第9話 もし、声が届くなら
……心のどこかで、何かがぽきりと折れた音がした。
それは希望か、誇りか、それとも――自分自身だったのか。
そのとき、端に座る王弟セイランがふと顔を上げた。
発言こそなかった。だが、ただひとり――彼だけが、遠くから私を見ていた。
一瞬だけ視線が交わるが、私はすぐに目を伏せた。
まるで、誰も気づかぬ私の痛みを――見透かされたようで。
拍手の音がなおも鳴り響く。
それは、私の中の“崩壊”を隠すように、世界を満たしていた。
ただ、自らの鼓動の音だけが――まるで拍手喝采を塗りつぶすように鳴り響いていた。
***
その夜。
理由は、自分でもよくわからなかった。
ただ、いつもより少しだけ――早く身支度を終えていた。
身に纏ったのは、いつもと変わらない、薄く柔らかなネグリジェ。
特別な意図があったわけじゃない。
けれど私は、ほんの少しだけ髪を梳いて、香をまとった。
(……もしかしたら、今夜だけは)
あのとき。
ソフィア様の懐妊が発表された日――
陛下が穏やかに微笑み、手を取られた、あの光景。
ほんの一瞬だけ。
私の心にも、わずかな光が差した気がした。
もしかしたら、やり直せるのかもしれない、と。
私はまだ、彼を愛しているの?
それともただ、“妃”としての務めを果たしたいだけ……?
(せめて――今夜だけでも)
……そう思ってしまったのだ。
ノックの音と共に、エルネスト様が入ってくる。
「……今日も、式典、お疲れだったね」
穏やかな微笑み。
そして、私の姿を見て――ほんの一瞬だけ、その目が止まった。
(……気付いてくださった?)
とくん。
心臓が跳ね、胸の奥で、ほんのわずかに、期待が膨らむ。
けれど。
「これからは……ソフィアには、これまで以上に優しくしなければならないね……アリステリア?」
その声は、あくまで柔らかで、優しくすらあった。
だが、次の言葉が、その温度を凍えさせた。
「――じゃあ、いつも通り、隣の部屋でゆっくり休んで。
無理はしないように。明日は早いから」
彼は振り返ることなく、再び廊下へと去っていった。
私は、その場に立ち尽くした。
なにも言えず。なにも考えられず。呼吸すら、うまくできなかった。
(……ああ。希望なんて、持たなければよかった)
心の底で、小さな鈴がひとつ――ひっそりと、小さな音を立てて崩れた。
それは、夫に対する、私の中の“光”の最後のかけらだった。
***
その日も、いつも通り、絹や肌が擦れ合う音と、絡み合うような吐息、
そして、いつもよりも甘くとろけるような声が隣室から漏れ響いた。
優しいどころか、むしろいつもより情熱がこもったその音が、私の愚かさを嗤っているようで――
私はベッドに横になると、自らを慰めるように小さく、丸くなった。
私は、その夜から手紙を書くことにした。
【蜜蝋】と【ラベンダーの束】の送り主に。
一言。
「いつも、ありがとう」と――それだけ。
声にできなかった想いを、文字にして。
誰にも見せられない、私だけの祈りとして。
セイラン殿下の瞳を思い出す。
侮蔑も、憐れみも、そこにはなかった。
ただ――、ほんの少しだけあたたかかった気がして。
そっと廊下側の扉の下に差し入れると――
翌朝には消えていた。