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0001:新たに刻まれた境界

 その公園は、天災がまとめて訪れたかのように荒らされていた。車止めのポールは潰れて意味をなしていない。滑らない滑り台も同様である。ソメイヨシノやケヤキは根元から折れてそこらじゅうに散乱しており、花見の情景は見る影もない。

 回転遊具がサッカーボールのように蹴り飛ばされ、砂場に巨大な三本指の足跡が刻まれた。

 これは青年が力を手にする一ヶ月前にあった、ある秋の出来事。


 男はその脅威の正面に立つと、右手をヒップバッグに差し入れ、三本のダイナマイトを指の間に挟んで取り出した。ジッポーで全部の導火線に火を灯し、空高く放り投げる。

 続いて取り出したのは、直線や円がたくさん描き込まれたカードだった。顔の前にかざして模様を目に焼き付けた。


「攻城兵よ来たれ、メティスラー!」


 男が呟いた途端に、自由落下を始めていた三本のダイナマイトが進行方向を変え、紅の体に向かって滑空を始めた。

 タイミングは絶妙だった。到達した瞬間に火薬に火が入り、ダイナマイトは爆発した。轟音が鳴り響き、公園の土が巻き上がる。男はカードを持った手を下ろした。


「……まじかよ?」


 土煙が収まると、中から赤い体表が露わになった。金属光沢をもった鱗には傷一つ残っていない。男はうろたえた。


「撤退だ! 一旦退却するよ!」


 上司が声を張り上げている。男と女は背を向けて走り出した。

 紅の体が翻り、男の頭上に尻尾を振り下ろす。女が振り向いて手を突き出した。手の平を向けられた尾は、見えない壁に遮られたかのように突然動きを止めた。

 ほっと息をついた女のもとへ鉤爪が迫る。


「フェイント?! こいつ、知能が……」

「愛――!!」


 女を庇った男の肩を、鋭い弧を描いた三本の爪が抉る。容易く肉を裂き、骨を削る。土の上に鮮やかな赤色をした血が飛び散った。




 寝起きのぼんやりした頭を、なんとか流し台の前まで連れて行く。マグカップに紙のドリッパーを載せ、コーヒーの粉を大雑把に入れてからポットのお湯を注いだ。落ちるのを待つ間に、リモコンでテレビの電源を入れる。アナログと文字の入ったフレームに、脂ぎった顔の中年男性がドアップで現れ、少し萎えた。

 淹れたてのコーヒーを口に含み、いつものインスタントとは異なった少しだけリッチな気分を味わう。


 将来の夢は「サッカー選手」、「お花屋さん」だなんて、とびきりの笑顔を浮かべて話していたのは、いつのことだったろう。早く大人になりたいと願い、親が苦笑いを浮かべているのを不思議に思っていたのは。


 テレビのニュースでは、揚げ足を取り合う与野党が取り上げられている。軽率にも「どうでもいいこと」を口走ってしまった今しがたのおじさんが、テレビカメラとインタビュアーを避けて黒塗りの車に乗り込んでいった。タレントを感じない世襲政治家ばかりで構成された政権と、文句や恨み言だけで何も行動に移さない国民は相性抜群で、国会は忙しない椅子取りゲームと化している。

 続いて取り上げられた就職氷河期は、来年就職活動を控えている私にとっても動向が気になるところだ。デフレスパイラルだなんて、いかにも悪い名前をした経済現象は改善の兆しを見せているらしいが、休日にもかかわらずシャッターが下りたままになっている店や、橋の下に広げられたブルーシートを数えている限りはとてもそうとは思えない。先端に重りでもぶら下がっているかのような景気動向指数グラフを見せられて、安心しろというのが無理な話だ。

 その後も、これでもかとばかりに、テロ、自殺、火災と暗いニュースが続いた。最後の動物のコーナーで、少しだけ和んだ。


 思い描く将来像が曇って見え始めたのは、いつからだったろう。夢なんて言葉を口にするのが、とても恥ずかしいことに思えてきたのは。あの苦笑いの本当の意味を理解したのは。

 人々が悲観する原因はおそらく、見失った目標。かつて生活の質の向上を目指して一丸となった世界は今、何処を目指して進んでいるのだろう。争いの無い世界、皆が幸せに暮らせる世界なんていうのは、目標にならない夢物語なのだろうか。


