0205:日本三大妖怪
ルクアはラワケラムウの正門前に立ち、オナキマニム軍を率いて阿部警備の軍勢を迎え撃っていた。壁の前に陣取った防衛隊が絶え間なく魔法弾を放って絨毯爆撃を行い、敵を散らす。そしてルクアを先頭に、騎士団が石塁の合間を縫って走り、各個撃破していく。チヒロの家から見て直線上に位置している矢面だが、味方側の犠牲を抑えて順調に敵の数を減らしていた。
ルクアは何かを察知し、腕を横に伸ばしてサインを出した。騎士団の面々が石塁の後ろで足を止める。
辺り一面には炎の球が雪のように降り注いでいる。その流れと垂直に移動する黄金の影がうごめいている。人離れした俊敏さで石塁の間を行き来し、彼の方へ向かってくる。
ルクアは目を凝らした。
輝いて見えたのは、顔から背中を通り尾まで覆った、艶のある金色の体毛だった。大きな耳のぴんと立った顔の中央には、縦長い瞳孔を浮かべた真鍮色の虹彩をした、賢そうな目が二つ。それは大きな狐だった。ふさふさの九本の尻尾を後方になびかせ、左右の脚を交互に合わせるようにして、軽やかに地面の上を滑っていく。
「九本の尾――、まさかあの伝説の?!」
騎士団の一人が情けない悲鳴を上げた。他の面々も同調して後ずさっている。
ルクアは仕方がないと思っていた。国王代理という立場が無ければ、彼らと同じように怯えていたかもしれない。なぜなら、今迫ってきている獣は、世界を震撼させたあの白面金毛九尾の狐に瓜二つだからだ。彼も幼い頃から、その伝説の獣に関する古い伝承を繰り返し聞かされてきた。
駆けている狐のそれぞれの尻尾の先に、炎の球が灯った。九個の魔法弾が扇状に放たれる。九ヶ所で着弾し、熱風を放って炸裂した。石塁が砕け、潜んでいた兵士達が吹き飛ばされた。
兵の顔に絶望の表情が浮かんだ。今にも後退を始めそうな様子である。獣の闖入は想定内のことのようで、敵は依然侵攻を続けている。このままでは防衛線がガタガタになりかねなかった。
ルクアは気を引き締め、形見の短剣を握った。石塁の陰から歩き出る。
「団……、ルクアさん!!」
騎士団員は目を見張っていた。九尾の狐が足を止め、興味深そうにルクアを見下ろした。
「かの炎獣とお見受けします。何故再び姿を見せたのかは分かりませんが、今はオナキマニム――いえ、この世界の一大事。言葉が通じるのであれば、直ちに退いては頂けないでしょうか」
説得を試みるルクアの額には、冷や汗が浮かんでいた。
狐が意味を理解したのかは分からない。にぃと口端まで裂けた口を歪ませて笑い、前足を大きく振り回して、ルクアがいる一帯の石塁を散らした。
「ならば、仕方ありません――」
黒い毛に覆われた腕の上に、ルクアは立っていた。短剣を正面に構え、地面を蹴って飛び出す。翼をはためかせて急加速した、亜音速の剣撃。
喉元に突き立てられた短剣の刃は、金属のように頑丈な白色の毛によって止められていた。いや、例え鋼の体毛でも、ルクアの腕なら傷を残せたはずである。垂れ流された莫大な魔力に攻撃力を削がれたのは明白だった。
狐が口を開き、口先に小さな火球が生み出した。静かで揺らぎが少ないが、ルクアの所まで肌を焦がすような熱が押し寄せている。ルクアは普通の魔法弾ではないと判断し、地面を蹴って後退した。
地面と平行に、白い光の束が放たれた。時間分解能の高いウィツィロポチトリの目のせいで、ルクアは自身の窮地を理解した。速すぎて、この体では避けられない。目を閉じて衝撃に備えた。
しばらく待っても、焼ける痛みを感じなかった。ルクアはゆっくり目を開けた。同時に、今まで意識外にあった燃え盛る炎の音が耳に届いた。
