第3話 幸せを信じて
そして新婦である私。
――公爵令嬢 アリステリア・ヴェルディナ。
私が手を添えるのは、私の父である公爵アントン・ヴェルディナ。
普段は威厳に満ちた父が、今日だけはどこかしんみりとした表情を浮かべていた。
幼い頃、手を引いてくれたその手が、今は私を送り出す手になる――
そう思うと、胸の奥がじんわりと熱くなる。
父の手を握ったまま、私は心の中でそっと呟いた。
――ありがとう、お父様。私は、ここで幸せになります。
この日を誇りに、そして生きる糧にして。
小さな子供たちが花びらを撒きながら先導し、その軌跡の上を私たちは歩いていく。
こんなふうに歩幅を合わせて歩くのはいつ以来かしら――
などと思いながら、私はゆっくりと王太子のもとへと進んでいく。
この瞬間を何度夢見たことだろうか。
政略結婚だったけど、はにかむ少年と初めてお会いしたあの日から、ずっと心待ちにしていた瞬間。
私はこみ上げる鼓動を宥めるようにゆっくり息を吸い、慎重に歩を進めた。
純白のドレスには緋色の薔薇が織り込まれ、王家の紋章と重ねられている。
背には、母が選んでくれた薄紅のヴェールがそよぎ、歩くたびにやわらかな香りが揺れた。
この国を支える貴族たちが整然と並び、私の一歩ごとに、波のように静かに立ち上がっていく。
「……アリステリア」
たどりついた先――彼の声は、いつになく柔らかかった。
普段の威厳の下に、誇らしさと──私だけに向けられた慈しみが滲んでいる。
父の手から、エルネスト様の手へ。運命を託すように。
指先が触れ合うその瞬間―― まるで、ふたりの間に何かがそっと流れ込んだ気がした。
「今日という日を迎えられて、僕は本当に幸せだよ」
「……わたくしも、です。エルネスト様」
その瞬間、胸奥の不安が雫のように溶けていく。
婚約から十年。
元は家のための婚約だったとしても──
時間をかけて触れた彼の優しさは、紛れもなく本物だと信じられる。
神父の宣言が高らかに響き、ふたりの名が読み上げられた。
王家と公爵家の婚姻。
それは、この国の未来を象徴する祝福のはじまり。
──そして私にとっては、人生で初めて他者に身を委ねる瞬間の、幕開けでもあった。
やがて誓いのキスの時が訪れる。
私が瞳を閉じた刹那、 彼の手が、絹ごしの布を通してもわかるほどそっと腰に添う。
生まれて初めて感じる、男性の体温。
触れた瞬間、体の芯がじんわりと熱を帯びていくのがわかった。
鼓動が速まり、睫毛が微かに震える。
柔らかな唇が触れる、そう確かに思った――
けれど、その寸前で彼の動きはふいに止まった。
「君は、本当にきれいだ――これは、今夜の愉しみにしておこう」
耳元で囁く声は絹のように甘く、首筋に熱い吐息がかかる。
ぞくり、と背筋を走る震えとともに、胸の奥がこぼれ落ちそうなほど高鳴った。
こんなふうに、胸が焦がれるほど想う気持ちを教えてくれたのも――
この人が初めてだった。
……それだけで、もう、十分だった。
会場に拍手が響き渡る。 私は、そっと彼の腕に身を預けた。
今日という日は、ただの始まりに過ぎない。
これからもっと、この人と――家族となり、お互いを支え合い、幸せを重ねていくのだと。
私は、何の疑いもなく、そう信じてた。
このときはまだ――信じることこそが愛だと、本気で思ってたから。
……笑っちゃうほど、無邪気にね。