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夏子を甲子園のマウンドへ

 新学期が始まった。

 夏子は高校二年生。野球部員でポジションは投手。練習試合では何イニングかを無失点で投げるだけの実力があった。だけど高校野球では女子の公式戦出場は認められていない。

 一定の実力があるのにどうして公式戦で…

 そういう思いはあったけれど、夏子は公式戦では記録員やマネージャー役に徹し、チームを支えていた。だけどいつの日か女子でも公式戦に出られる日が来るといいな。いつもそう願いながら、選手として、マネージャー役として頑張っていたのだ。

 彼女は男子よりもやや非力ではあったけれど、投手以外のどのポジションも器用にこなしたし、また練習が終われば後片付けもグラウンド整備も率先してやっていた。だから他の男子部員からも、とても好かれていたし信頼もされていた。

 そんな夏子とよく話をするのは同級生の飯田だった。もちろん男子。だけど飯田は体が小さく、それに夏子とは反対に、野球はあまり器用ではなかった。だから滅多に試合に出してはもらえなかった。

 それで公式戦では、夏子とは飯田は代わる代わるスコアブックを付けたり、ベンチから声をかけたり、そして試合後の後片付けや、とにかく裏方として奮闘していたのだ。

 だけど飯田は野球が不器用なだけで、実際は野球にとても詳しく、公式戦の前には、熱心に対戦校の偵察なんかをやり、それを詳しくノートに書いて皆を驚かせたりもした。


 そんな飯田と夏子は教室でいろんな話をした。

「夏子ちゃんは野球センス抜群だからうらやましいよ。だけど僕なんかセンスないし体小さいし…」

「野球は体力やセンスだけでやるものじゃないんだよ。たくさん練習して、守備とかバントとか、盗塁だって上手くなればいいし」

「だけど僕、足遅い」

「でも盗塁はスタートが肝心じゃない。ピッチャーの牽制とかクイックを見ながらさあ」

「あはは、そうだよね。夏子ちゃん牽制うまいし」

「それに守備も上手になれるでしょ。監督に頼んでもっとノックしてもらいなよ。それとも私がノックしてあげようか?」

「本当? やった! 僕、守備なら少しくらい上手くなれるかも」

「なれるって!」

「じゃ、がんばろうかな」

「そうだよ、がんばろうよ。それに試合では、相手チームの情報もとても大切だし、だから飯田君の偵察ノートはすごく役に立っているし、それで勝ち負けが決まることだってあるでしょう」