彼の前には、鱗に覆われた尾と翼を持った赤毛の女が立っていた。
「フィオさん……」
フィオは押し寄せる炎を両手で受け止めていた。防ぐのがやっとのようで、肩に力を入れて震わせ苦しそうにしている。
「まだか?!」
「ん……」
フィオの声に呼応して、死神が九尾の狐の背後に跳び出した。空中で拳を振りかぶって殴りかかる。
狐は火炎放射を止め、四肢を地面から離して身をよじって避けた。回転を利用して後ろ足を振り、引っ掻く反撃を試みる。死神は腕を突き出し、向かってきた爪を握った。後ろ足と一緒に振り回されながら、空いた手で眼帯を外す。不可視の双眼が、獣の魔力と生命力を削り去る。
動きのにぶくなった狐が着地に失敗して、横向きに倒れた。苦しそうに目を閉じ、舌を出している。
死神が爪から手を離して着地した。称賛を期待してフィオの方へ振り向いた。
狐が目を見開いた。起き上がりながら、後ろ足を振り上げる。踵が死神の腹部に直撃し、華奢な体が宙を舞う。
ルクアが翼を羽ばたかせて飛び上がった。死神の背後に回って受け止め、首と膝の後ろに手を回して抱きかかえる。
「大丈夫ですか?」
「うん。でも、また邪眼が効かない……」
九尾の狐から離れた場所に二人が着地した。死神は自分の足で立ち、気怠そうに首を回している獣を見た。
「いえ、効いているはずです。相手は伝説の炎獣。魔力と体力を激減させても、並み以上の戦闘能力が残っているのだと考えるべきでしょう」
「炎獣? それなら、あたしも聞いたことがあるぞ。『熱い蒸気が都市を包み込み、巨大な炎が天を焦がす。閃光は神々の目を眩ませ、耐え難い光熱が混沌を覆い尽くし、あたかも天と地とが溶け合ったかのよう』だったか?」
フィオが二人のもとへ駆け寄った。火傷したようで、ぷらぷらと両手を振っている。
「えぇ。伝承の続きによれば、ある日突然姿を消したはずですが、どうしてこのタイミングで現れたのでしょう。阿部警備とやらの襲撃と関係あるのでしょうか?」
「そいつらが連れて来たって考えれば、分かりやすくていいだろ」
フィオが右腕を掲げ、火球を手の中に灯す。九尾の狐が放ったのと同様に圧縮させた。
「今の時代の最強はあたしだ。隠居は失せろッ!」
腕を突き出し、炎を放射する。直進する光の束が熱で経路を焦がす。狐の頭に直撃し、全身を炎で包んだ。
「――まだ気を抜かないでください。魔力を封じられて攻撃力が激減している上、相手の利き魔法も火。今のあなたでは、炎獣を倒すのは不可能です」
腕を下げて振り向こうとしたフィオに、ルクアが声をかけた。フィオはむっとした表情を浮かべた。
燃え盛る炎の中から、九つの火球が飛び出した。一つ目が死神に向かって直進する。死神は側方に跳んで避けた。二つ目が地面に着弾して、広範囲に炎の池を作り出す。足を焼かれ、堪らず跳び上がった。
「跳んではいけません!」
ルクアが叫び、慌てて飛び立とうとする。しかし三つ目の火球が飛んできたので、翼を畳んで避けた。
向かってきた四つ目の火球を、死神は空中で身をよじって避けた。動く術を失い、五つ目は裏拳で弾こうとした。手の甲と接触した瞬間に火球が炸裂し、炎が体を覆う。
火の恐ろしさは火傷だけでなく、酸素を取り込めないことにもある。落下した人型の炎が、苦しそうに地面の上をのた打ち回った。
助けに向かうフィオを、二つの火球が執拗にまとわりついて足止めする。
ルクアが死神の方に手の平を向け、強風を起こして火を掻き消そうとした。しかし八つ目の火球が二人の間で炸裂し、熱風で風を相殺した。
