲が焼け失せた。


 圧倒的な力だった。運よく生き残ることができた阿部警備の兵士達は呆然と、風に乗った仲間の残骸を眺めていた。門による兵器の制限がなかったとしても、町に近づける気はしなかった。私兵軍は命令を受けていないにもかかわらず、じりじりと後退を始めた。




 晴雲は先程焼かれた補給地点にいたが、間一髪のところで逃れていた。一人の兵士が彼のもとへ駆け寄った。


「このままでは全滅してしまいます! 副司令、指示をお願いします!」

「父さ――司令はまだ戻らないんですか? 僕は兵法に疎いから嫌なんだけどなぁ」


 泰雲は情けない声を上げた。兵士が真っ赤な顔をして、こめかみに血管を浮かべ、大声を出す。


「副司令!」

「撤収しましょう。嫌だなぁ、また父さんに怒られてしまう……」


 泰雲は大宇宙を出るまでぶつくさ呟いていた。


 阿部警備の私兵軍は一時撤退し、ラワケラムウに一時の平穏が訪れた。代償として受けた傷跡は深いものだった。

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