「そうかなあ?」

「そうよ。きっとそうよ。みんなもそう言ってるし」

「じゃ僕もチームで活躍してる?」

「もちろん! 飯田君は今やチームに欠かせない存在だよ」

「本当?」

「だって飯田君はとても野球に詳しいし、偵察が出来るって事は、選手を見る目も確かだってことでしょ」

「あ、もしかしてそうかも。たしかに僕、いいピッチャーって、何となくピンと来るんだ。バッターもそう」

「でしょう? もしかして飯田君、将来立派な指導者になれるかもよ」

「そうかなあ?」

「そうよ。きっとそうよ。それと…」

「それと?」

「一緒に甲子園、行きたいよね!」

「うん!」


 そんな幸せな日々が続いた、それから少し過ぎた四月の半ばのこと。

 夏子は以前から、何となく体がだるかったり、微熱が続いたりもした。それで心配になった夏子は、念のため両親とともに病院を受診した。

 そこでいろんな検査を受け、そしてそれが、ただ事ではない病気であると判明したのだ。

 それから夏子の両親が病院の一室に呼ばれ、主治医からの説明を受けた。

 そして主治医から一通りの話を聞き、愕然とした夏子の父は言った。

「夏子は、助かるのですか?」

「この病気は、とてもよく効く薬があります。しかし再発も多い病気です」

「助かるのですか?」

「最善を…、尽くしてみます」

 夏子の両親が何度聞き返しても、主治医の口からは、「最善を…」という答えしか帰ってこなかった。


 それから夏子はただちに入院し、療養生活が始まった。

 入院当日、話を聞きつけた飯田は真っ先に夏子の病室を訪れた。それから飯田は、

「早く治して、また野球やろうね」とだけ言って帰って行った。

 それからしばらくして、薬による治療が始まった。これは約一か月を要した。この治療で夏子の病気自体は随分と良くなった。

 だけど薬の影響で、夏子は全身のけだるさと吐き気に悩まされ、食欲もなくなった。

 母はそんな夏子のために、彼女の好物をいろいろと病室に持ってきてくれたけれど、夏子の体はほとんど受け付けなかった。だから、点滴で栄養補給を受けているという状態がしばらく続いた。

 そして夏子の髪の毛はほとんど抜けてしまった。

 それを見かねた母は、ベイズリー柄の黄色いバンダナを夏子に買ってあげた。

 それは夏子にとてもよく似合っていた。


 夏子がそんな療養生活を過ごしているうちに七月になった。

 全国高校野球大会の地区予選が始まった。

 夏子の病状も一段落し、食欲も出て、最小限の面会も可能になった。

 そこで予選最初の試合の数日前、野球部の監督、キャプテン、そして飯田が見舞いにやって来た。

 髪が抜け落ち、頭にバンダナを巻いている夏子の姿に彼らは驚いた。しかし夏子が気丈に振る舞い、意外と元気そうにも見えたので、彼らは少しだけ安心した。

 そして飯田は、「そのバンダナ、素敵だよ」とだけ言って、帰って行った。


 それから野球部の全員は「夏子を甲子園に!」と結束した。飯田はどの試合でも試合前には入念に偵察を行い、詳細なノートを用意した。そして地区予選では奇跡的なファインプレーやピッチャーの好投も生まれ、次々と勝ち進んでいったのだ。

 そして県の決勝戦。

 夏子は病室のテレビでこれを観戦した。夏子は神に祈った。

「どうか彼らが甲子園へ行けますように…」

 そんな夏子の祈りが通じ、何と彼らは決勝戦を勝ち抜き、甲子園出場が決まった!


 それから飯田は真っ先に、そのことを夏子に報告に来た。

 夏子は大喜びした。

「やったね!」

「ねえ、夏子ちゃん、一緒に甲子園、行こうよ!」

「うん! だけど私の病気が…」

「大丈夫だって。そんなに元気じゃん!」


 それから飯田が帰ろうとして病院の廊下を歩いていると、夏子の両親と主治医の先生らしい人が、少し深刻そうな顔をして、どこかの部屋へ入っていくところが見えた。

 飯田は夏子の「だけど私の病気が…」という言葉が心に引っ掛かっていた。

 それで飯田は彼らが入った部屋のドア近くで聞き耳を立てた。

 だけど人に見られるとまずいと思っていたら、うまいことに診察用の衝立が廊下に置いてあったので、それを持って来て、小柄な飯田はそれに身を隠した。

 それから飯田はドア越しに、夏子の病名と、それが予想外に厳しいということを聴き取った。


 主治医から話を聞いた夏子の母は病室に帰った。

「先生、何て言ってた?」

「夏子が甲子園に行けるように、一生懸命努力しているそうだよ」

「私も甲子園、行きたいなぁ」

「そうね。行けたらいいよね。夏子は夏の申し子だもんね。お母さんも夏子が甲子園へ行けるように、神様に祈ろうかな」


 それから飯田は家へ帰り、病院の廊下で立ち聞きした、夏子の病名をネットで調べた。

 それを見て飯田は唇をかんだ。そして夏子に思いを巡らせた。

(夏子ちゃんはあれだけの実力のあるのに、公式戦には出られない。それよりも何よりも夏子ちゃんの病気…)

