あの夜を越えて、はじまりの朝(幕間:第17.5話):セイランSide【後編】
◆
記憶の湖の底から、再び水面へと浮かび上がり――
そこは、王城の離宮。夜も更け、灯火も尽きた頃。
彼女の静かな寝息だけが、夜の静寂に溶けていく。
――静かだ。
彼女の髪を撫でると、少しだけくすぐったそうに眉が動いた。
まるで夢の続きを見ているように、彼女はまだ微笑んで眠っている。
もし、あのとき兄上が王太子妃にソフィアを選んでいたなら、
兄王の後妻としてアリステリアが迎えられる未来があったかもしれない。
実際、王妃亡き後はソフィアが迎えられた。
だが――
……彼女が、兄の元に嫁ぐ未来など、今の俺には考えただけで耐え難い。
そうなっていたら、俺は――
たとえそれが許されぬことでも、
王の弟という立場すら顧みず、彼女を――奪おうとしたかもしれない。
「……まったく、らしくないな。俺も」
アリステリアの髪にそっと手を滑らせながら、セイランは目を閉じた。
*
エルネスト――我が甥にして、愚かな選択の末破滅した男。
あいつは、生まれながらに「次代の王」として扱われた。
まだ幼いうちから、父王にも、母にも、温もりの記憶など与えられなかった。
優しい子だった。
臆病で、不器用で――それでも、懸命に“理想の王子”を演じていた。
ほんの一度でいい。誰かに「愛してる」と言ってほしかったのかもしれない。
ソフィアは、それを与えたのだ。
無垢な笑顔と優しさで、彼の均衡を壊した。
……誰も止められなかった。
父に背き、愛を選び、狂った。
そして、王家を汚し、妻を裏切り、王座を踏みつけ、愛した人からも裏切られ――すべてを失った。
俺には思えてならない。
あいつは、ただ「愛されたかった」だけの少年だった、と。
――それでも。
国を壊してまで手を伸ばしたその結末を、同情する気にはなれなかった。
けれど――
かつて見た、泣きそうな顔をした、少年の頃のあいつを俺はまだ覚えている。
まだ、あいつが子どもだった頃――
抱きしめてやればよかったのかもしれない。
一度でも宰相としてではなく、叔父として、一人の男として接してやれていたなら――
あいつと笑い合う未来があったのかもしれない。
けれど、俺はあのとき、叔父であり、王弟であると同時に、宰相だった。
そして“次代を支える柱”であるべきあいつを、正しく導くことすらできなかった――。
「……ぁ……ん……」
ふいに彼女の吐息が甘く耳をかすめ、身体の芯がじんと熱くなる。
思わず腕を回し、眠る彼女を抱き寄せた。
まるで壊れ物のように、やさしく、慎重に。
そして、余韻を胸にもう一度、全身で彼女を感じる。
絹のような髪が頬に触れ、僅かに開いた唇から吐息を奏で、花のような香りが鼻腔をくすぐる。
長いまつげに唇を寄せれば、身体はかすかに重みを預け、指先をかすめる滑らかな肌の熱が離れない。
もっと――と願った瞬間、彼女は小さく身じろぎして、再び安らかな寝息を立てはじめた。
俺は苦笑すると、そっと彼女から手をほどき、天蓋を眺めた。
――この婚姻で、王権派との距離は確実に縮まった。
王としては、成果のひとつとすべきなのだろう。
だがその裏で、教会派との関係は確実に冷えていく。
しかも、前王妃を喪い、ソフィアまでも政治の駒としての意味を失くした今――
お互いに切れる手札がないのも事実。
(この確執は、俺たちの子供たちの世代にまで、引き継がれてしまうかもしれない)
国家の未来を見据えるべき立場にいる自分が、それを止められなかった……。
それでも。
「……今だけは」
あの日、幼き彼女に“運命”を感じたことを、いまさらながらに思い出す。
否定したはずだった感情が、こうして確かに、隣にいる。
今はもう、何も考えなくていい。
王権派と教会派、未来の火種、そんなものは――
せめてこの夜だけは、遠ざけておこう。
この温もりを抱きしめて、ただ眠ろう。
ようやく、手に入れた彼女と共に。
(守ろう。彼女も、この国も――俺のすべてを懸けて)
――すべての責は、この身で受ける。
俺たちの王国が、未来に何を遺すか。
それを決めるのは、もう俺たちだ。
今、この手に抱く彼女と。
いつか生まれてくる子どもたちと――。
愛する人の額に唇を落とし、安らかにまどろむ寝顔を見つめた。
「アリステリア……愛してる」
俺は微笑むと、再び目を閉じ――
夜は静かに、深く――祝福のように、過ぎていった。
Fin. Et leur vie continue.
(終幕。そして、彼らの人生は続いていく)
番外編:セイランSide、最後までお読みくださり、本当にありがとうございました。
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もしよろしければ、完結したばかりの『姉は聖女? ええ、でも私は白魔導士なので支援するぐらいしか取り柄がありません。』も覗いてみてくださいね。ざまぁ成分あり。愛され聖女の姉と「おまけ」の私のちょっぴり切ない恋と友情と姉妹愛の物語です。
これからも、少しでも皆様の心に残る作品をお届けしてまいります。




