第17話 誓いのキス
王都の空は、久しぶりに雲ひとつない青に澄み渡っていた。
春の風が、白いヴェールの裾を優しく揺らす。
今日は、国王に即位したセイランとその后アリステリアの結婚式だった。
かつての王太子の婚礼と同じ、王都最大の聖堂。
だが、今日この場にいる人々の顔には、偽りの笑みはなかった。
「セイラン・フォン・グラウゼンベルク。
汝はこの女を妻とし、一生愛することを誓いますか?」
「はい。この命にかけて」
「アリステリア・ヴェルディナ。
あなたは、本日より王妃として、この国の民と歩む覚悟をお持ちですか?」
「はい。わたくしの人生をかけて、彼とともに――」
白いドレスに身を包んだアリステリアは、静かに誓いを口にする。
その表情には、かつての硬さも、諦めもなかった。
指輪が交わされ、神官が結びの言葉を唱え終えると――
セイランは無言のままアリステリアの手を取り、唇を近づけた。
だが、口づけはせずに――そっと言った。
「アリステリア。心から、愛してる。
……それと、ずっと言えなかったことなんだけど――
君が妃候補として面会に来た日。あのとき、実は一目惚れだったのかもしれなくて」
アリステリアが驚いて見上げると、セイランは少し照れくさそうに笑った。
「……まあ、正確に言えば、目が離せなかったんだ。
“この子は、きっといつか――俺にとって特別な存在になる”って、そう思った」
その言葉に、アリステリアはふわりと微笑んだ。
彼は、少しはにかむように、こう尋ねた。
「……でも、本当に俺で良かったの?
俺なんて、もともと王になるつもりなんて全くなかったし、
君の隣に立つには、足りないところばかりで……。
それに、もう“王妃”なんて、こりごりかと」
セイランが、少しだけ不安げに笑う。
「ええ、わたくしは王妃になどなりたくありません」
「え?」
「ただ――“あなたと一緒なら、誇れる人生を生きられる”、そう思ったのです」
その瞬間、セイランの手に、少しだけ力がこもる。
「俺なんて……器用に笑うことも、甘い言葉をかけることもできないけど――
君の泣き顔だけは、もう二度と見たくない。それだけは本物だ」
アリステリアはふふ、と微笑むと。一言。
「初夜までおあずけなんて、言わせませんから!」
その言葉が終わるや否や、アリステリアは待ちきれなかったかのように――
背伸びするとセイランの首に手を回し、自ら唇を重ねた。
――セイランは一瞬目を丸くするが、目を閉じると彼女をそっと抱きしめた。
(……まさか、俺がキスされる側になるなんて)
セイランは不意にそう思って、少しだけ顔が熱を帯びた。
会場は割れんばかりの拍手で包まれた。
参列席に、涙ぐむ侍女たちの姿。
アリステリアの父、アントン・ヴェルディナ公爵と公爵夫人が微笑み、
その傍らで、先王の元側近たちが深く頭を下げる。
そして、鐘が鳴る。
清らかな音が、王都の空に吸い込まれていった。
*
結婚式のあと、庭園を歩くふたり。
セイランがふと、春の風を感じながら微笑んだ。
「……実は、兄上――いや、先王がご存命の頃、
ソフィア様を下賜した後のことを、俺に相談したことがあってね」
アリステリアは足を止め、そっとセイランを見上げた。
「そのとき俺……つい、言ってしまったんだ。
“もし、アリステリア様さえよろしければ、僕がもらいたい”って」
そう言ってから、セイランは少し視線を逸らした。
耳のあたりが、わずかに赤く染まっていた。
「……いや、あのときは本当に、ただの……願望というか、冗談のようなもので……」
小さく咳払いしながら、照れ隠しのように続けた。
「そうしたら、兄王はしばらく黙ってから――
“お前も、意外に欲があるのだな”って。微笑んでおられたよ」
アリステリアは目を細め、揺れる白い花にそっと目を落とし、
そして、そっと――微笑んだ。
やがて、いたずらっぽい目でセイランを見上げると、首をかしげてこう言った。
「……もし、そんなことが本当にあったとしたら」
ふわりと花のように笑い――
「――わたくし、迷わず“喜んで”と、お答えしていたと思いますわ!」
一陣の風が吹き、庭園の花々と二人の衣装を揺らした。
そして、ふたりの姿は光の中に溶け合い――
しばらくのあいだ、もう離れることはなかったという。
***
さかのぼること数か月前――
宮廷の片隅では、静かな処理が行われていたという。
元王太子エルネストは、父王を毒殺した罪により、すでに刑が執行されていた。
皮肉にも、毒をあおって。
彼は最期の瞬間まで、自らの正当性を叫び続けていたそうだ。
「僕は王になるはずだった……アリステリア、なぜだ……」
――だが、誰も答える者はいなかったという。
一方、王妃ソフィアは、先王の赦しにより罪を問われることはなかった。
しかしその日を境に、何かを贖うように――静かな祈りの日々を過ごしたという。
まるで、本物の“聖女”のように。
なお、彼女の身に宿っていた命については――
記録にはただ、“流産”とだけ残された。
その真偽は定かではない。
しかし、王家の血筋に、名もなき命が加わることは――永遠になかった。
その後、王太子エルネストの死は“政務の重責により心を病み、自ら命を絶った”と発表された。
国は喪に服し、次代を担うべき若き貴人の死を悼んだという。
すべては、王家の名誉と、国の安寧のため。
本当のことを知る者は、ほんの一握り――
そして、王座に就いた新たな王は、誰よりもその重さを知っていた。
“真実”を守るために、語らぬという選択を――彼は、背負っていたのだ。
すべては、終わった。
――次回、最終話『エピローグ』