九つ目が空中で弾け、眩しい光を放った。最後の火球の動向に注視していた二人は目を焼かれた。
九尾の狐が炎の中から跳び出した。フィオを尾で薙いで転がし、前足でルクアを地面に叩きつけた。
「これが、最上位の獣……」
ルクアが狐の足の下でうめいた。
狐が尻尾の先を空に向けた。まるで環状にそびえ立つ九本の黄金の柱のように見える。その真上に火球が浮かぶ。辺りの酸素を呑み込み、みるみるうちに大きくなっていく。
「巨大な炎が天を焦がす――、これが伝承の?」
爪の間から見上げているルクアには、天が焦げるという表現がしっくりきていた。熱に焼かれ、顔が赤く腫れている。所々に水膨れやケロイドが生じていた。
火球の直径は五メートル程になっていた。
フィオは、火が消えたもののぐったり横になっている死神と、狐に踏まれて身動きが取れないルクアの姿を見た。覚悟を決めたように頷き、翼をはためかせて飛び上がった。
「こっちだ、炎獣ッ! 後はあたしだけだぞ!」
空中で静止し、大きな声を上げた。九尾の狐が無表情に見上げ、尾を傾けてフィオに向けた。
巨大火球が放たれる。コロナのように表面に揺らぐ炎をなびかせ、ゆっくりと空を昇っていく。
真っ白な光がフィオの体を包んだ。音は無い。火球が空気に溶け込むように爆ぜ、光と風が球状に伝搬して一帯を吹き飛ばす。
押し出されていた空気が戻り、土砂を巻き込んで吹き荒れた。
「そんな……」
ルクアは呆然として、キノコ型の煙を見つめていた。満足したのか、彼を押さえつけていた足の力が緩んだ。
突如、煙の中から人影が飛び出した。勢いよく振り上げた脚を獣の脇腹に蹴り込む。ワーッと鳴き声を上げて九尾の狐の巨体が地面を転がった。
「自分で言ってただろ、お互い利き魔法は火だって。国王代理、あたしを飛ばせ!」
「――ッ、はい!」
フィオは、起き上がったルクアの前に立って背中を向けた。意味を理解したルクアが慌てて近づき腰を掴む。
狐は背中越しに尻尾を前方に傾け、再び巨大火球を作り出していた。先程のものよりさらに大きい。
フィオとルクアが地面を蹴った。ルクアが羽ばたき、空気を裂いて加速する。
「紅蓮桜花!!」
フィオは、突き出した右手の先に膨大な魔力を注ぎ込み、熱の塊を生み出した。魔力を上書きして炎を打ち消しながら巨大火球の中へ飛び込む。
火球を貫通して掻き消したフィオが、狐の頭に掴みかかった。ルクアはこの後何が行われるのかを察知し、後方に飛んで避難している。
「お互い利き魔法は火。とくれば、雌雄を決するのは炎比べだろ」
一人と一匹の体が炎と煙に覆われた。
ルクアは膝をついて屈み、死神の上体を起こしていた。
「しっかりしてください。私が分かりますか?」
「ん……。オナキマニムの王様?」
「正確には代理ですが、意識は大丈夫なようですね」
死神は首を回し、もくもくと上がっている真っ黒な煙を見た。
「フィオは?」
「あの中です。もう終わりました」
煙の中からフィオが歩いて出てきた。その煤だらけになった顔は笑っていた。
「何なのよ、こいつは!」
ウィツタクは苛立たしげに声を荒げた。その視線は、地面に埋もれた男と、見下ろす巨人を見比べている。
ヌトとウィツタクは左翼で兵を率いて防衛にあたっていた。シタヌ王国との戦争の経験を活かし、順調に敵の侵攻を止めていたはずだった。そこにヤツは現れた。
赤色の頭には四方八方を睨みつける十五個の眼がついており、赤毛のざんばら髪からは五本の角が生えていた。体毛は濃く、髭も眉毛も髪に繋がっていた。巨大な鬼。三メートルはある赤色の体に水色の直垂を纏い、袖から黄色の右腕と青色の左腕が覗いていた。袴から覗く左足は黒色、右足は白色。熊のように重厚な手に握られているのは、武骨な六角柱の金棒だった。
