あの夜を越えて、はじまりの朝(幕間:第17.5話):セイランSide【中編】
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王宮・謁見の間。
大理石の床に反射する夏の陽が、荘厳な空間を柔らかく照らしていた。
王と、その隣に並び立つ前王妃。
参列者たちは整然と並び、いましも王太子エルネストと、その婚約者が紹介されようとしていた。
「公爵令嬢、アリステリア・ヴェルディナ」
名が告げられ、銀の刺繍をあしらった深紅のドレスに身を包んだ少女が、
王太子エルネスト・フォン・クラウゼンベルクの隣へと静かに一歩進み出る。
――なるほど、これが。
俺は目を細めた。
まだ十二歳に満たぬ年頃だろうか。だが、その一挙手一投足は、驚くほど洗練されていた。
背筋を伸ばし、淡い緊張を微塵も見せずに玉座へと頭を垂れる。
訓練の賜物か、それとも――生まれ持ったものか。
いずれにせよ、よく仕上げられている。
ヴェルディナ家の矜持と、王太子妃たる器量の片鱗を、たしかに備えていた。
だが、気になるのはその瞳だ。
(……覚悟が、早すぎる)
大人たちに囲まれながら、少女はどこか醒めた目をしていた。
まるで、自らの“役割”を既に理解しているかのように。
俺はそっと視線を王へ移す。
王がこの縁組を急いだ背景には、明確な政治的意図がある。
王権派最大の家門との縁は、教会派への牽制に他ならない。
(……教会派の懐柔こそ、今の課題であるはずだが)
教会派と王権派の緊張は、いよいよ臨界に近づいている。
ソフィア・エレーヌ・フォン・オステリア――
その名が候補に挙がっていたことを、俺は知っていた。
王妃の姪にして、“聖女の再来”と称される少女。
教会派が推す存在として、彼女の名が挙がったのは自然な流れだった。
だが、王は王太子の妃にアリステリアを選んだ。
より確実な、盤石の後継構想を望んだのだろう。
――兄上らしい選択だ。
王妃はすでに病を得ており、今日の参列も身体に堪えるはず。
それでも、王の隣に立つ姿には、かつての威厳と静かな誇りが宿っていた。
金の髪を揺らしながら、王妃の傍らに控える少女。
病身の王妃を支えるように控え、参列者の目に入らぬよう自然に気遣っている。
その美しく整った顔に浮かぶ、まるで光を抱くような微笑――
なるほど、“神の加護”と呼ばれる所以は、この佇まいにあるのかもしれない。
彼女がソフィア――齢は十四。
天真爛漫な笑顔で周囲を和ませ、ごく自然に貴族の輪に入り込む。
聡明とは少し違う。だが、確かに人を惹きつける“光”を持っていた。
ふと、彼女とアリステリアの視線が交わる。
一瞬の間に、少女たちは穏やかな微笑みを交わし、静かに目を逸らした。
言葉なき挨拶。
政治の駒としてではない、ただの「少女同士」としてのやり取り。
ふと気づくと、エルネストの視線がソフィアに向いていた。
彼の視線に気付くと、ソフィアが柔らかに微笑んだ。
エルネストも応えるように、口元だけでわずかに笑う。
お互いに、まだあどけなさの残る顔立ちで――
だが、視線はしばし外れることはなかった。
そして、ソフィアの瞳が僅かに潤み、エルネストの妙に大人びた瞳が一瞬熱を帯びた。
(……やめておけ)
そう呟きかけて、俺は口をつぐんだ。
少年と少女の一瞬の感情に、大人が水を差すほど野暮ではない。
「……あの娘は、王家に迎えるには危うすぎる」
ふと、そんな言葉が胸をよぎった。
……だが、王はあの娘を“導ける”と信じていたのだろう。
そのやり取りを見たのは、俺と――もしかすると、アリステリアだけだったのかもしれない。
(……あの三人の視線の先に、何が生まれるかはまだわからぬが)
俺はひとつ、静かに息を吐いた。
王太子エルネストの傍らに立つアリステリア。
その背に宿るのは、覚悟か、諦念か、それともまだ幼い純真さか。
この婚約が、盤上の一手としてどれほどの意味を持つのか――
それは未来だけが知っている。
だが一つ、なぜかはっきりと感じたこと。
あの少女は、ただの飾りではない。
彼女は、この先――必ず何かを選ぶ存在になるのかもしれない。
……アリステリア……か。
この選択が、未来の扉をどう変えるのかは、まだ誰にもわからない。
仮に、ソフィア嬢が王太子妃に選ばれていたなら――
教会派との融和が進み、王権派との距離は遠くなる。
そうなれば、残る縁談候補は限られていたはずで……
俺の名が、浮かび上がっていたかもしれない。
ばかばかしい。
彼女はまだ十二の少女、俺はもう三十男だ。
そんな話、あり得るはずもない。
なのに――
(……五年もすれば、十年も経てば、などと。俺は何を考えている)
自嘲気味に眉をひそめたその時、
ふと彼女がこちらに気づき、まっすぐに視線を向けてきた。
澄んだ瞳。聡明な眼差し。凛とした気配。
そのどれもが、ただの少女ではなく、
ひとりの人間として――俺を見抜いているようで。
「よろしくお願いしますわ、おじさま」
そう言っているようにも感じた。
……まいった。
どうしても、目が離せない。
(聡明な娘だ。きっと、国政の話など、彼女と交わせる日が来るかもしれない。
彼女が王家の一員となる日が――少しだけ、楽しみだ)
いや、違う。違うだろう。
俺は宰相としてこの国に、命を捧げた身だ。
余計なことを考えるな。心を惑わすな。
……それでも、あの時の私は、運命と呼ぶしかない感覚に囚われていた。
俺は背筋を伸ばし、祝辞を述べるために一歩、玉座へと近づいた。




