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0204:泥沼へ誘うものたち

 大男が苦痛の声を漏らし、頭を振りながら起き上がった。口の端から血を細く流しており、叩きこまれた拳打は意識を奪うのに十分な威力があったことを示している。死神が不思議そうに自身の拳を見つめている。

 和真や高妻事務所の魔術師達が戦っている傍では、シタヌ王国とエアケントニスの面々が交戦していた。


「相変わらず頑丈ですね」


 菅原が横目で赤元を一瞥してぼそりと零した。手には魔導書を持ち、顔の前にかざしている。彼が使い続けている魔術は『魔術の封印』。シタヌ王国の魔法使い達は一切の魔法を使えなくなっていた。


「原人共の身体能力を甘く見ていた。しかし、もう攻撃は受けん」


 赤元は山崎のもとへ向かいながら、胸ポケットから取り出した小瓶を開け、正面に砂鉄を振り撒いた。砂が細かくまとまり、曲線を描きながら宙を移動し、大きな魔法陣を形作る。


「我は汝とその眷属を雷鳴の杖で打つ。深淵の底に落とすまで」


 赤元が詠唱を終えると、突如地響きが始まった。地面に何本もひびが入り、亀裂の間から大量の黒い煙のようなものが上空に向かって噴き出した。


「何だ?!」

「砂鉄……でしょうか」


 クーハとアスウィシが背中合わせで立つ。彼らは生まれた時から魔力量には恵まれており、魔法が使えなくなる状況は経験していなかった。自らの無力さを痛感し、額に玉の汗を浮かべて緊張していた。

 無垢な顔をした死神が彼らのもとへ駆け寄った。状況を察せずに、アスウィシの袖を引いて尋ねる。


「邪眼は、まだ使えるようにならないの?」

「もう少しだけ待ってくださいね?」


 砂鉄が空中で方向を変え、三人を挟むように噴きつけた。クーハとアスウィシが慌てて身を屈めた。


「分かった……」


 死神が両手を開き、左右から襲いかかった流砂を掌底で払い落とす。手に無数の切り傷が刻まれ、血が垂れた。


「身をもって体感したか? 我が大魔術は、素手ごときで防ぐことはできない」


 赤元が口元を歪めて笑いながら言った。右腕を突き出し、手を強く握りしめた。左手には魔導書が掲げられている。

 地響きがさらに強くなる。地割れが起き、さらに大量の砂鉄が亀裂から噴き出した。三人の周囲を反時計回りに流れて辺りを覆う。凄まじい風速の砂嵐だった。


「――主力の男女が右に逃げます」


 山崎が三人の心を読んで伝える。赤元は黙って頷き、右手を作業着のポケットにしまって何かを取り出した。人差し指と親指の間に挟まれているのは、銃弾の弾頭だった。


「おぉ偉大なる神よ、大鍵の力ある言葉を振るい霊達を従える権限を我に。アドネイ、エロヒム、アリエル、エホヴァ、タグラ、メーソン」


 山崎の予測は正確だった。死神とクーハが押し寄せる砂鉄を避けて、赤元の指差す方へ跳び出した。


「かくあれかし!」


 トーラス状の磁場が発射方向と垂直に何重にも生み出され、強磁性体の弾丸が引き込まれて加速する。スプーンやフォークを発射するのとは威力や精度が断然に違う、正真正銘のコイルガン。指の間から黄櫨色の弾頭が放たれ、空気を裂いた。