ウィツタクの造り出した三体の鎧が挟み撃ちで襲い掛かったが、振り回された金棒によって、蠅でも払うかのように弾き飛ばされた。ヌトも剣を抜いて斬りかかり、数度切り結んだが、振り下ろされた金棒に力負けして、直立したまま地面に埋もれてしまった。
「団長、生きてる?」
「なんとか――ぶっ」
顔を上げたヌトの後頭部を踏みつけて、巨大鬼がウィツタクの方へ歩み寄った。見るからに重そうな金棒を右手だけで軽々と持ち上げ、脳天に振り下ろす。
ウィツタクは両手を正面に向け、鉄の壁を生み出して受け止めた。
鼓膜の裂けそうな激しい金属音を立て、火花を散らして両者がぶつかり合う。鉄の壁の上部が、棒の形にひしゃげて折れ曲がった。
「そんな……」
ウィツタクは生き物離れした馬鹿力を目の当たりにして言葉を失っていた。
鬼が腕に力を込めると、みしみしと音を立てて鉄の壁が潰れ始めた。左手が添えられ、急速に折れ曲がっていく。金棒が振り切られ、地面と壁を両断した。
二枚の鉄の板を挟んだ鬼の反対側には、ウィツタクの姿はなかった。鬼が金棒を引き抜き、十五の目をぐるりと別々の方向に回す。
巨大鬼が振り向いた。離れた場所に立っているのはクーハだった。彼の横で地面が盛り上がり、砂を掻き分けて中からウィツタクが出てきた。
「無事でよかった。やっと二人きりになれたな」
「げっ」
クーハが爽やかな笑顔を浮かべる。ウィツタクは対照的に眉をひそめて嫌そうな顔をした。
「いつも俺の頭に浮かぶのは、お前のことばかりだ」
「そう。私は見ないけどね」
「お前のことを考えると、胸が張り裂けそうになる」
「そのまま裂けてしまえばいいのに」
「俺と一緒にシタヌ王国で――」
「お断りするわ」
二人は敵に背中を向けて話し合っている。巨大鬼が襲いかかろうとしたが、水の刃で足をすくわれて転んだ。
「二人きりって、僕のこと忘れてないっすか?」
ヌトが地面の中から抜け出しながら言った。
「あぁ、オナキマニムの騎士団長。いたのか」
「そんなこと言われると、余計に非力に感じるんですけど。でももう、この際どうでもいいっす! さっさとあの化け物を、秘術で倒しちゃって下さい!」
「そうだな。ウィツタクと話す邪魔をされては適わない」
クーハが緩んでいた顔をキリリとさせて巨大鬼を睨んだ。
鬼の周りの地面から、五本の石の柱が突き出した。金棒にひびが入り、一部が欠け落ちた。
鬼は金棒を両手で逆さまに持ち、膝を伸ばして跳び上がった。地面の揺れを除けば、重さを感じさせない高く軽い跳躍だった。
着地と同時に、振り上げた金棒を真下に突き立てる。鬼を中心にして地面が同心円状に砕ける。五本の石の柱が巻き込まれて倒れ、巻き上がった土の中に埋もれた。
「むっ、やるな」
柱を壊されたら秘術は使えない。馬鹿力だけでなく、頭も回るようである。クーハはようやく敵の厄介さを理解した。
巨大鬼が金棒を振り回しながら走り出した。十五の目玉は全てクーハを見つめている。
五本の鉄柱が鬼の周りに突き立った。紅に染まった五角柱の空間に呑み込まれ、鬼は突如動きを止めていた。
クーハが嬉しそうにウィツタクの横顔に視線を送り、再び鬼の周りに石の柱を生み出した。鉄柱の秘術で身動きを封じ、石柱の秘術で衰弱させる、四柱ならではの秘術のコンビネーション。
「初めての共同作業だな」
「無駄口叩く暇があるなら、もっと魔力を注ぎ込んでくれない?!」
ウィツタクは体内の金属を操作して鬼の四肢を曲げようとしていたが、魔力を込めてもぴくりとも動かなかった。
