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第7話 昼の仮面と夜の地獄と

その瞬間――


私は、笑うことも、泣くこともできなかった。

ただ、空っぽの心で、白いテーブルクロスの模様を見つめていた。


ソフィア様は、もう一度、静かに微笑んだ。

その笑みは、春の陽差しのようにあたたかかった。

……だからこそ、私は何も言えなかった。


私は、ただ黙ってその人を見つめていた。

どうしても、そのまっすぐな瞳から目を逸らせなくて……。


ソフィア様は、若く、美しく、そして――あまりにも完璧だった。

慎ましく、優雅で、誰もが讃える“理想の王妃”。


けれど、この方は“王の后”。

後妻とはいえ、エルネスト様にとっては“義母”。


血のつながりがなくても、本来ならば――


……絶対に、許されざる関係。


それなのに。


裏切ったはずなのに、傷つけたはずなのに……。

どうして、そんなふうに微笑んでいられるの?

まるで、私の痛みにさえ寄り添うように――すべてを包み込むように。

これが……知りたくもなかった“愛の真実”だとでも?


……もしそうなら――

まるで私の方が、間違ってるみたいじゃない。


そんなの――あまりにも、残酷だわ……。


もし私が「昨夜、王妃様とエルネスト様がひとつの寝台で眠った」と告げたら――

きっと人々は言うでしょう。


「花嫁が新婚初夜の重圧で混乱したのだ」

「お優しい王妃様は、気を遣ってそばにいてくださっただけでしょう?」

「あの清らかな王妃様を侮辱するなんて……きっと若さと美しさに嫉妬しているのよ」


私の言葉は、誰にも届かない。

届いたとしても、それが正義を動かすとは限らない。


――人々は、穢れた真実よりも、美しい嘘を選ぶ。


そして、その“穢れた真実”に気づいてしまったのは、

たったひとり、私だけ――。


だから、私は黙るしかない。

黙って、笑って、食卓につくしかないのだ。


***


その日の晩餐会の前のこと。


「……何か、お困りごとは?」


セイラン殿下が静かに問うた。

その声は、誰にも聞かれぬよう、そっと低く――それでいて、あたたかだった。


「いえ。すべて、整っておりますわ」


自分でも驚くほど、声は穏やかだった。

嘘でも、本心でもない。ただ――“言ってはならない”ことを避けた言葉。

それが、この城で生きるための、唯一の術だと知ってしまったから。


セイラン殿下は、ほんの僅かに目を細め、

どこか懐かしむような眼差しで私を見つめ――

やがて、静かに頷いた。


***


その夜もまた、壁の向こうから――息遣いと、絹がかすかに絡み合う音が届いた。


女の吐息と、男の甘い囁き。


そして――夫の名を呼ぶ声と、

自分の名前ではない、女の名を呼ぶ声が、

私の胸を、静かに、深く、えぐった。


それでも、私は泣かなかった。


妃になるべく育ち、妃として嫁ぎ、妃として生きると決めていたから。


泣くことは、私の居場所を壊すことになる。


でも、その日から、毎晩のようにその音が聞こえてくる。

耳を塞いでも、声は通り抜けてくる。


時折、ソフィア様が小さく笑うと、エルネスト様もまた、微笑むのが分かった。


声の調子、吐息の長さ、絹擦れの間隔――

音だけで、ふたりのぬくもりがわかるようになってしまった。


日中の私は、誰よりも完璧だった。

ただ、それが、“王太子妃”の役目だったから。

内政の報告、王族としての顔合わせ、晩餐会の準備、各家の奥方との茶会。


エルネスト様の隣に立つ時、私は微笑みを決して忘れなかった。

国民の前で恥をかかせない。それが、妃たるものの務めだったから。


そう、王太子妃であること。未来の王妃であること。

それだけが私の支えだった。

昼の務めに没頭している間は、すべてを忘れられた。


エルネスト様も、ソフィア様も完璧に役割を果たしていた。

王太子妃を気遣う心優しい王子と、慈愛をもって見守る王妃。


そう、完璧すぎるほどに。


だが、夜が来ればまた、あの扉の向こうでその役割にはない音が聞こえる。


それが私の心を、少しずつ、確かに腐らせていった。


そんなある日のこと――

重苦しい静寂のなか、私はただ、寝台に身を投げていた。


静かだった。


隣室からの声が聞こえない夜なんて、何かの前触れのようで怖かった。


そんな夜は、ソフィア様は王の寝室にいるのだと、私はわかっていた。


早朝、私にそっと触れてくるソフィア様の、あの慈愛に満ちた微笑みを見なくて済むから。

それに――少しだけ機嫌の悪いエルネスト様は、”手の甲”にすらキスもしないから。


でも……静寂の中で響く小さな物音が、逆に私を怯えさせ、寝付けなかった。


――そのとき。


控えめな足音が廊下に響き、扉の前で止まった。

そして、寝室の扉の隙間から、小さな包みが滑り込む。


不審に思いながらも手に取ると、それは布に包まれた【蜜蝋】と【ラベンダーの束】だった。


耳を塞ぐものと、眠りを促す香り。


(これは……)


差出人の名はどこにもなかった。

けれど、私は――なんとなく、わかっていた。


いつも離れた席で静かに会釈してくれる、あの王弟のことを。

気づかないふりをしてくれてる人。


視線を交わさずに、そっと何かを差し出してくれる人。

無理に踏み込まないくせに、必要なものだけは知っている――そんな不思議な人。


(ありがとう……)


涙は、もう枯れていたはずだった。


でも、その瞬間――たった一筋。頬を熱いものが伝うのを感じた。


そして、胸の奥で何かあたたかいものが灯る。


なんて皮肉なのかしら。


こんなもの、本来ならまったく必要ないはずなのに――

今まで頂いたどんな贈り物よりも嬉しいなんて……。


その日、私は妃になってから初めて――深く眠った。

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