第10話 絶望
王都に喪の鐘が鳴り響いたのは、明け方のことだった。
老王――フリードリヒ五世。
四十年にわたって国の舵を握り続けた大王の崩御は、あまりにも唐突で。
王城の高みに、風に翻る黒旗――
その下に立ち尽くす私は、ただ、言葉を失っていた。
父王の崩御から、三日。
民衆への哀悼の儀が終わり、王宮では次期国王の戴冠を控え、粛々と準備が進められていた。
あの日、崩御の報せが届いた時も、
「いつもありがとう。アリステリア」
そう言って微笑みかけてくださった父王の姿が、まだ瞼の裏に焼きついて離れない。
私は――まだ、信じられずにいた。
けれど、父の死は容赦なく“現実”を連れてきた。
――夫の即位。
そして、心の準備もできないまま、王妃としての務めを果たさねばならないということ。
そして……
それ以上に、私を打ちのめす“事実”だった。
「……王太子殿下が、次の妃を?」
「……アリステリア様。その、もしかして……まだお耳に入っていなかったのですね?」
侍女のその声は、まるで他人事のように軽くて。
けれど私には、それが――冷たい石畳に背中から叩きつけられたような衝撃だった。
「新王となられる殿下が……
先王の后、ソフィア様とご成婚なさるそうです。
おそらく、第二王妃としてお迎えになるのだと……。
戴冠式の一週間前に、正式に発表されると伺っております」
“新王”と“先王の后”――
そのふたつの言葉が、私の喉を締めつける。
胸が、張り裂けそうだった。
父の喪も明けぬうちに、彼女が――
“再び王妃”になるというのか。
まさか――。
いや、まさかなど、今さら言えた義理ではなかった。
私はすでに知っていた。
眠れぬ夜を、幾夜も重ねて、隣室から漏れる音に身を縮めながら、
“その事実”に何度も向き合ってきたのだ。
それでも、今なお心のどこかで信じていた。
彼女が正式な夫の妃に……。
けれど、せめて昼だけでも、王妃としてあり続けられるなら……。
ひとり、人気のない回廊を戻る途中――誰かの視線を感じた。
ふと振り向くと、廊下の奥、影の中に立っていたのは王弟セイランだった。
彼はなにも言わず、ただ静かにこちらを見ていた。
けれど、その視線が“同情”でも“軽蔑”でもないことだけは、なぜか分かっていた。
***
「お集まりいただき、感謝する」
玉座の間に、粛然とした空気が張り詰めた。
礼服に身を包んだ廷臣たちの列。その最奥、王位を継承する者が静かに立つ。
黄金の肩章と青い紋章をまとった夫――王太子エルネスト・フォン・グラウゼンベルク。
「このたび、父王フリードリヒ五世の崩御に伴い、私は次代の国王として即位する所存である」
堂々とした声が響き渡る。
「そして、王として国を治めるにあたり、新たに正妃を迎える」
その言葉に、重臣たちの間にわずかなざわめきが走った。
(え……今……なんて?)
「正妃、ですと……!」
「では、アリステリア様のお立場は……?」
一拍置いて、エルネスト様は宣言した。
「その方は――先王の后、ソフィア・エレーヌ・フォン・オステリアである」
空気が凍りついた。
一瞬、誰も何も言えなかった。
「……っ、な……」
私の喉が、ひゅう、と音を立てた。
何かを言おうとした。けれど、声にならない。
目の前に立つ彼は、誇らしげに微笑みながら、なおも続ける。
「彼女は、私にとって特別な存在であり――
生まれ来る我が弟を、私はこの手で育てていくつもりだ」
「っ……!」
(嘘……そんな……だって、彼は――私の……)
言葉が浮かんでは消え、喉の奥で燃え尽きた。
「この国の未来を担う新たな命を宿す彼女を正妃とし、
私は王としての務めを果たしていく。
これこそが、父王の遺志であり――我が心からの誓いだ」
一呼吸の沈黙の後――
「なお、王太子妃であるアリステリアには、これまでの功績を鑑み――
第二王妃の地位を与えるものとする」
……私を一瞥もしないまま、彼は言い切った。
まるで、“私”など初めから存在していなかったかのように。
視界の端に、玉座の間の片隅――
儚げに佇むソフィア様の姿が映る。
伏せられた睫毛。痛みを抱くような表情。
その姿は、とても“正妃”として喜びに満ちているようには見えなかった。
……いや。
実際に彼女は、あの方は――本気で、先王の死を悼んでいるのだろう。
あまりのことに、私は一歩も動けなかった。
ゆらぐ視界の中で、彼女がそっと歩み寄ってくる。
私は思わず、一歩だけ後ずさった。
彼女は、目の前でそっと袖の中から――
白いハンカチを差し出した。
「泣いてしまわれましたの? お顔が赤いわ」
首を傾げて語り掛けるその声は。
まるで本気で心配する母のように――優しく。
そして、どこまでも残酷だった。
「アリステリア様? これからも“二人で”、王を支えてまいりましょう」
薄手の喪服の裾が、ふと風に揺れ、わずかにふくらんだ腹部が浮かび上がった。
母のように。
勝者のように。
すべてを手にした女のように。
そして、“怪物”のように――。
私にだけは、そう見えた。
彼女はいつも、清廉・潔白で慈愛に満ちている。
その愛の深さは、きっと――底がない。
父王も、エルネスト様も、私も。
使用人も、国民さえも――等しく愛してしまうのだ。
しかし、それが、王宮の秩序も私の心も――
同時に壊していることを、彼女が理解することはないだろう。
こんな女性に敵うわけがない。私にとって、彼女はまさに“怪物”だった。
そして、その”怪物”は、私の耳元に近付くと恥じらうように小さく囁く。
「……あの、もしかして、ちょっと気が早いかもしれませんけれど……。
今後の“夜の分担”について、でしたら……」
一瞬だけ言葉を切って、彼女は続けた。
「わたくしからも、王に口添えしておきますわ」
そして、微笑みを浮かべながら最後に一言。
「……きっと、王もお喜びになりますわね?」
その瞬間、私は――息を呑んだ。
一度だって”分担”などしたことはなかった。
彼はそんなことで喜ばない。
でも、この人は、本気だ。
その言葉は、鋭いナイフのように胸を貫き――
絶望だけが、すべてを覆っていった。
私は耐え切れず、ハンカチを押し返すと、振り返ることもなく――
口元に手を当て、静かにその場を去った。