十五の瞳孔が蟲の這うように四方にうごめき、辺りを見回す。太く短い指がわななく。巨大鬼は体からぶちぶちという生々しい音を立てて、再び動き出した。百パーセント鉄から構成されている金棒はさすがに動かすことができず、手を離していた。十角形の外を目指して歩みを進める。
「二重に秘術を受けて、まだ動けるの?!」
「僕が止めます!」
声を張り上げたのはヌトだった。ウィツタクとクーハの間を駆け抜け、秘術のかけられている空間に飛び込んだ。
「馬鹿! 一般人が秘術なんて受けたら――」
「いや、よく見てみろ」
クーハの発言を受けて、ウィツタクは目を凝らした。
ヌトは銀色のプレートで全身を覆っていた。ウィツタクの造り出した耐魔の鎧である。彼は、吹き飛ばされて転がっていた鎧を拾ってきたのだった。
背中から耐魔の剣を抜刀し、巨大鬼の正面に立つ。水平に振られた拳を屈んで避け、足の甲に剣を突き刺した。鉄柱の秘術で空間に固定され、鬼を地面に縛り付ける。
鬼が首を反って反動をつけ、大きな口で噛みつこうとした。ヌトは後ろに跳んで牙を避け、そのまま紅の空間から逃げ出した。
「よくやった。後は任せろ!」
クーハが魔力を込め、急速に風化を進める。
巨大鬼は十五の目玉を見開いて痙攣を始めた。みるみるうちに体表が張りを失い、ごつごつした骨が浮き出す。五色の肉体は焼けた新聞紙のように散り散りに欠けていく。巨大な体を形作っていた骨は砂のように崩れ落ちる。最後に干物のような頭部だけが残った。
「……この化け物は何だったんすかねぇ?」
ヌトが皺くちゃになった鬼の頭を蹴とばして言った。
「何にせよ、考える前に私達にはやるべきことがあるわ」
敵の軍隊が自陣のすぐそこまで迫ってきている。すっかり戦意を喪失していた兵士達を鼓舞し、彼らは指示を出した。
アスウィシとチヒロはラワケラムウの裏へ向かい、待機していた兵と合流した。深い森や急な傾斜の崖があり、地形的には攻められにくいはずだが、敵の中に魔術師がいる以上、放置しておくわけにもいかない。
「こっちは大丈夫だった?」
チヒロが小隊長に声をかけた。二人が石塁の内側に歩いてきたのを見て、兵士達はほっとした表情を浮かべた。
「いえ、それが――」
曖昧な返事をした小隊長の視線の先を追い、石塁に数本の矛が突き刺さっているのを見た。刃先のうねった穂先がつけられ、柄は鉄でできており、武骨で重そうなものだった。
チヒロは石塁の間から顔を出した。途端に、森の中から風切音を鳴らして矛が飛んできた。瞬時に魔法陣を浮かべて、バックラー型の氷の盾を張る。穂先が半球面を削る。軌道を上に逸らされた矛が町の壁に突き刺さった。
「誰?!」
日本語で尋ねるが、返事はなかった。森の奥は暗く闇に沈んでおり、何も見えない。鳥の鳴き声もなく、ひっそりと静まり返っている。
「……誘っているのかしら。木柱、あなたはここをお願い」
「いえ、私も行きましょう。何か嫌な予感がします」
チヒロに続いてアスウィシも石塁の陰から出た。兵士達に見送られ、彼女達は森の中へと足を踏み入れた。
三分ほど歩くと、木々が生えておらず開けている場所に出た。その中央に、矛を投擲したであろう犯人が仁王立ちをしていた。
その獣の筋肉隆々として、人の倍近くの大きさを持っている体は炭のように黒かった。眉間にぎょろりと飛び出した第三の目玉の周りにしわを寄せ、外側に曲がった牙を剥き出しにして憤怒の表情を浮かべている。『怒髪天を衝く』を体現するかのように、巻き毛の頭髪は逆立って毛先を空に向けている。腰には虎の毛皮のふんどしを締めている。手足の先には弧を描いた鋭く白い爪が見え、両手には刃紋の乱れた霊的な雰囲気を漂わせた巨大な二本の日本刀が握られていた。
