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第5話 私ではない夜

「……ぁ……」


重なるふたりの影から、ソフィア様の恥じらうような吐息がかすかに漏れた。


(まさか……そんな)


ありえない。

でも、目の前の現実がそれを否定しない。


「紹介しよう。僕の愛しい人――ソフィアだ」


それは、祝福を期待する者の声だった。


一瞬、視界が遠のく。世界がぐらりと傾く。それでも私は倒れなかった。

――まだ夢だと思いたかったから。


「彼女がこの王宮に来たその日、それが僕と彼女の“運命の出会い”だったんだ」


ソフィア様は頬を染め、首を傾けて潤んだ瞳で彼を見上げる。

白い襟元がわずかに開き、透けるような鎖骨に月灯りが揺れた。


「……え?」


私の口からようやく出た一言。


「驚かせてすまなかった……。でも君なら理解してくれると信じている」


エルネスト様は、優しく微笑んでいた。

それは、本気で、心からそう信じている者の笑顔だった。


頭が追いつかない。

思考の足場が、音を立てて崩れていく。


「だって君は、僕のことを何も知らないのに、 “愛してる”って言ってくれたじゃないか」


背筋が凍りつき、膝の裏が一気に抜けた気がした。

このまま倒れてしまえば、全部夢だったと信じられる気がして――。


「そんな君だからこそ、僕たちがどれほど深い絆で結ばれているかも、理解してくれると信じられた」

「わかるかい? 君じゃなきゃ、だめだったんだ」


喉の奥がきゅっと詰まり、息が浅くなる。

声を出したいのに、唇だけが震えて何も出せなかった。


「……っ」


「もちろん、誓って君のことも大事にするよ。

 君には君の役割があるし、彼女にも、僕にも、君の支えが必要なんだ」


ソフィア様は伏せた睫毛を少し上げて私に視線を向けると、うっすらと微笑んだ。


その笑みは、慰めか、勝利か、あるいは……慈愛なのか。


両手を胸の前でそっと重ね、恥じらうように微笑むその義母の姿に――

一滴の悪意も、敵意も、見出せなかった。


なのに、残酷だった。


「今日は特別な夜ですわね、エルネスト」


ソフィア様がそっと彼の手に自らの指を絡める。

その動きは慎ましく、無垢で、純真で――

なのに、私の“場所”を当然のように奪っていくことに、いささかのためらいもなかった。


そのとき私は――

この人は“聖女の顔をした、何か別のもの”なのだと、はっきり理解した。


そして、自分が“人間”のままでは到底かなわない相手なのだと思い知った。


「そうだね、ソフィア……これからは人目を気にせず、愛し合える。

 アリステリアには感謝しなきゃいけない」


エルネスト様の声がわずかにうわずっていた。

その瞬間、鼻の奥がつんと痛くなる。


ソフィア様は、私にはにかむような笑みを浮かべて小さく頷いた。

まるで、本気で感謝しているように。


そして、ふたりの目が引き合うように見つめ合い、穏やかに微笑み合った。

まるで、これからはふたりの時間だとでも言うように。


「さあ、アリステリア。君の寝室は隣に整えてある。

 君一人では贅沢なくらいのベッドだよ。

 そこの扉の向こうだ。今日は疲れただろう。ぐっすりと眠ってくれ」


彼は、かつて私を愛していると囁いたときと、まったく同じ笑顔でそう言った。


私は、一歩ずつ後ずさった。


扉……?

本来は本棚だったはずの場所に、今は扉がある。

その先は、確かにソフィア様の寝室だったはずなのに――


私は胸の奥に、鋭い痛みを抱えながら、ようやく声を絞り出した。


「……これは、何かの……ご冗談、ということは……?」


エルネスト様は目を見開き、小さく首を横に振った。

まるで、意外なことを言われたかのように。


「冗談なわけないだろう?

 君は僕を愛している。だったら、僕の幸福を喜んでくれ。

 君なら、そうしてくれると信じてるよ」


足元がふわりと浮いたような感覚。

立っているのに、どこにも重さを感じられなかった。


「……愛しているよ、アリステリア。

 だから君には、僕のすべてを受け入れてほしいんだ」


――愛してる。


その言葉で、最後の希望は崩れ落ちた。


静かな沈黙が落ちる。

その沈黙の中で――ソフィア様が、そっと頷いた。


それは、誰かを許す聖女のような、清らかで穢れのない仕草だった。

何のためらいもなく、当然のように、あたたかく。


「また、明日の朝食でお会いしましょうね」


ソフィア様の微笑みは清水のように澄み切っていた。

だが、銀鈴のような声の奥に――甘い震えが確かに漂っていた。


言葉が出ない。


何かを言いたいのに、何を言っても届かない。

……ただ、それだけはわかっていた。


閉まりかけた扉の隙間から、ふたりの影が重なってゆくのがぼんやりと見える。


「……っ、ぁ……ん……」


絹擦れの音と共にかすかな吐息が、扉の隙間から――甘く、震えるように零れた。


カチリ。


扉が閉まる音がして、そこから先は――もう、私の夜ではなかった。

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