 それから飯田は一晩布団の中で悶々とし、いろいろ考えて、そして次の朝閃いた。

「署名だ!」


 それから飯田は大至急パソコンで署名用紙を作り百枚ほど印刷し、早速学校へ行くと数枚を野球部員に渡し、そして自転車で各校を巡った。

 彼はいろんな高校へ偵察に行っていたから、高校の場所なんかもよく知っていたし、他校の野球部員に顔見知りも多かったのだ。

「何だい、お前さんとこはすでにうちには勝っているのに、また偵察に来たのかい?」なんて冗談半分に言われたりもしたが、多くの高校では夏子のことはよく知られていたし、だからみんな、「夏子を甲子園のマウンドへ!」という署名用紙を快く受け取ってくれた。

 そしてその署名用紙はどんどんコピーされ、それからどんどん各校へ広がり、そして県内の学校関係者を中心に、瞬く間に一万人以上の署名が集まり、飯田の元へ届けられた。

 そしてその日のうちに、飯田はその一万人以上もの署名を段ボールに詰め、自転車の荷台に乗せ、県の野球連盟の事務局のある、とある高校を訪れた。

 そして彼は県の連盟の理事長である、その高校の教頭に面会していた。彼は一万人余りの署名を前に、その教頭に話をした。

「お願いします。夏子ちゃんを甲子園のマウンドへ!」

「たしかに君の気持もよく分かるけど、規則だからねえ…」

「規則…、ですか?」

「男子と女子では体力差がありすぎるんだよ」

「ずいぶん前に、身長160センチに満たない選手が甲子園で活躍しています」

「そんなことがあったのかね」

「僕、甲子園の歴史、いろいろ調べています」

「だけどやっぱり規則だから…」

「でも男子だけなんていう規則があるのは、高校野球だけです。プロ野球も女子を排除していないし、独立リーグには女子選手もいます。日本にも、アメリカにも」

「だけど野球連盟は生徒の安全を考えて…」

「安全? 心臓震盪症ですか?」

「心臓震盪症? うん。確かにそれもある」

「ボールが胸にあたって、心臓が止まる事故でしょ。だけどそのために、AEDもあるじゃないですか」

「君は詳しいんだね」

「いろいろ野球のこと勉強しています!」

「ほう」

「それに、体力のない女子のことが心配なら、守備でもヘルメット着用とか、心臓震盪症の予防のために胸部プロテクターを付けることを義務付けるとか、やりようはいくらでもあるじゃないですか!」

「う~ん。たしかに君の言いたいことは分るよ。だけどそれは全国的な話だから、私の一存でどうこうという訳にもいかないんだよ」

「それじゃ、女子選手にも試合出場をという声を地方からでも挙げれば、この署名も添えて、そしたら、全国の理事会でも検討してくれるんじゃないでしょうか?」

「地方から声を上げれば…」

「ええ。だから地方から声を上げましょうよ」

「う~ん…」

「上げましょうよ!」

「しかし君はどうしてそこまでその娘のために…、君はその娘のことが好きなのかい?」

 すると飯田は一瞬顔を赤くして、だけどそれから毅然として言った。

「夏子ちゃんのこと、夏子ちゃんのこと…、好きです。大好きです! だけど、片思いです。だけどそんなことより、そんなことより、夏子ちゃんは仲間です。一緒に練習して一緒に汗をかいて、一緒に甲子園を目指して…」

「そうだよね。うん。その気持ちは、私にもよく分かるよ。私もかつては高校球児だったんだ。だから君の気持はよく分かるんだ」

「それはありがとうございます! だけど…、だけどそれだけではありません」

「それだけではない?」

「先生、あの…、秘密、守ってもらえますか?」

「秘密?」

「はい」

「いいよ。どんな秘密でも守ろう」

「実は…、実は夏子ちゃんは…、夏子ちゃんは、重い病気なんです」

「え!」

「いま病院で治療を受けて、一時的にかも知れないけれど、とても良くなっています。だから今なら甲子園へ行けるかもしれません。いや、きっと行けます。だけど、何カ月か後に再発するかも知れません。だから、だから、夏子ちゃんに来年の夏は、もしかしたら…」