「黒い鬼……。伝承に残っている獣と特徴がよく一致していますね」
「どんな伝承なの? ――うねれ、水の精ウンディーネ」
チヒロが尋ねながら、手の中に氷の槍を凝結させた。穂先が三又に分かれた、四柱が好んで使用する武器である。
黒鬼が二本の日本刀を頭上で交差させる構えで走り出した。チヒロが応じて、向かってくる敵の真正面に氷の槍を突き出す。
黒鬼が片方の日本刀を振り下ろす。精密に動かされた刀の切っ先が穂先の先端に当たる。氷が荷重に耐えきれずに砕け散った。さらにもう一方の刀を袈裟に斬り下ろす。
刃先が鎖骨に食い込む。首が根元から刈られる寸でのところで、刀身はアスウィシの拳によって弾かれた。アスウィシは続けて蹴りを繰り出した。疾風のような一撃は、黒鬼の上げた脛で防がれた。
蹴りが効かなかったということは、すなわち獣の通常の筋力が木柱の秘術の強化と互角ということ。アスウィシはクールな顔にわずかに戸惑いの表情を浮かべ、チヒロを引っ張って下がった。
「……かなりの猛者とのことです」
「なるほど」
チヒロは大人しく頷いた。アスウィシが自身を五本の木の柱で囲み、痛んだ手足を回復させる。
「丁度いいわ。トラップを使いましょう」
駆け出したチヒロの後にアスウィシが続く。黒鬼も下段に構えて彼女らを追いかけた。
二本の矛がどこからともなく現れ、風切音を立てて宙を走る。二人は進行方向を変えて避けた。
「あった――」
チヒロが声を上げ、振り向いて止まる。アスウィシも慌てて足を止めた。
黒鬼が両刀を鋏のように袈裟に斬り上げながら駆け寄る。しかしチヒロに追いつく前に、忽然と姿を消した。
あまりに呆気なく成功してしまったので、チヒロとアスウィシは口を開いてぽかんとしていた。
枯葉に覆われた地面には大きな穴が空いていた。その遥か下方から、地獄の底から響くようなうめき声が聞こえている。黒鬼は落とし穴に落ちていた。
二人は顔を見合わせ、ようやく笑みを浮かべた。
「諸氏に勝利を確約する。秘められた静かな闘志をもって、北方の若き勇士よ戦いに赴け」
チヒロが詠唱すると、空まで続く五角形の空間に、無数の眩しい白い光が収束して氷の柱を形作った。雲の上まで続く巨大な氷の槌が垂直に落下し、落とし穴の中身をプレスすると同時に栓をした。
「落とし穴を使うと言っていたので、てっきり捕獲するつもりなのかと思っていましたが、随分えげつないことをしましたね。これで生きている生物がいたら、悪魔と並べて図鑑に載せたいところです」
「残念だけど、その図鑑を出すのは無理よ。5.8キロトンの錘の下敷きになれば、内骨格はもちろん、クチクラやキチンの外骨格だってペシャンコだもの」
チヒロが意地悪そうな顔をして笑う。
どすんと音を立てて、地面が大きく揺れた。どすん、どすん。音は続き、何度も断続的に揺れた。
「いえ、残念ながら刊行できるようですね」
栓の下方からひびが上ってくる。氷の槌の根元が砕け、横になって木々を薙ぎ倒した。
落とし穴の縁に、鋭い爪をした黒い指がかかる。
「見落としていたわ。フィオと同じ魔力の鎧を纏っているのね」
半分覗いた凶悪そうな顔を見て、チヒロは笑いを止めた。
地上に戻った黒鬼は、刀を持った手を掲げた。忽然と空中に無数の矛が現れた。
「瞬間に向かって私は呼びかける。時間よ止まれ、お前は美しい」
チヒロが秘術で絶対零度に凍結させ、思考を停止させる。敵の後方に移動し、先刻立っていた場所の地面を穿たせた。