 いつの間にかテレビでは、次番組であるドラマが始まっていた。

 ため息をついて窓の外に視線を移した。いくら偉そうなことを思い描こうとも、自分とて何も行動しない、何もできない人間の一人に他ならない。権力、武力、経済力――。もしも世界に訴えかけられるだけの力を手にしたなら、行動を起こすことができるだろうか。

 遮られることなく降り注ぐ光に照らされた屋根瓦が眩しい。公園では雀が盛んにさえずって、忙しく何かをついばんでいる。今日も暑くなりそうだ。葉桜の並ぶ、二年間見続けている代わり映えのしない景色を背景に、××××が悠々と空を飛んでいった。




 学生の見当たらない通学路の坂道を、息を切らせながら勢いよく自転車で駆け上がっていく。後ろからクラクションを鳴らされ、車道の脇に寄った。

 信号にひっかかり、舌打ちしながら携帯電話を取り出した。表記された時刻は、一限目が始まってから既に二十分も過ぎてしまったことを示している。まったく、朝から黄昏ている場合ではなかった。代筆してくれていると助かるのだが、村田に送ったメールには返信がない。

 携帯をズボンのポケットにしまう。なかなか変わらない信号に痺れを切らして、ハンドルを住宅街に向けた。道が狭く見通しが悪いので普段は敬遠しているが、今日は異様に――いや、幸い車や人の通行量が少ない。流れていく石壁、家々の間を快調に走り抜けていった。


 十字路に差し掛かり、ブレーキをかけて徐々にスピードを落とし始めた。ここを曲がれば、まもなく大学前の道に合流できる。急ハンドルを切り、体を横に向けた。

 突然ペダルが不自然に軽くなった。しゃかしゃか音を立てている足元を見ると、車輪がアスファルトから離れている。重力から開放されたような気がしたのは、やっぱり気のせいで、自分のおかれている状況が分かったのは地面と平行になってからなわけで、直後、行動をとる余裕もなく車体と共に地面に叩きつけられた。思わず苦痛の声を漏らした。


 先に地面に打ち付けた尻が痛いが、頭が何ともなかったことはせめてもの救いだろう。痛みを我慢して自転車を起こしながら立ち上がった。腕にできていた擦り傷を舐める。滲んだ血に無数の小さな小石がくっついているのを見て、気分が滅入った。

 曲がる時には見えなかったが、車にぶつけられたのかもしれない。いや、ぶつけたのかも。こういう時はどちらの過失になるのだろうか、なんて考えながら憂鬱な気持ちで振り向くが、やはり道の四方に車の姿は無かった。

 べちゃりと、液滴がアスファルトの上に落ちた。雨だろうか。宙を振り仰いで視線を移すが、上空は気持ちのいいくらいに快晴模様だった。この清々しい景色のせいだろうか、急速に自身が広がっていくような感覚がある。それだけならただの自然への感動体験で済むのだろうが、同時に吐き気がひどくなっていた。

 ……不安。この場に無関係なはずの二文字が脳裏にちらつく。何も無いはずの宙から目を逸らすことができない。


「――シュ――」


 それは何度目だったか。聞こえてくる煩わしいものを目覚まし時計の音だと認識する、朝の一時に似ている。耳が圧力の変化を捉え、ようやく生々しい音への変換に成功した。口端から吐き出される息。もう聞き逃すことはできなかった。


 ――そして私は、十字路の真ん中に立つ異分子を認識した。


 四肢を伸ばし悠然と地面に立つ、炎みたいに鮮やかな赤い色のライオン。象並の巨体はごわごわした毛並みで覆われており、長く太い尾の先には鋭い無数の棘が生えている。黒ずんだ紅の口内には、三列に並んだ牙が覗いている。いずれも内側に曲率をもっており、あんな口で噛み付かれたら、ブラックホールにでも吸い込まれたみたいに二度と引っ張り出すことは出来ないだろうと思った。

 生物の外形は、その環境で生き残るために進化して得た極地の形態である。だとすれば目の前のこの怪物は、一体どんな過酷な環境で生活してきたのだろう。突然姿を現したこともそうだが、他と隔絶したその禍々しい姿にぞっとする。

 顔周りの筋肉が発達しており、刻々と変わる表情にはどこか人間の面影がある。そこから心情を判断するのなら、憎悪をもってこちらを睨んでいるようだった。

 下半身の力が抜けて、すとんとその場に座り込んでしまった。横で自転車が騒々しい音を立てて倒れた。


 化け物がゆっくりと片足を上げた。毛皮の下に浮かび上がる、絡み合った筋肉の隆起は金剛力士像を想起させる。足首は木の幹みたいに太く、五本の鋭く反った黒い爪が覗いている。