「ぐぅっ?!」


 クーハが顔をしかめ、足をもつれさせて転んだ。弾丸は彼の肩を貫いていた。服にできた赤い染みが、あっという間に広がっていく。

 赤元は手の中にあった弾頭を、三指で器用に転がしながら指の間に装填した。


「かくあれかしッ!」


 詠唱を短縮して二発目を発射した。弾丸がクーハの頭に向かって空を滑る。しかし死神がクーハの前に立ち、蹴りで弾丸を弾き飛ばした。


「かくあれかしッッ!!」


 死神は、彼女に向かって放たれた三発目の鉛の塊を目で追っていた。膝を曲げ、上体を横にひねる。弾丸は紙一重のところで脇の下を潜り抜けていった。

 膝を伸ばす反動で地面を蹴り、赤元に向かって駆け出した。一瞬にして間合いを詰める。


「――悪いが、お前と近接戦をするつもりはない」


 死神が体を反って赤元の方へ倒れかかった。するりと避けられ、顔から地面に突っ込む。

 死神の背中には、銃の弾頭が食い込んでいた。発射した時と同じトーラス状の磁場が弾丸を押し返し、空中で反転させていたのだ。

 死神が土のついた顔を上げた。銃弾は貫通していなかったが、内臓が傷ついたようで血を吐いていた。


 赤元は左手に持っていた魔導書を閉じた。魔術から解き放たれた砂鉄の流れが徐々に弱まり、周囲に飛散していく。

 砂嵐が消え、全身に切り傷を負ったアスウィシが中から現れた。周囲を見渡し、倒れている二人の姿を確認すると、目を細めた。足を引きずりながら一点を目指して歩き出す。赤元らはアスウィシを雑魚だと考えており、あまり彼女の動向を気にしていなかった。


「魔力の封印がここまで厄介だとは、予想外でした。私達は魔法のある生活に慣れすぎているのかもしれませんね。技術に頼った彼らの生活も、少しは見習わなければならないのかもしれません」


 アスウィシの辿り着いた地面には、十字の目印がつけられていた。戦闘が始まった際に、彼女が密かに靴の先でつけていたものである。


「そろそろでしょうか……。私が主力でないと言ったこと、後悔させてあげますよ」


 アスウィシが発した言葉は日本語だった。エアケントニスの三人がはっとしたように顔を上げる。

 タイマーで空間にかけられていた魔法が発動する。眉間付近で魔力が解放され、魔力の発生を妨害していた魔術を上書きして解除した。


 アスウィシの周囲で、五本の木の柱が地面から突き出した。

 両目を閉じてゆっくりと息を吐く。弧状に裂けていた皮膚が繋がり、塞がっていく。時間を巻き戻すかのように全身の傷が治っていく。


「どういうことだ?! 魔法を封じたんじゃなかったのか!」

「確かに『魔術の封印』は成功しているはずなんですが?!」


 赤元が振り向いて声を荒げる。菅原がいらいらした様子で言い訳をした。


 またたく間にアスウィシの傷はすべて癒えた。閉じていた目を開く。言い争っている二人に冷たい視線を向け、腰を落として半身に構える。

 地面を蹴り五歩足を進めた直後、――時間にすれば地面を蹴ったのと同時に、アスウィシは赤元の前で拳を振り抜いていた。彼にとっては幸運にも、体を正面に向け直していた為に、拳は頬をかすっただけだった。