黒鬼が腕を上げると無尽蔵に矛が浮かぶ。収束するように一点に切っ先を向けて押し寄せる。アスウィシが弾き落とし、チヒロが盾で軌道を逸らした。防ぎきれず、逃した矛が四肢をかする。
「剣や矛を扱う鬼――、ひょっとして三大妖怪の一つ、大嶽丸かしら。なんで平安時代の獣が、今頃大宇宙に出てくるのよ?」
眼前の獣が大嶽丸なら、手にしている刀は、魂魄すら操るという霊剣なのだろう。チヒロは考えを巡らせた。酒呑童子の首を斬り落とした源頼光の『血すい』や『童子切』など、大昔の霊剣は邪気を断つことができたらしい。この邪気が魔力と関係あるとすれば、霊剣は今の彼女らにとって強力な武器になる。
筋力を強化し、駆け出そうとしていたアスウィシを止めた。
「待って。敵の持っている霊剣なら、魔力の鎧を破れるかもしれないわ」
「剣ですね? 分かりました」
アスウィシは頷き、地面を蹴って黒鬼との間合いを詰めた。
「広やかにみなぎり渡る大気よ、冷気をたっぷりと吹き入れよ。水気を含んだ霧の棚よ、漂い来たって辺りを巡れ。水よ、したたり、ざわめき、雲よ、捲き起れ、虚妄の炎の戯れは一条の稲妻の光に!」
チヒロを包んでいた渦が勢いを失い、水の牢になった。格子が形状を失い、次々に水の刃を放つ。それを黒鬼が凄まじい速さで刀を振り回して迎撃していく。
振り終えたタイミングを狙って、アスウィシが棟から刀身を掴んだ。浮かせて柄に持ち替え、腕を引いて刀を振りかぶる。
「ウンディーネは音を立てて流れ寄れ!」
アスウィシが刀を放ったのと同時に、チヒロは詠唱を終えていた。柄の後方で氷を昇華させ、圧力で投擲を支援する。
鋳鉄のように鈍い金属光沢を放つ胸に、日本刀が突き刺さっていた。黒鬼が口から鮮やかな赤い血を吐き、ぐるんと白目を剥く。手足を広げて仰向けに倒れ、地響きを立てた。巻き上がった砂埃が踊っている。
「今度こそ倒せた――んですよね?」
アスウィシは、筋繊維が千切れてぼろぼろになった自身の手足の体組織を回復させながら尋ねた。
「そうみたいね。心臓を貫かれても生きている生物がいるなら話は別だけど」
浮かべていた魔法陣を消してチヒロが答える。彼女も全身に切り傷をこしらえて、ぼろぼろだった。
「後は私がやっておくわ。木柱、あんたは先に行って怪我している人達を治してあげて」
「分かりました。倒しはしましたが、かつて世界を震撼させた最上位の獣です。最後まで気を抜かないで下さい」
アスウィシは喋りながらチヒロの傷の治療を始めていた。傷口が瞬時に塞がっていく。
「ありがとう。そうするわ」
感謝の言葉を背に受けて、アスウィシは走り去った。彼らを囲んでいた五本の木の柱が地中に沈んでいった。
「うねれ、水の精ウンディーネ」
チヒロが水色の光を放つ魔法陣を宙に浮かべて詠唱を行う。槍頭に三本の刃先を持つ、コルセスカに似た氷の槍が手の中で凝結した。
槍を持った手を掲げながら化け物の前に向かう。
「ウンディーネは音を立てて流れ寄れ!」
真下にある化け物の頭に向かって、氷の槍を振り下ろした。手から離れた槍が、後方に幾重にも蒸気のリングを纏って急加速する。
槍は頭を貫通し、柄の真ん中まで埋まっていた。
化け物はピクリと体を痙攣させ、それきり動かなくなった。断末魔か脊髄反射かは分からない。はっきりしていることは、化け物が確実に死んだということだ。
チヒロは背中を向けて歩き出した。制御から外れた氷の槍が砕けた。
チヒロは急に衝撃を受けてうつ伏せに倒れた。振り向いた顔が硬直する。
「……え?」
そこには泰雲と戦っているはずの和真が立っていた。