 地面を伝わる衝撃が脳髄まで届いた。四方に飛び散った黒い瓦礫が、壁に当たって跳ね返る。眼前に下ろされた太い足の下でアスファルトが陥没していた。


 『ピンチ』の三文字が頭の中で点灯を始める。自分が危地に立たされていることを、ようやく身をもって知った。次は当てるぞとでも言いたげな、握りこぶし大の黒目に見下ろされている。

 短い悲鳴を漏らして、必死に後退しようと体を動かす。手足の動作が上手く噛み合わず、じたばたしているだけでなかなか化け物から離れることができない。

 化け物がもう一方の足を上げた。今度こそ、あの臼みたいな杵で潰されるのだと確信し、気が遠くなった。


 足を振り下ろす素振りを見せた――まさにその時だった。既に怪物の目は私を映してはいなかった。機敏な所作で道の中央まで飛び退き、何かに向かって低い声で唸り警戒心をあらわにする。

 助かった、のだろうか。思い出したみたいに急に汗が噴出し、また傷が痛み出した。


「大丈夫かい? 立てそう?」


 無気力に、声の聞こえた方を振り向いた。いつからそこにいたのか、温厚そうな顔をした白髪交じりのおじさんが私のことを見下ろしている。頷いて立ち上がろうとしたが、膝に力が入らずまた座り込んでしまった。


「あぁ、いいよいいよ、そのままで。悪夢はすぐに終わるから」


 おじさんが顔を上げる。つられてその視線の先を追った。

 二人と一匹が見つめる中、軽やかで楽しげな足取りを思わせる、ブーツのヒール音が響いた。あの化け物が警戒するなんて、どんな魔獣が出てくるのかと思いきや、なんてことはない。歩いてきたのは女の子だった。化け物の前で進行方向を変えて対峙したその後ろ姿は、キャンパスで目にするような、ニットワンピースを着こなした普通の女子大生である。

 今まで見受けたことのない、奇怪な光景が目の前に広がっている。例えるなら、『美女と野獣』? ――確かに女の子は可愛い顔をしていて美女に含まれるのかもしれないが、そんなロマンチックなものではない。『飼育員と動物』? ――いやいや、それでは関係が逆さまだ。そう、直感は『餌と捕食者』だと告げている。

 女の頭上めがけて、針に覆われた尾が振り下ろされる。まるで雷に撃ち抜かれたようにアスファルトが砕けた。

 一瞬の出来事だった。言葉が出てこず、引きつった声で悲鳴を上げた。


「あ、あの娘、潰され……」


 隣で怪物を眺めていたおじさんに向かって、身振り手振りで必死に訴える。あの娘の知り合いだったようだが、彼はいたって冷静に一点を見つめ続けていた。



「五月蝿い。その部外者黙らせておいて」


 声は十字路の中央から返ってきた。再び怪物に視線を向ける。攻撃の衝撃で巻き上がっていた塵煙が晴れていた。

 怪物の赤い尻尾がピンと伸びきっている。その先、針のうちの一本を女が掴んでいた。


「いやぁ、そういえば元ブロッカーだったよね。僕もちょっとだけドキッとしちゃった」


 おじさんが場に似合わない陽気な声で笑う。

 よくよく地面を見てみると、女を避けるようにして円弧状にアスファルトが砕けていた。直撃したと思ったあの攻撃を、どうやってか避けていたらしい。


 女が腰にぶら下げたヒップバッグに手を入れ、円筒形の物体を取り出した。側面は光沢の無い茶色の紙で包まれ、片端には短い紐が垂れ下がっている。

 あれは何だ。脳内で候補に挙がった棒的な菓子もバトンも、すぐに却下された。


「我が声を聞け、彼に従いて街を往け」


 女が自分に言い聞かせるような小さな声で呟きながら、もう一方の手でジッポーを取り出し、流れるような動作で『導火線』を炙って火をつけた。花火にしては包装が味気ない。まさかとは思ったが、あれはダイナマイトだ。

 小さな火花を散らして導火線が短くなっていく。にもかかわらず彼女は怪物に投げつける素振りも見せず、しっかりと筒を握り締めていた。さっさと手放して逃げればいいのに、何かトラブルがあったのだろうか。あのままでは怪物諸共、爆発に巻き込まれてしまう。