「くっ――、我は汝とその眷属を雷鳴の杖で打つ。深淵の底に落とすまで!」


 赤元が早口に詠唱する。砂鉄が地面にできた亀裂から噴き出し、厚く黒い壁を形成した。

 アスウィシが逆の拳を振り直す。壁はたった一撃で砕けて一帯に飛び散った。代償に腕が裂け、鮮やかな赤色の筋束が露出した。

 再び逆の腕を薙ぐ。拳が赤元の横面を捉え、砕ける音を立てながら頭蓋骨を歪めた。巨体が以前の焼き直しのように草原の上を転がる。しかし今度は起き上がらなかった。


「赤元さん? 畜生――!」


 菅原が背中のホルダーから銃を引き抜き、アスウィシに向けて構えた。引き金が引かれる。撃鉄が落ち、耳をつんざくような火薬音を鳴らして黄櫨色の弾丸が撃ち出された。

 アスウィシは目を細めて、やれやれと笑った。弾丸の行く手は茶色の砂の壁によって遮られていた。


「ありがとう。避けられないこともなかったけど、助かりました」

「とげのある言い方だな。だがこちらこそ、魔法を使えるようになって助かった」


 クーハが人差し指で額をとんとんと指して言った。肩の傷に障ったようで、苦痛で顔をしかめている。


 菅原を囲って五本の石の柱が地面から突き出した。菅原は魔法を行っている張本人を直ちに判断し、クーハを狙って引き金を引いた。しかし何も起こらなかった。銃身が根元から折れ、マガジンが銃床の下から落ちる。

 枯れた草に覆われた地面にひびが入り、砕けて砂に還る。菅原が足をすくわれ、よろめいて倒れた。


「この原人共ッ。畜生、畜生め――!」


 菅原は悪態をつきながら顔を上げた。目を閉じた少女が、屈んで自分を覗き込んでいるのに気づいた。歴戦の直感で危険を察知しているが、目を逸らすことができない。

 死神の両瞼が開く。両者の目が合った。


 残された山崎は逃げるわけでもなく、攻撃するわけでもなく、ただ慌てていた。死神とアスウィシが拳を構えて襲いかかる。


「一次視覚野の活性、魔術の使用。いや、運動野も活性――。これは……、えぇと」


 両者の拳が横面と鳩尾を捉える。肥満体が回転しながら宙を舞った。


 死神とアスウィシが顔を見合わせた。両目を露出しているが、この一年間である程度制御する術を学んだため、いたずらに魔力や生命力を削ることはなかった。


「邪眼を治してくれて、ありがとう」

「いえ、こちらこそありがとう。あなたがいなかったら厳しい戦いでした」

「えへへ。アスウィシもクーハも大好きだから、助けるのは当然だよ」


 死神が照れ臭そうに鼻の下を擦っている。アスウィシは微笑みを止めて目を逸らした。


「私には好かれる資格なんてありません。あなたを苦しめてきた人間の一人なんですから」


 死神は不思議そうに顔を傾けた。


「――あなたを洗脳する技術を供与したのは私です」

「へー」

「へーって……」


 きりりと眉を上向きにして罪を打ち明けようとしていたアスウィシは、出鼻をくじかれ情けない顔をした。


「私がいなければ、長い間地下に閉じ込められることもなかったかもしれないんですよ? 私のことが憎いでしょう? 妬ましかったでしょう?」

「それは――、ちょっとだけ」


 死神が目を伏せて答えた。アスウィシは聞きたかった言葉を耳にしたのにも関わらず、緊張した様子で息を呑んだ。


「でしょう?」

「でも、昔より今の気持ちが大切だって、フィオが教えてくれた。アスウィシは優しいから好き。それでいい」

「死神さん……」


 顔を上げた死神は、とびきりの笑顔を浮かべていた。フィオの助言は実体験に基づいたものであることを、彼女は知らない。

 アスウィシは眩しそうに少女の顔を見た。


「おぉい、俺の傷も治してくれ……。あ痛っ」


 クーハの情けない声が耳に届く。二人は自然と笑い合い、彼の治療に向かった。




 菅原が死んだことで、防衛の第一段階の要だった死神とクーハが復活した。エアケントニスと高妻事務所の魔術師達が負けるところを見ていた兵士から動揺が伝わり、阿部警備側の戦意は急激に下がっていた。二人を恐れてのことか、ルクア率いるオナキマニム軍の猛攻のお陰か、徐々に後退を始めている。


「……何を恐れることがある」


 青木さんの遺体につけられていた無線から、老人の声が聞こえてきた。よく通る声で、機械越しでも覇気を感じる。私はその声を聞いたことがあった。阿部警備のシーイーオー、阿部泰雲。私の腕を切った忌々しい男だ。


