第1話
ステータスなんて、俺にはいらない。
そう思ったのは、異世界に飛ばされて三秒後のことだった。
――いや、もっと正確に言えば。
「汝、自らの力を開示する覚悟はあるか?」
と、声が頭の内側に響いた瞬間、俺は反射的に「見ません」と答えていた。
音でも声でもなかった。振動も発音も、どこから聞こえたかもわからない。
ただ、“言葉”だけが直接、思考に流れ込んできた。
見えない。触れられない。でもそこに“在る”と感じる。
こちらを見下ろしているわけでも、包んでいるわけでもないのに、圧だけが満ちていた。
理屈ではなかった。これは神だ――と、思った。あるいは、それに類する“何か”。そう直感するしかない、異質な存在だった。
そして俺は、「ステータスを見ない」と宣言した。
それが、俺のこの物語の始まりだった。
名前と、俺自身のこと
……あ、名乗ってなかったな。
俺の名前は、秋月澪。二十四歳、独身。東京都下にある中小企業で、事務職として働いていた。趣味はネット小説を読むこと。口癖は「まぁ、いっか」。感情は少なめ、人付き合いは狭め。それでも、自分なりに折り合いをつけながら、静かに、ちゃんと生きていた――つもりだった。
それが突然、終わった。
いつも通りの昼休み。オフィスで弁当を食いながら、スマホで天気を見ようとしたとき、画面がぐにゃりと歪んで、次の瞬間には“ここ”にいた。
境界も温度もない、真っ白な空間。
そして、俺の中に響いたのが、さっきの“声”だった。
「秋月 澪――汝、選定されし者なり」
声には感情がない。けれど、意味だけが強烈に刺さる。異常なまでの“意志”が、音すら介さず脳へ届いてきた。
「この世界の法により、汝にステータスを授け、命運を委ねる。与えられしは、力の結晶――スキル、称号、職能、能力値、成長の素質」
「いま、汝のステータスを開示せん。――覚悟はあるか?」
「見ません」
その場で、即答した。
「……何故、見ぬのか?」
神――としか思えない存在が、ゆっくりと問いかけてきた。
その声に感情はない。だが、軽さはまるでなかった。静かな威圧感が、じわじわとこちらに染み込んでくる。
「理由……ですか?」
俺は、なんとなくその場に正座して答えるような心地で口を開いた。音は出ていない。これは声じゃなくて、思考と“会話”している感覚だ。
「ただ、疲れたんですよ。数字に」
数字で生きて、数字で判断され、数字で線を引かれる世界。偏差値、評価点、査定ランク、フォロワー数。そのどれにも俺は、ほんの少し届かず、でも完全に置いていかれるわけでもなく。
「ずっと、“まあまあ”って数字で、生きてきたんです」
それが現実世界だった。
ただそこにいただけ。努力して、迷って、それなりにやった。だけど、結局――“数字にしやすい人”に、全部もっていかれる。
だから、もう、いいやって思った。
「俺が俺を知るのに、ステータスなんかいらないです」
神は、沈黙した。深く、深く、沈黙した。
その沈黙のあいだ、空間は音も温度も持たず、ただ“圧”だけがあった。
「……稀なる意思」
ようやく、言葉が戻ってくる。
「斯様な選択をとる者、この千年においても数人に満たず。汝、真にそれを望むのであれば――我は応じよう。ただし、代償は大きい。スキルの名も、効果も、適性も、職能も。すべては不明のまま。汝の力は、経験によってのみ、輪郭を得るであろう。それでも、なお選ぶか?」
俺は少しだけ考えた。でも、考えるまでもなかった。
この選択は、“納得”だった。深く理屈で決めたわけでも、感情に任せたわけでもない。
ただ、心の底が――この選択を「正しい」と感じた。
「……はい」
その瞬間、空気が動いた。
光の粒が空中に舞い、世界の輪郭が揺れた。
「ならば、行け。名を持ち、記憶を保ちしまま、新たなる大地に降り立つがよい」
「神」としか呼べない存在の声が、最後にこう告げた。
「これは祝福ではない。――試練である。それでも、汝が望むのならば……目を開けよ」
眩い光が爆ぜた。次の瞬間、俺は異世界の森の中で目を覚ました。
木々のざわめき。草の匂い。湿った土の感触。
五感が、現実の重みを取り戻していく。
「……森、か」
目の前に広がるのは、深く、濃い森。日本の雑木林とはまるで違う。木々の幹は太く、葉は硬質で、空の色もどこか深い。鳥の声も、虫の音も、なかった。風だけが、静かに通り過ぎていく。
俺は立ち上がり、身なりを確認した。
スーツ。白シャツ。革靴。肩から斜めにかけたビジネスバッグ。
「……これは、さすがに浮くな」
苦笑しながら足元を見ると、土に靴がめり込んでいた。滑る。歩きにくい。とはいえ、この場でスニーカーに着替えられるわけもない。俺は無言のまま、森の中を歩き出した。
方向感覚はない。方角もわからない。でも、下り坂を選べば、いずれ水に行き着く。たぶん。
歩きながら、ふと思う。
「……ステータス、見てないんだよな」
この状況、普通ならまずスキルや体力を確認して、装備やアイテムを整えて……ってなるのかもしれない。でも俺は、なにも知らない。知らないまま、ここにいる。
だからこそ、不意に現れた“それ”にも、気づくのが遅れた。
――魔物。
黒い体毛。刃のような爪。紅い目。見た瞬間、逃げるべきだと理解した。
でも、逃げられなかった。
足が、動かない。
いや、本当は動けたのかもしれない。けれど、何かが引っかかった。逃げたくない。というより、逃げる“意味”が分からなかった。
魔物が跳ねた。牙をむいて迫る。俺は、とっさに右手を突き出した。
――光が爆ぜた。
視界が白く、音が消え、空気が爆風のように巻き上がった。
気づけば、魔物はどこにもいなかった。 血も肉も残らず、ただ、焦げた匂いと削れた地面だけが残っていた。
「……やった?」
俺は、自分の右手を見た。特別な感覚はない。ただ、何かが抜けたような疲労感が少しだけあった。スキル名も、発動方法も、何も知らない。それでも、“俺がやった”という実感はあった。
「……チート、なんだろうな」
思わず、ぼそっと呟く。誰に聞かせるでもなく、でも確かに、そう思った。でも同時に、怖くもあった。この力が、どうして発動したのか。どれだけ強いのか。制御できるのか。
俺には、何もわからない。
ステータスを見ない。スキルを知らない。職業も成長も、“自分の仕様”すら不明。なのに――俺は、魔物を一撃で吹き飛ばした。
「……これから、どうなるんだろうな」
夕暮れが近づき、空が赤く染まり始めていた。俺は、なぜか寒くない空気の中で、肩をすくめた。
この世界で、俺は何者になるんだろう。
異世界転移。スキル不明。ステータス非表示。正体不明。なのに生きている。力がある。
俺は異世界で、“異物”として始まった。
でも――
「悪くないかもな」
そう呟いて、俺はまた、歩き出した。
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