 隣に立っているおじさんをすがるように見上げる。この位置だって安全ではないかもしれないのに、彼は相変わらず平然としていた。

 彼女に視線を戻す。黒いアームカバーの手の甲の部分に、白い円状の模様が描かれていることに気付いた。


「我が聖域から絶滅せよ、――執行!」


 ダイナマイトに火が入る。耳をつんざく轟音が大気と地面を揺らし、建造物を軋ませる。瞬間、コンクリート塀に粘りつく赤い液体が噴き付けられていた。

 鼻につんとくる臭いが立ち込める。破片がぼとぼと音を立てて顔からこぼれ、アスファルトの上に溜まっていく。活力を失った巨体、顔の砕けた怪物が倒れて横たわった。




 立ち上がって尻についた土を払った。なぜこんなところに座り込んでいたのか、よく思い出せない。夢でも見ていたみたいに頭がぼんやりしている。自転車を起こし、ブレーキレバーを引いて壊れていないか確認してみた。


「ここで見聞きしたことは早く忘れた方がいい。いいね?」


 横から、温厚そうな顔をした白髪交じりのおじさんが話しかけてきた。

 自分の思考にデジャビュを感じる。そう、先程も彼と会話を交わした気がする。覚えていないということは、大したことは話していないのだろう。大人しく頷き、十字路に背を向けた。

 ふと、足元に小汚いソフトボールが転がっているのを見つけた。見た目のこともあるが、直感的に不快に感じ、あまり触りたいとは思えない。しかしながら、あのおじさんの物だとすると、このまま通り過ぎるのも気まずく感じる。仕方なく、濡れてぶよぶよしたそれを拾い上げた。


「コレ、あなたのですか?」


 振り向きざまボールを放り投げる。おじさんはオーバーに驚いて受け取ってから、苦笑いを浮かべて「ありがとう」と言った。




 扉をゆっくり開けて中の様子を確認する。講義室では、まばらに座る学生達が机の上に広げられたルーズリーフにシャーペンを走らせていた。なんとか欠席だけは免れたようだ。

 頭を低くして部屋に足を踏み入れるが、今更何しに来たんだという呆れた視線を四方から感じた。それもそのはず、授業は終わっていたようで、教授が黒板に宿題を提示している。

 隅っこの席に見知った顔を見つけ、空けてもらった横に腰掛けた。


「社長出勤とは頼もしいな、テスト前はよろしく。……あぁ、代筆代は缶コーヒーでいいや」


 入学当時からの友人である村田が、黒板から目を離さずに言った。××××××に会ったのは運が悪かったが、こいつには本当に感謝。




「この、刺身の上にタンポポをのせる仕事なんてどうだ?」

「――ちょっと気になるけど、パス。お前がやれよ」


 痛恨の欠席から三日後。私は村田と共に家でだらだらしながら新しいアルバイト先を探していた。奴はソファーに腰掛けアルバイト雑誌をめくっており、たまに微妙な仕事を紹介してくる。徐々に減り続けている求人だが、今週は特にひどく、この近辺は二ページ分しか掲載されていなかった。

 男女雇用機会均等法なんて国は銘打っているが、現実には性別による適不適があるわけで、暗黙のうちに半数は選択肢から除外される。私もネットで検索を試みているが、結果は同様で、なかなか目ぼしい仕事が見つからなかった。


 しばらくは短期で繋ごうか、なんて思いながら何気なく開いたページのハイパーリンク先に、妙な表示があった。

 給与、アクセス欄には何も記載されていない。一方、勤務内容には『営業事務時給850円から急募モノレール高妻駅徒歩5分』云々と表示されていた。要するに、入力を間違えたようで、募集要項を一箇所に書き込んでしまっている。勤務地は近場なのに、どうりで検索にヒットしていないわけだ。


「熱心に見てるけど、本当に大丈夫なのか、そこ?」


 いつの間にか村田が後ろからパソコンの画面を覗き込んでいた。

 場所は自転車で通える射程圏内、期限はまだ有効、勤務内容と時給はそれほど魅力的ではないが、妙な縁にどこか心惹かれるものがある。


「待遇が良かったら紹介しろよ」


 この男は気が早いことに、もう私が働くことを前提にして話している。まぁ人のことをよく分かっているというか、私は面接を受けてみるだけ受けてみようと思っていた。




 訪れたビルは、壁面の塗装が剥がれコンクリートが露出した古びた建物だった。狭い階段を上り二階へ。カラオケパブと焼肉屋の間を通り、突き当たりの区画で足を止める。壁には『阿部警備保障 高妻事務所』と書かれたプレートが掲げられていた。