「戦線に復帰した強大な二人を恐れるか? 否。奴らの魔法は広範囲であり、自陣近くでの使用は味方を巻き込む。既に懐に入った貴様らには通用しない。では、守備隊の魔法を恐れるか? 否。火炎の球が勝るのは射程のみ。貴様らの魔術と技術は、奴らの魔法を圧倒している。――進め。退くより進むが易し」

「お、ウォォ――!!」


 泰雲の叱責を受け、阿部警備の魔術師や軍人が声を荒げ、再び前進を始めた。


 彼の言っていた通り、クーハや死神の魔法を味方の周辺で使うことはできない。魔術が魔法より強いというのは誇張だが、適切な分析力だった。厄介なのは泰雲だった。彼がいる限り戦争は終わらない。

 指揮を執る立場の人間は、被害を受けない場所から、悠々と見下ろして戦況を見守っているものだ。チヒロの家の方向を眺め、辺りを一望できそうな低い山に目星をつけた。


「こっちのことはよろしく。俺は泰雲を止めてくる」

「無茶よ、よしなさい。小宇宙でコテンパンにやられたことを忘れた? 私ですら、あいつがどんな魔術を使っているのか分からなかったのよ?」


 声をかけられたチヒロは顔をしかめていた。

 泰雲は、詠唱を行うことなく、魔法陣を見ることなく、魔術を見せることなく私の腕を切断した。各地の事務所の魔術師達とは格が違うのは一目瞭然であり、私達は逃げ帰るのが精一杯だった。しかし私はこの一年という期間で、得体のしれない敵と戦う力をつけることができたと信じている。


「魔術なら、多分分かった。もう遅れは取らないと思う」

「……『多分』とか『思う』とか煮え切らないわね」


 眉間に深い皺が刻まれ、チヒロの綺麗な顔が台無しになっている。フィオも緊張した空気に気付いて近づいてきた。


「あたしも行くぞ」

「いや、一人で行くよ。フィオはルクアさんと合流してくれ。副騎士団長が切り込んだら、兵士達に示しがつかないだろ」


 不満そうに頬を膨らませているのを無視する。


「それなら、私はついて行っても構わないわね?」

「いや、駄目だ。泰雲の魔術は、味方が多ければ勝てるなんていう単純なものじゃない。俺一人で行かせてくれ」


 チヒロから返事はない。私達は無言で視線を交わした。全てを見透かすように、くっきりした眼が揺らぎなく私を見つめている。

 どれくらいの時間、見つめ合っていたのだろうか。チヒロが肩の力を抜いた。


「その様子だと、本当にあいつの魔術が分かったのね。……分かった。不利になったら、すぐに城内に転移するのよ?」


 三次元間干渉の魔法陣が描かれたカードを顔の前にかざした。


「あぁ。戦争が終わったら、また会おう」


 心配そうな表情を隠せていないチヒロが頷いた。名残惜しそうに近寄りながらフィオが頷いた。私は、このくだらない戦争を引き起こしている元凶のもとへ向かう。




「久しぶりだな。今更協力すると言っても遅いが、何をしに来た?」


 白髪の頭。白い鈴懸。白い手甲と足袋。岩場になった山頂から戦局を見守っていた白い男は、振り向かずに口を開いた。

 私は汗ばんだ手で魔法陣のカードをしっかり握り、歩みを進めた。


「協力するつもりなんて毛ほどもない。戦争を終わらせる為に来た」

「吹くな。前回のあれでは、痛みが足りなかったと見える」


 泰雲が錫杖を持ち上げたのを見て、私は走り出した。

 手の中にあった錫杖が垂直に下ろされ、岩に打ち付けられた。六個の輪形の飾りがしゃんと音を鳴らす。


 思った通り、あの金属音は魔術の合図のようだった。視線を下げて自分の体を確認したが、両腕は無事だった。


「お前の魔術は、愛さんと同じエネルギーの転移だな。もっとも、転移元のエネルギーを自分で生み出すことができるから、同じとは言えないのかもしれないけど」


 愛さんの魔術は魔法陣で指定するエネルギー源の他に、ダイナマイトの火力や拳打の衝撃が必要だった。しかし泰雲の魔術ではそういったものを使用している形跡はない。エネルギー源を直接攻撃に変換している可能性が高い。