「もしかしたら、来年の夏が…」

「はい」

「一体君はどうして、そんなことを?」

「実は僕、野球部では補欠です。だけど偵察の名人と言われています。だから夏子ちゃんの入院している病院で…、あ、でも先生、お願いだから、それ以上僕にそのことは訊かないで」

「…分かったよ。訊かないよ。秘密も守るよ」

「ありがとうございます。それと、夏子ちゃんのこと、よろしくお願いします!」

「う~ん。その娘に来年の夏は…」

「ええ…」

「そうか…」

「だから、だからお願いします!」

「君の熱意はよく分かった。私も最大限努力する。そのことは約束しよう。だけど…、だけど正式な選手出場が可能どうかは、私には何とも言えない。しっかりと交渉はするけどね。でもこの場で君にそれを保障はできない。だけどもしかして、もしかして、きちんと背番号の付いたユニフォームを着て、始球式ということは可能かもしれないな。うん。それなら可能かもしれないよ。よし! それも含めて、全国の野球連盟にかけあってみよう。約束するよ」


 その頃病院では夏子の主治医、内科部長、そして病院長が夏子のことで相談をしていた。

 実は夏子の主治医は野球部のOBで、もちろん「夏子を甲子園のマウンドへ!」にも署名をしていた。

 しかし病院の内科部長は否定的な意見を述べていた。

「病態は落ち着いているとはいえ、治療の影響で免疫力も低下しているんだよ。甲子園までの往復と試合中に感染症を起すかも知れないし、ストレスで病状が悪化するかも知れない」

「だけど彼女は甲子園に行くことを希望に、辛い治療にも耐えてきたんです」

「しかし今の状態で彼女を何百キロも旅行させるのは…、しかも真夏の炎天下の甲子園にいるなんて」

「だけど彼女はそのために辛い治療を…」

「だけど私は彼女の安全に責任が持てない」

「それじゃ僕が甲子園まで付き添います。万全を尽くします。新幹線は個室もあります。それで行けばいいでしょう」

「それは個室ならある程度感染症は防げるかも知れないけど…、しかしやっぱり無茶だ。それに、一体何のために?」

「先生、僕は…、僕は夏子ちゃん同様、高校球児でした。だから、だから甲子園に行くということが、高校球児にとってどれほど大きな意味があるのかを知っています。僕らは甲子園に行くためなら、どんなに辛い練習も出来ました。夏子ちゃんだってそうです。治療だってとても辛かったはずです。だけど夏子ちゃんは弱音ひとつ吐かず、高校生の女の子が、髪の毛が抜けてしまっても、それでも必死に治療に耐えました」

「たしかにその気持ちは、私にも分るけど…」

「だから…、だからお願いです。彼女を甲子園に行かせてください」

「しかしねえ…」

「お願いします。せめて一試合だけでも、いや、一球だけでも。彼女を、夏子を甲子園のマウンドへ!」

「うーん…」

 そのとき、傍らでその話を聞いていた病院長が言った。

「話は分かった。病状もかなり落ち着いているし、今なら絶好のチャンスかも知れない。それに私は、出来ることなら、彼女に悔いの残らないようにしてあげたいんだ。だから…、だから途中で彼女に何かあったら私が責任を取ろう。夏子ちゃんを甲子園へ連れて行きなさい」


 それから少しして、夏子の主治医と飯田は息を切らして走ってきて、ほぼ同時に夏子の病室へ入り、二人は代わる代わる夏子に言った。

「夏子ちゃん、甲子園に…」

「夏子ちゃん、甲子園に…」

「きっと、行けるぞ!」

「多分、マウンドに立てるぞ!」

「それとね、夏子ちゃん。主治医である僕が、絶対に君を守るからね。そして絶対に絶対に、君の病気を治すからね!」

「そうだよ夏子ちゃん、きっと治るって!」

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