 携帯のサブディスプレイを見ると、指定された時刻の五分前だった。丁度いい時間だ。前髪を整え襟を正して気合を入れる。

 ドアをノックする。アルミの扉が予想以上に大きな音を立てた。

 ワンテンポ遅れてから、「はーい」とドアの向こうからやる気の無さそうな男の声がした。寝癖の直りきっていない頭に、のんびりした表情、傾いた眼鏡。ドアの隙間からにょっきりと覗いた顔は、見事に声と一致していた。年齢は私よりも年上、三十前くらいに見える。


「すみません、一時からこちらで面接を受けさせて頂く予定になっている永田です」

「あぁ、はい。聞いてますよ。どうぞ中へ」


 男がドアを大きく開いて促してきた。シワだらけのTシャツにジーンズなんていう格好が、さらにだらしなさを強調している。ビジネスカジュアルをしてきたのが場違いに感じてきた。彼に会釈をして事務所の中に足を踏み入れた。

 部屋はビルの外観から想像できる通りに狭く、どこか圧迫感を感じる。それもそのはず、椅子が動かせないくらいの間隔で机が四台積み込まれ、大きな印刷機と棚は防災の条例に引っかかりそうな配置になっている。

 机には、肩にかからない程度のショートカットをした女性しか向かっていなかった。釣り目がちできつそうな顔立ちをしている。まだ幼さが残った雰囲気から、大学の一回生ではないだろうか。胸の名札には栗原と書かれているが、うちの大学で見たり聞いたりしたことはないと思う。こちらには興味ないといった様子で、黙々とキーボードを叩いている。その娘のしていた黒いアームカバーが妙に心に引っかかった。

 応対している男はドアを閉めた後、窓の方を向いて大きく息を吸い込んだ。名札には青木と書かれていた。


「ヤマシタさーん、面接の子」

「ごめん、今ちょっと手が離せないや。こっち来てくれるー?」


 振りの割りに普通のボリュームで張り上げられた声に反応して、ついたての陰から手が上がった。驚くことに、この部屋の奥にさらに机が一台詰まっているようだ。


「足元に気をつけて下さいね。……最初は馬鹿げた話だと思うかもしれないけれど、今は流し聞いていればいいと思いますよ」


 意味深なことを言って、青木さんは自分の席に腰掛けた。パソコンの壁紙がアニメチックな少女の絵だったのを見逃さなかった。


 しかしながら狭い。こう足の踏み場が無いと、忠告どおりに気をつけようもない。やっとこ椅子やらダンボールやらを跨いでいき、ついたての奥に辿り着いた。

 こちらに背を向けて腰掛けていたのは、紳士といった雰囲気の、なで肩で爽やかな身なりをした中年男性だった。最近あの白髪交じりの頭を見た気がするのだが、どこでだったか思い出せない。


「永田君だね。そこに座って」


 男は振り向かないまま、器用に丸椅子を指差す。机の上に積み重なった書類の整理が忙しいようだ。

 歩み寄るにつれて心の引っかかりが大きくなっていく。そうだ、この男性は、あの時慌てて受け取った男に似ている。――何を? ソフトボールを。いや、瞳を上に向けたあれはボールなんかではなかった。


 席に腰掛け、眼前の後頭部をまじまじと見つめた。もう少し、もう少しで、何か重大な記憶を掴み出せる。


 あんな晴れ空の下、水浸しになっていた十字路。黒い地面。濡れた石壁。漂う生臭さ。――生臭さ? 錆びた鉄の臭い。排泄物とガスの臭い。――どこからそんな臭いが漏れているのか? 一面の赤、アスファルトの上に溜まった血液に浮かぶ四肢。

 ひどく記憶が混乱している。横たわるライオンの巨体。眼前に振り下ろされる、木の幹みたいな太さの足。ダイナマイトを持った女。憎悪で歪んだ顔が削げ、一瞬で赤く変わる。……身に覚えの無い光景が脳裏に浮かぶ。前後関係が矛盾しないように画像を繋ぎ変え、五感の情報を加えて再構築していく。


 作業が一段落ついたようで、男が振り向きながら口を開いた。


「はじめまして、今日の面接の担当になっている山下です。まぁ、気楽な感じで進めていきたいと思っているんで、よろ――」

「あの時のおっさん!」


 思わず言葉を遮り、椅子から立ち上がって叫んでいた。おじさんは、化け物の目玉を渡した時と同じくらいに慌てていた。

 ――そして私は再び、異なる世界の姿を認識した。

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