「見立ては悪くないな。私は『原因と過程を抜き去り、直接結果をもたらす』魔術だと考えている。ならば、錫杖の音が詠唱と魔法陣の働きを兼ねていることは気づけたか?」

「何となくな!」


 痛くも痒くもないようで、あっさりと敵から教えてくれた。勝ち誇った気になっていたのでショックを受けた。

 本当は錫杖の音なんて、合図になっているくらいにしか気にかけたことがなかったが、癪なので気付けていたことにしておいた。単純な音一つが詠唱と魔法陣の代わりなんて、一体どういう仕組みになっているのだろう。


 泰雲が錫杖を持ち上げ、地面に打ち付けた。私は慌ててその場から離れて避けた。


「攻撃自体が見えなくても、一点のみの攻撃ならタイミングさえ分かれば避けられる」


 一年前は恐ろしい魔術に思えていたが、ネタが分かれば大したことはない。まだ、魔法弾や水の刃などのように時間的に連続した攻撃の方が対処が困難に思える。

 二枚のカードを片手で持った。さらに小さな鏡を腰の横に生み出し、手を突っ込んでトカレフを取り出した。その後も鏡は浮かべたままにしておく。


「火から土を、粗雑なるものから精妙なるものを分離せよ。これあらゆるものの中で最強の力なり……我が月は塔の上の見張りに立ち、我が太陽は全てが生まれ変わる泉――」

「ほう、交響詠唱ダイナミックリンクか。魔術師としても腕を上げたようだな」


 こちらの思惑もばれているが、止める気はない。交響詠唱ダイナミックリンクによる無数の刃と三次元間干渉の重ねがけ。


「我が息は墓場の塵を芽吹かせ、我が王冠は贖罪所を包み込む。ケルビム達の頭上を天翔けるもの!」


 様々な方向に鏡面を向けた百個の鏡が山頂を覆う。光の縁に照らされ、辺りが一気に明るくなった。

 泰雲の足元で、大きな鏡が口を開ける。不敵な笑顔を浮かべていた男は、抗わずに鏡面に吸い込まれていった。

 逆さまになった老いた顔が宙に浮いていた。続いて、真っ白な鈴懸に覆われた胴体と脚半を纏った脚も鏡面から姿を現した。泰雲が空から落ちてくる。


 銃口を地面に向けたままトカレフの引き金を引く。人差し指を忙しく曲げて、八発の全弾を撃ち尽くす。

 鏡面を通過した銃弾が、百の鏡の中を転移する。無数の方向から鉛の塊が飛び交う。無防備な泰雲の体を、何度も弾丸が貫いた。

 血まみれになった老身が、どさりと地面の上に転がった。礫の間を沿って、どろりと粘性のある血が広がった。

 私はトカレフの銃口を泰雲に向けて、鏡に指示を出した。空中で静止していた百個の鏡が向きを変え、空を滑って押し寄せる。白い烏が死骸に群がってついばむように、光が集って遠くまで血しぶきを飛ばした。


 私は血肉の塊に背を向けた。

 戦争は終わった。こんなに損傷したら、小宇宙の進んだ医術でも、アスウィシの秘術でも治療することは不可能だろう。


「――良いぞ。それでこそ我々の欲していた、次元間干渉の魔術だ。ごふっ、……実に素晴らしい」


 泰雲だったものが、絶え絶えで苦しそうな声を上げた。喉に血が溜まっているのか、時折奇妙な水音を立てている。


「金剛界。オン・マリシエイ・ソワカ――」


 詠唱も魔法陣も必要としなかった男が初めて行った詠唱の声を聞く。慌てて振り向いた。




 泰雲は立っていた。全身に突き刺さっていた鏡は消えており、血の跡はもちろん、切創や銃創まで無くなっている。治癒でないことは、穴の開いていない鈴懸を見れば分かる。

 私は呆然としてトカレフを見つめた。私は本当に、この銃の引き金を引いたのだろうか。今まで幻でも見ていたのだろうか。


「胎蔵界。オン・サン・ザン・ザンサク・ソワカ」


 泰雲が続けて詠唱している。私はぼんやりしていて、走って避けようなんて考えつかなかった。

 トカレフに合っていた焦点が、自分の着ている麻の服に移る。いつの間にか腹部に、四角を基調にした魔法陣が描かれていた。


 泰雲が錫杖を持ち上げたのが見えた。私はようやく正気に戻り、地面に打ち付けて鳴らされたのを見て走り出した。


「がは?!」


 近くで醜い悲鳴が聞こえた。誰の声かと考え、すぐに自分の声だと気付いた。無防備だった鳩尾に打撃を受け、肺の空気を漏らしていた。


「どうした? 攻撃自体が見えなくても、一点のみの攻撃ならタイミングさえ分かれば避けられるのだろう?」


 泰雲は勝ち誇ったように笑って、さらに錫杖を打ち鳴らそうとしている。


「ケルビム達の頭上を天翔けるもの!」


 しゃんと錫杖が鳴った瞬間、生み出した鏡面を通って泰雲の背後に逃げた。


「無駄だ」


 白い背中が声を出した。

 視界がぐるんと流れた。可動範囲以上に首が回り、骨を通して嫌な音が聞こえた。うつ伏せに地面に倒れ込む。殴られたみたいに頬が熱かった。


 服に魔法陣を描かれた途端に、魔術を避けることができなくなった。ミサイルが熱源に向かうような、誘導の役目を持っているようだ。

 手で擦って魔法陣を消そうとしたが、何のインクで書かれているのか全く消えなかった。上着を脱ぎかけたが、皮膚の上にも同じものが描かれていることが分かり諦めた。


「さぁ、永田和真。どうする。次は斬撃を当てるぞ」


 斬撃――。零れ落ちる赤い血液と痺れるような激痛。腕を切られたときの光景と痛みがフラッシュバックする。額と背中から汗が噴き出した。


「ほ、星煌く天は我が顔、海は我が胴、大地は我が足、風が充たすは我が耳、輝く光を遠矢に射る太陽は我が目なり。我は汝に啓示を与えるものッ!!」


 早口で詠唱を行った。錫杖を振り上げた泰雲は鏡の立方体に呑み込まれ、小宇宙へと転送された。

 しゃんと、錫杖の音が聞こえた気がする。私は屈んで、震えている自分の体を両腕で抱きしめていた。


 しばらくしても、私の両腕は切り落とされることなく残っていた。ほっと息をついたところ、別のことに気を払う余裕が出てきた。風の音に混じって、戦火の咆哮が耳に届く。

 泰雲を小宇宙に送っても、しばらく時間が稼げるだけである。倒さなければ戦争は終わらないし、解決しない。

 トカレフを持った手が震えていることに気付いた。指先に力を入れて止めようとするが、抑えられなかった。


 トカレフの装填をしようと思い、マガジンを取り出した。しかし銃弾は八発入っており、全弾撃ち尽くしたはずだが数が減っていなかった。




 ラワケラムウの前で繰り広げられている戦乱を、森の中から一人離れて眺めている男がいた。黒い羽織と着流し、黒い足袋、黒い手甲を身に着け、木々が生み出した闇に紛れている。阿部警備保障の社長、阿部晴雲である。

 敵や味方の掛け声が森の中まで届いている。泰雲の叱責を受けたお陰で、軍隊や魔術師達の士気が高まっていた。一時は撤退間近まで追い詰められていたが、今は戦況は五分である。


「あの状況から本当に巻き返すとは。……さて、そろそろ私の出番ですかね」


 晴雲が泰雲から受けていた命令は、戦局が硬直した時に出陣しろというものである。彼はてっきり出番なく戦争が終わってしまうと思っていたので、この変化には驚いていた。泰雲の言葉は作戦というよりも予言に近い。経営者が代替わりするのはまだまだ先なのだと実感した。


 晴雲は部下に指示を出し、地面の上に三つの風呂敷包みを並べさせた。部下は続けて風呂敷を解いて、中から干物のようなものを取り出した。

 一つ目は、綺麗な金色の毛に覆われた哺乳類の尻尾だった。古いもののようで、根元は乾燥して黒く変色してる。

 二つ目は、汚らしい丸い塊だった。首の断面を見れば、それが人の数倍はある巨大な頭部であることが分かる。白く硬い角のようなものが皺くちゃになった皮の間に覗いている。

 三つ目も、干からびた頭だった。先程のものよりは少し小さく、色は不気味なほど黒い。口と思しき切れ目から、二本の曲がった牙が剥き出しになっていた。

 地面の上に並べられているのは、獣の遺骸だった。千年近くも前に平等院の宝物倉に収蔵された、国宝に指定されていてもおかしくない歴史的価値のある文化財である。もっとも、明治の時代に古社寺保存法が制定された頃には、それらは阿部警備保障の所有物になっていた。


「謹上再拝、敬って申し奉る」


 魔法陣が紙一杯に描かれた巻物を広げて、晴雲が詠唱を行う。三つの干物が呼応するように、ぴくりと動いた。


「たとえ定業限命なりとも、抜苦与薬のまゆをたれ、一たび蘇生させたべと、肝胆くだきひたたれをあせに浸して、祈りける」


 遺骸の上に浮かび上がるようにして、真っ白な棒が突き出した。円柱状の椎骨が椎間板を挟んで組み合わさり、弓のようにしなったそれは脊椎だった。

 詠唱が進むにつれ、椎骨から一様に弧を描いた十二対の肋骨が生える。骨盤が形を成す。上腕骨。大腿骨。次々に骨格が生み出されていく。


「――急々如律令」


 完成した骨の間に臓器が詰められ、筋肉がシルエットを形作っていく。血管や脂肪に覆われた、赤みがかった体表に皮膚が張られて三体の獣が完成した。


 従順に頭を垂れて晴雲に撫でられているのは、九本のふさふさの尻尾を生やした、大きな金色の狐である。大宇宙では莫大な魔力を使って殺戮を繰り返し、小宇宙に行った後も、中国では斑足王や幽王を騙して悪行を尽くし、日本でも鳥羽院を呪い殺そうと画策した最上位の獣。白面金毛九尾の狐、玉藻前。

 片膝をついて命令を待っているのは、五種の体色、十五個の眼、五本の角を持った巨大な鬼である。圧倒的な力で獣と人間を従えていたが、ある日を境に大宇宙から姿を消した最上位の獣。その後も小宇宙では大酒を飲んで暴れ、貴族の姫君を誘拐しては喰らっていた。大江山の鬼の頭領、酒呑童子。

 両手に握った二本の日本刀の調子を確かめているのは、炭のように黒い体をした三つ目の鬼である。大宇宙では持ち前の悪知恵で獣達を動かして悪さをし、小宇宙に行った後も鈴鹿山を拠点に天災を起こして暴れ回った最上位の獣。文武に長けた不死の鬼、大嶽丸。


 晴雲の魔術は、遺骸と伝承を元に生物を一時的に蘇生させる。日本三大妖怪は、彼の最強の手駒だった。


「さぁ、侵攻を始めましょうか」


 三体の獣は頷き、森を抜けてラワケラムウへと向かった。

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